こんなニュースがちょっと前から気になっていて
おつうが教職がメインの学科にいることもあって
新聞記事でも教育関係のものが目に付く。
リーダーを決めれば差別につながる、との抗議を人権団体などから受け自粛した結果、
「学級委員長」を置かずにきた地域の学校に
市の教育委員会が2、3年前から子供達の社会性、自主性を育てるために復活を呼び掛けてきたそうな。
運動会で順位付けをしないとか 勝ち負けを争わない競技を中心にするとかというのも
その流れと同じかと思う。
アニが小学生のころも既に 「みんな同じに」という考え方は主流で
微妙なところでリーダーを置かない もしくは実質リーダーだけど
表面的にはリーダーではない 基本的にはみんなでという雰囲気は見え見えだった。
思い起こせば 私が高学年の2年間実施されていた
今の教師が聞いたら卒倒するんじゃないかというクラスの班分けシステムがあった。
他の学校から転任してきて 5年の担任になった先生、
いきなり 「班長」を8人(だったかな?)を選挙で選出。
その得票数で1位から8位までの格付けがされる。
そして 班長選で次点だった8名を「副班長」候補となる。
8位の班長から 自分のパートナーとしてふさわしい副班長を指名していく。
なぜ 8位からかというと 8位というのは班長の中でも
クラスの信頼が一番薄かった ということになるから
たくさんの選択肢の中から選ぶ権利がある というのだ。
そして 得票数の多かった1位の班長は
信頼が厚いわけだから どんな副班長ともうまくやっていかれるであろうから
最後に残った いわば残り物の副班長とでも 大丈夫というもの。
そして次は班員の指名が始まる。
当然8位の班長から ○○さん、××くん と班員を指名していく。
その際、1順目、2順目(第1指名 第2指名と言っていた気がする)に指名された児童は
その指名を拒否することはできない。
なぜなら その班にとって 最も必要とされているからという理由。
3順目以降は その班ではいやだという場合は 拒否ができた。
班長副班長そしてすでに選択された面子によっては 快適な班生活が送れないと
判断した場合とか 別な班に仲良しがいるから次の指名を待とうとか
指名される側の都合もOKだ。
さて 当然最後に何人か残る。
ぴったり クラスの人数が班の数の倍数なら、
単純に最後の一人が1位の班長のもとへ引き取られるから
さほど問題ない。
しかしながら たいていは二人か三人 それも毎学期同じメンバーが
残されることになる。
まずはどの班もだんまりになる。
そして 最終的には じゃあ…うちで…という班が出てきて
先生の「えらいな さすがだな」という言葉とともに
また回を重ねるごとに 1位当選の班長がその重責に耐えかねて引き取る…という
とても重苦しい時間のあと 無事全員の所属が決まる。
そして それぞれの班は1班 2班とか 「仮面ライダー班」「サザエさん班」とか
流行りものの名前をつけるような 生ぬるいものではなく
「加瀬班」とか「大泉班」というように班長の名前が付けられ
学級内の係、掃除当番、給食、遠足から 学習一般も含め、すべてにおいて
班責任で執り行われる という、今思うとオソロシイシステムだったのだ。
(あーここまで書くのに結構疲れた。読む方も疲れることでしょう)
よくあれで登校拒否になる児童がいなかったと思うよ。
班員指名の緊張もさることながら
班長も「信頼の有無」という格付けのもと、リーダーとして成長することを
要求される。
いい子はどんどんいい子に嫌われ者はどんどん嫌われ者に
敗者復活のチャンスなんかなかったものなぁ。
当時はこのシステムをそういうもんだと受け入れていたけれど
ちょっと怖いものだったと思う。
これを今の学校に持ち込んだら それこそ凄いことになるだろうなぁ…。
逆に「学級委員長」のようなリーダーを置かない教育を受けてきたアニやおつうたちは
リーダーシップを取ることにある種の抵抗があるようだ。
一生懸命公共事業に参加するのは格好悪い、くらいに思っている部分もある(笑)
「どの子も同じように」というのは指導者の目が
「どの子にも同じように」行き届くべきである と思うのだけれど。
選ばれた子にも選ばれなかった子にも。
もちろん 「どの子にも同じように」リーダーシップを取るチャンスを
経験させてあげるというのにも使えると思うけれど。
「学級委員長」を置く置かないとはちょっとズレてしまったかな?
でも なんだか久しぶりに小学校時代を思い出してみたpmでした。
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高学年を送っていたのですな(笑)
でも昔はみんなこんな感じでしたよねぇ。。。
ウチのお子達は…スポーツをやっていたせいか
必然的に強い・弱いという差をつけられる世界で
過ごしてきた。
もちろん親としては強い側にいて欲しいが
悲しいかな…2人とも弱い側にいてねぇ(笑)
弱者を持ち上げるのは…いやはや大変(笑)
学校は…教師も生徒もみんな“お友達”感覚。
もちろんそこに父兄も入るからすごい(笑)
格差のない社会って…永遠の課題だよねぇ。。。
社会に出れば必然的に格差をつけられちゃうのにね。
今の小学生が40歳代ぐらいになると。。。
上司も部下もいない…その他大勢的な社会が作られちゃうのか?
年齢を関係なくみんなで和気あいあい的な?
やっぱりハングリー精神が必要じゃない?
pさん小学生時代のシステムは、さすがにおそろしい気がしたけど、でも、そこまで極端ではないにしろ、そういう時代でしたよね。
だから、今の時代の「みんな同じ」的発想には違和感を感じ続けています。
だってさぁ~社会が「みんな同じ」的平和な日本になるとは考えられない。
実際、我が夫は、pさんの小学生時代の班システムでいうところの班長さんで、
会社のお荷物の『おぢ』と『おねいちゃん』をおしつけられている。
最後まで指名のなかった子は、その班編制時が苦痛で辛く悲しかっただろうなと同情する反面、
今、我が夫が押し付けられている困ったちゃん達には同情どころか、憎しみさえ感じる妻です。
が、一位当選の夫は、黙々と彼らを指導している。これは、「みんな同じ」的教育を受けていない彼だからこその忍耐力でしょう。
ちなみに、妻は彼よりだいぶ若く「一人はみんなのために、みんなは一人のために」的教育のハシリの頃なので、自分が出来ない事は、すぐ人に頼っちゃおう!と思います。
そうか 女王の教室と来たか・・・。
ン十年たってもこれだけ鮮明に描写できるんだから
相当脳裏に焼き付いているんだろうね。
スポーツの世界はなぜか「みんな同じ」ではないね。
「one for all , all for one」の野球だって
熾烈なポジション争いの世界。
うちの子たちが妙に打たれ強いところがあるのは
中学時代のこわーい野球部顧問(二人ともお世話になった)のおかげかも(笑)。
かといって この先生のやり方は
客観的に考えても
その後の人生つぶしちゃった子もいるんだよな って
ふと思ってしまいます。
当時はやっぱり何でも出来る子がなんでもやって
出来ない子はできないだけじゃなくて
その存在すら否定されちゃうような時代だったのよね。
それがきっと「金八先生」みたいな先生が増えたことで 教育感もかわったんだろうなぁ…。
「腐ったミカン…」はもう私のあとの世代の話だと思うとなんとなく。
それにしてもご主人はほんとに出来たお方と思っていたけど
内でも外でも苦労してらっしゃるのねぇ
(あら 内でも なんて言ってしまって おほほほ 失礼)
だけど 「みんな同じ」ってやっぱりちがうんだよな って思う。
うまく言えないけど。
それに近い決め方をしてましたよね。あの時代は・・
今考えると震える・・
自分の子供たちが同級生に最後の一人と思われていたらどうしよう・・って・・
もう皆成人しちゃったけどあの子達の時代じゃなくて良かった。って逆におもったりして・・
でも、長男が中学生の時、先生が個性の尊重という名目で、明らかに勉強する気が無くて勉強してない子のことを「勉強出来ないのも個性」です。
といった言葉にはカチン!!ときましたけどねー
パシッと答えもでないし。
なんだか難しい(怖い)時代になっちゃって
学校という枠から解放されるとホッとするくらいで・・。
私達の頃は友達のような親とか先生とかが
いいって思う走りだったんじゃないかな?
でも、怖い人の存在も必要な気もするこの頃。
リーダーになるべく人、そのお手伝い役の人、
縁の下の力持ちの人・・いろんな敵役があって当たり前と思うけれど
劣等感とかやっかみとか生まれるのは
親のせいなのか世の中のせい?うぅむ。
「みんな違ってみんないい!」
違うからこその面白さがうまいこと
それぞれの自信につながるようにいい方法ないかなぁ?
>指導者の目が
「どの子にも同じように」行き届くべき・・・
そうだねそうだね。
昔は当然のように行われていた班決めとか
グループ分け。
なんでも個性といってもしまうのも問題アリ。
でも とりあえず 自分の子が最後の一人にならなくてよかった って
思ってしまう自分も…(ちと悲しいけど)
SMAPの「ナンバーワン」と「オンリーワン」もここに由来するんだろうなぁ。
…となんだか的を得ないレスでごめんなさい(^_^;)
金子みつをさんのあの詩も
こういう時代もあったんだなと
思わせる。
でも 教室で子供たちに接していると
いろんな子がいるなぁ と思う。
この時代に ああいうクラス活動が行われたら
ほんと モンスターペアレンツ登場で
えらいこっちゃ…えらいこっちゃだよね。
両面から考えても(笑)