(冬は坂道が大変、みな腰をかがめて登っていく 画像は飲食店の多い花園町界隈の坂)
全国に坂の街として有名な都市は、神戸、長崎、尾道、函館などいくつか挙げられます。いずれも港町で背後に山が迫っています。わが街小樽も、そう言う街の一つだと思っております。小樽の有名な坂道とその周辺を紹介いたします。
最初は街の海よりの小高い丘に立つ水天宮周辺の坂です。水天宮は標高50数mあります。この水天宮に登るには四つの坂道がありますが、一番急なのが「外人坂」です。水天宮に建てられた案内板では、上に赤い文字で記されています。
(見難いですが水天宮の真上に「外人坂」とあります 左下に「職人坂」があります)
(境内から外人坂を見る 戦前坂の入り口付近にドイツ人が住んでいたことからそう呼ばれるようになった)
(境内からの港の眺めは抜群 石狩、札幌方面を望む 中央左の逆U字の建物はフェリーターミナル)
さて水天宮を外人坂と反対側に下りると、山田町の通りにぶつかります。案内板では左側が「職人坂」となっていますが、右側の通りも含め、このあたりは、私が学生時代(S37-41)には、建具、仏壇、家具などの木工関連企業がひしめき合っておりました。しかし道路が狭く運送に不便なことや、朝里に新しく木工団地が出来たための多くは移転し、或いはその後の不況で廃業してしまいました。今では僅かに4-5軒が残るだけです。
(今では仏壇店2軒、木工所2-3軒だけになってしまいました)
さて次は小樽で最も急な坂と思われる「色内小学校の横の坂」です。浄応寺の坂とも言われています。小樽駅前から余市方面に向かう国道5号線は、手宮の崖を目前に90度左に回る稲北十字街に出会います。この十字街から正面の崖の切り通しを上っていくのが、この坂です。なんと標識には19%の坂道とあります。100m進んで19m登る事になります。
(頂上付近からは途中が見えません 冬はヒーティングしていないとくるまは昇り降りできません)
次は小樽で最も有名な(独断です)船見坂です。坂の名前の通りこの坂から埠頭に入った船が見えるんです。そしてこの坂の頂上付近一体は富岡団地として開発され、瀟洒な建物が建っております。
(坂の先には今日(9月20日)入港した「にっぽん丸22千トン」が見えます 中年の夫婦が手を取り合って登って来ます)
(素敵な住宅やアトリエなどが港を背に立ち並んでいます)
さて今回取り上げた坂道の最後は「地獄坂」です。地獄坂は二つあります。一つは、産業会館前の国道5号線から、JRの高架橋(富岡橋)を超えて、浅草寺までの坂道です。登ると警察署、社会保険事務所、小樽税務署など、庶民にとってコワ~イお役所が立ち並んでいます。ということで、いつしかこの通りを地獄坂と呼ぶようになりました。
(高架橋を超えると左に先ず小樽警察署が目に飛び込んでくる 坂とは言いがたいほど平坦…)
もう一つの地獄坂は、妙見市場辺りから国道5号線を横切り、小樽商大までの坂道です。学生の頃(S37-41年)、メルヘン広場付近の親戚宅(現自宅)から山田町(職人坂)、花園町を通り、この大学に4年間通いました。夏の朝は背中に朝日を浴び、帰りにも背中に夕日を浴び、冬は天狗山吹き降ろしの吹雪を顔面に受けながら通いました。
当時はバスどころか車もほとんど無い時代です。それでいつしか学生も教官もこの坂を「地獄坂」と呼ぶようになったのだそうです。小林多喜二も伊藤整もこの地獄坂を通いました。伊藤整の小説「若い詩人の肖像」に当時の様子が、書かれております。
(昔は砂利道でバスもなかった 徒歩通学で行きは50-60分、帰りは40分かかりました)
(小林多喜二も伊藤整も通った当時の校舎 今はこの緑丘と呼ばれた校舎は取り壊されてしまった S39撮影)
大変失礼いたしました。
9月20日の舟見坂、僕も行ってました(笑
あの船が飛鳥Ⅱだったのですか、なんだか大きい船が入っているなぁという認識しかありませんでした(笑
文章は適当ですよ。一応読み返しはしますが、それでも文脈が違っていたりとか…
昔公庫の調査部におり、12年間調査執筆を専門にしていましたので少しは書けるかも…
Mahaさん、帰国直後で、ブログに写真載せたり、ツィッター書いたり、若いことが羨ましいです。19%の坂道はヒーティんがしていないと上れないですね。小樽では、車は四駆が普通、私のうちの前の三本木坂(地図右上端の僅かに見える)8%の勾配ですが、冬はここでもスリップして登れない車がありますよ。
19%はすごいですね。凍結すれば車は登れないでしょうね?
しかし地獄坂の名前はおもしろいですね^^