前回は、各学年の授業風景を取り上げました。引き続き休憩時間や放課後の児童の様子を取り上げていきたいと思います。なお前回のブログの最初の運動会の画像については、前年度の画像でしたのでお断りしておきます。
(カメラを向けると、愉快な格好をしてくれました 子供たちは何処までも陽気で)
(この次の時間は体育で、縄跳び道具を持って体育館に行くらしい)
(昼休み時間は、自由教室で縄跳びに興じる児童たち)
ちなみに量徳小学校では、全学年を通して、縄跳びに力を入れていて、昼休み時間でも児童たちが縄跳びをしているのを見かけます。この日自由教室では、二重飛びを連続20回、30回を続ける児童が続出。驚きました。縄跳び競技は、量徳祭りや、PTAイベントでも披露されましたし、4年生の授業参観日に訪れたときにも体育の時間で披露されました。
(自由教室で、縄跳びに興じる友達をよそに、我関せず悠々読書)
(休憩時間中に図書室の掃除 4年生の担当 カメラを向けるとお決まりのポーズ)
(2年生のクラスではタニシの飼育がおこなわれていました 閉校後は何処に引き取られるのかな、気になります)
(6) 雪あかりの雪像づくり (2月4-5日)
量徳小学校最後の思い出づくりの一つとして、父兄、教師、児童たち100数十人が集まり、正門前に雪あかりの路の雪像およびスノーキャンドルを作りました。あいにくの天気でしたがピカチューとドラえもんの雪像が出来上がりました。途中からは激しい吹雪になりましたが、お母さん方が作ってくれた暖かいお茶やココア飲み、インスタントラーメンを食べて体を温め、児童たちは頑張りました。なお詳細については、当ブログ2012.2.11付け「量徳小学校~最初で最後の雪あかりの雪像づくり」を参照。
(正門の両側に大きな雪像が、中央には「夢量徳」の看板が掲げられました)
(7) 父兄参観日 (2月18日)
この週は、孫3人ともに父兄参観がありました。月末で仕事上休めないという娘に代わって、18日の4年生の授業参観に行ってきました。授業科目は体育ということです。前半は普段練習に力を入れていた縄跳びの披露です。全員二重飛びも上手くできました。また二本のロープを交差させながらその中を抜けていく、結構難しい競技も上手く出来ました。後半は児童と父兄のドッジボール大会です。授業の後は、校長先生のお話があり、その後担任の先生との懇談会がありました。
(さすが練習の成果が出て、全員綺麗に飛べるようになりました)
(8) 閉校式 (2月18日)
この日は閉校事業記念誌の写真班として式の撮影を行いました。来賓、父兄、卒業関係者を含め200人以上の方々が出席されたようです。体育館にあふれんばかりの参加者数です。校長先生、市長はじめPTA会長の挨拶があり、さすが校旗返還では、涙ぐむ父兄が続出。これで本当に量徳小学校が閉校になるという実感で、感極まったのでしょうか。
(吉田校長先生の挨拶)
(手前が、市、議会、教育関係の来賓、中央が児童たち、後方が父兄や量徳関小学校係者)
(式辞の後は、児童たちが量徳小学校での思い出を、父兄に語ります 130人の児童が一人ひとり思い出を語ります)
(最後に全員で校歌斉唱)
(体育館の後方に貼られた版画の顔も心なしか淋しそうで…)
(かつての卒業生たちも感無量の様子)
(9) 卒業式 (3月19日)
次女が10数年前にここ量徳小学校を卒業した時以来の卒業式への参列です。あの時も、私が昭和30年代に経験した式典とは異なっていたことに驚きましたが、今回も違いを感じたのは「蛍の光」が全く歌われなくなっていたことでした。代わって歌われたのは、「大切なもの」(全校合唱)、「さようなら」(在校生合唱)、「旅立ちの日に」(卒業生合唱)だったことです。もう一つは、来賓祝辞の後の、在校生代表による送辞、卒業生代表による答辞がなくなり、形が変わって在校生、卒業生ともに全員が一言送辞、一言答辞を述べたことでした。児童数が少ないからこそできるのでしょうね。
(式典の前に卒業生の記念写真撮影 後ろでVサインの児が…このまま撮影、これも時代の流れ…?)
式は国歌斉唱に始まり、校歌斉唱、そして卒業生25名に卒業証書が授与されました。その後学校長の式辞、来賓の祝辞へと進んでいきます。そして在校生全児童による一言送辞、卒業生の一言答辞へ進みます。
(卒業生の答辞)
(蛍の光に代わって、卒業生による「旅立ちの日に」が歌われた)
最後は全校生徒による合唱「大切なもの」が歌われ、在校生の楽器演奏に合わせて卒業生退場で式典が終了です。
(6年生の教室では担任の先生に、児童が一人ひとり花束を贈呈 先生も感極まりお礼の言葉に詰まる)
(在校生、父兄の見送りに、いつもは陽気な児童もこの時ばかりは涙、涙)
(我が家のいたずら孫=紀斗・左、も無事卒業しました)
(10) 過去の記念誌及び今回の閉校記念誌から
前回のブログでも書きましたが、明治6年開学の量徳小学校は、小樽で最も古く138年の歴史がありました。過去の記念誌等から抜粋した画像を孫が頂いたCDを見る機会がありましたので、いくつか抜粋してここに転載したいと思います。
(明治11年新築なった学校 この落成式には第3代北海道開拓使長官黒田清隆が臨席、祝辞を述べたとも言われています)
(旧校舎が焼失 新しく建て替えられた校舎)
(昭和12年土俵開きに駆け付けた、名横綱双葉山 昭和11年1月から14年1月までの69連勝はいまだに破られていない)
量徳小学校閉校記念誌『夢量徳』 最終ページから
おじいちゃん、おばあちゃんの時代から
この学校は僕らのことを見守っていてくれた
優しい眼差しで 暖かいぬくもりで
いつでも僕らを包んでくれた
この学び舎はなくなってしまうけど
目を閉じればいつでも見えて来るよね
君との出会い 共に過ごした懐かしい日々
あの時 君が側にいてくれたから
僕は今 ここに立っていられるんだよ
ありがとう 量徳小学校
ありがとう 記憶の中の輝かしい時間
(カメラを向けると、愉快な格好をしてくれました 子供たちは何処までも陽気で)
(この次の時間は体育で、縄跳び道具を持って体育館に行くらしい)
(昼休み時間は、自由教室で縄跳びに興じる児童たち)
ちなみに量徳小学校では、全学年を通して、縄跳びに力を入れていて、昼休み時間でも児童たちが縄跳びをしているのを見かけます。この日自由教室では、二重飛びを連続20回、30回を続ける児童が続出。驚きました。縄跳び競技は、量徳祭りや、PTAイベントでも披露されましたし、4年生の授業参観日に訪れたときにも体育の時間で披露されました。
(自由教室で、縄跳びに興じる友達をよそに、我関せず悠々読書)
(休憩時間中に図書室の掃除 4年生の担当 カメラを向けるとお決まりのポーズ)
(2年生のクラスではタニシの飼育がおこなわれていました 閉校後は何処に引き取られるのかな、気になります)
(6) 雪あかりの雪像づくり (2月4-5日)
量徳小学校最後の思い出づくりの一つとして、父兄、教師、児童たち100数十人が集まり、正門前に雪あかりの路の雪像およびスノーキャンドルを作りました。あいにくの天気でしたがピカチューとドラえもんの雪像が出来上がりました。途中からは激しい吹雪になりましたが、お母さん方が作ってくれた暖かいお茶やココア飲み、インスタントラーメンを食べて体を温め、児童たちは頑張りました。なお詳細については、当ブログ2012.2.11付け「量徳小学校~最初で最後の雪あかりの雪像づくり」を参照。
(正門の両側に大きな雪像が、中央には「夢量徳」の看板が掲げられました)
(7) 父兄参観日 (2月18日)
この週は、孫3人ともに父兄参観がありました。月末で仕事上休めないという娘に代わって、18日の4年生の授業参観に行ってきました。授業科目は体育ということです。前半は普段練習に力を入れていた縄跳びの披露です。全員二重飛びも上手くできました。また二本のロープを交差させながらその中を抜けていく、結構難しい競技も上手く出来ました。後半は児童と父兄のドッジボール大会です。授業の後は、校長先生のお話があり、その後担任の先生との懇談会がありました。
(さすが練習の成果が出て、全員綺麗に飛べるようになりました)
(8) 閉校式 (2月18日)
この日は閉校事業記念誌の写真班として式の撮影を行いました。来賓、父兄、卒業関係者を含め200人以上の方々が出席されたようです。体育館にあふれんばかりの参加者数です。校長先生、市長はじめPTA会長の挨拶があり、さすが校旗返還では、涙ぐむ父兄が続出。これで本当に量徳小学校が閉校になるという実感で、感極まったのでしょうか。
(吉田校長先生の挨拶)
(手前が、市、議会、教育関係の来賓、中央が児童たち、後方が父兄や量徳関小学校係者)
(式辞の後は、児童たちが量徳小学校での思い出を、父兄に語ります 130人の児童が一人ひとり思い出を語ります)
(最後に全員で校歌斉唱)
(体育館の後方に貼られた版画の顔も心なしか淋しそうで…)
(かつての卒業生たちも感無量の様子)
(9) 卒業式 (3月19日)
次女が10数年前にここ量徳小学校を卒業した時以来の卒業式への参列です。あの時も、私が昭和30年代に経験した式典とは異なっていたことに驚きましたが、今回も違いを感じたのは「蛍の光」が全く歌われなくなっていたことでした。代わって歌われたのは、「大切なもの」(全校合唱)、「さようなら」(在校生合唱)、「旅立ちの日に」(卒業生合唱)だったことです。もう一つは、来賓祝辞の後の、在校生代表による送辞、卒業生代表による答辞がなくなり、形が変わって在校生、卒業生ともに全員が一言送辞、一言答辞を述べたことでした。児童数が少ないからこそできるのでしょうね。
(式典の前に卒業生の記念写真撮影 後ろでVサインの児が…このまま撮影、これも時代の流れ…?)
式は国歌斉唱に始まり、校歌斉唱、そして卒業生25名に卒業証書が授与されました。その後学校長の式辞、来賓の祝辞へと進んでいきます。そして在校生全児童による一言送辞、卒業生の一言答辞へ進みます。
(卒業生の答辞)
(蛍の光に代わって、卒業生による「旅立ちの日に」が歌われた)
最後は全校生徒による合唱「大切なもの」が歌われ、在校生の楽器演奏に合わせて卒業生退場で式典が終了です。
(6年生の教室では担任の先生に、児童が一人ひとり花束を贈呈 先生も感極まりお礼の言葉に詰まる)
(在校生、父兄の見送りに、いつもは陽気な児童もこの時ばかりは涙、涙)
(我が家のいたずら孫=紀斗・左、も無事卒業しました)
(10) 過去の記念誌及び今回の閉校記念誌から
前回のブログでも書きましたが、明治6年開学の量徳小学校は、小樽で最も古く138年の歴史がありました。過去の記念誌等から抜粋した画像を孫が頂いたCDを見る機会がありましたので、いくつか抜粋してここに転載したいと思います。
(明治11年新築なった学校 この落成式には第3代北海道開拓使長官黒田清隆が臨席、祝辞を述べたとも言われています)
(旧校舎が焼失 新しく建て替えられた校舎)
(昭和12年土俵開きに駆け付けた、名横綱双葉山 昭和11年1月から14年1月までの69連勝はいまだに破られていない)
量徳小学校閉校記念誌『夢量徳』 最終ページから
おじいちゃん、おばあちゃんの時代から
この学校は僕らのことを見守っていてくれた
優しい眼差しで 暖かいぬくもりで
いつでも僕らを包んでくれた
この学び舎はなくなってしまうけど
目を閉じればいつでも見えて来るよね
君との出会い 共に過ごした懐かしい日々
あの時 君が側にいてくれたから
僕は今 ここに立っていられるんだよ
ありがとう 量徳小学校
ありがとう 記憶の中の輝かしい時間
将来の財産ともいえる、教育を軽視する為政者をトップに抱える小樽市の将来は、悲観せざるをえません。一向に止まらない人口流失、観光に安易に頼る市、先が見えてきません。
量徳は私も、家内も卒業生ではありませんが、孫たちの通う身近な存在でした。ぽっかり穴の開いたような気持ちです。
昭和12年の土俵開きに双葉山、羽黒山、名寄岩が、来ていたとは、驚きですね。それにしても、ブログの文書や歴史の事、まとめ方など勉強になります、流石です。