紅露の写真日誌…北の大地・夢空間

小樽・札幌の風景、イベントが中心

古い話、古い写真

2010-07-18 06:00:00 | 写真
17日(土曜日)に、延期していた雨竜沼登山に行ってきました。詳細については後日ブログで紹介いたします。今回は、生まれ育った雨竜でカメラを始めるきっかけとなったことなどを中心に、古い画像を交えてお話したいと思います。



雨竜町は、三方を石狩川、尾白利加(オシラリカ)川、恵岱別川に囲まれ、もう一方の奥を暑寒別岳連峰に囲まれた水田地帯です。現在は転作で半分は畑作地帯になっているようです。親父は役場に勤めており、住宅は役場裏の官舎でした。官舎と言っても、木造の古い建物で、隙間だらけ。冬は新聞紙で目張りをしていたものです。


(住宅前で遊ぶ付近の子供たち、モノの無い時代、遊びは自分達で考えた 小西六製のKoniletteで撮影、S33年頃)


(住宅横の空き地で遊ぶ子供たち 後ろに肥え汲み取り用のひしゃくが見えるのが笑える S33年頃)

このような田舎町にも、昭和30年代にはカメラブームがやってきました。欲しいと思っても当時高価なカメラなど中学生の私には、買えるはずがありません。同じ思いを持っている中学仲間に豆腐店のT君がおりました。

いつも彼とカメラのパンフレットを取り寄せたは、これが良い、あれが良いと話し合っておりました。そこで思いついたのが、彼の店の豆腐を自転車に乗せて二人で町内を売り歩くことでした。一丁売れば、〇円の手数料が入るから、一日○十丁売れたとして、数ヵ月後には、おおカメラが買える、はずでありました。



(中学校同級生のT君(左)と小生 なお、T君は20歳頃病死されました 合掌)


毎日学校が終わると同時に自転車の荷台に豆腐桶をくくりつけ、町内はもとより、遠く田んぼ路を走り、農家にも売り歩いたものでした。しかし、一日に売れたのは数丁で、殆どが売れ残りました。と言うよりは、なんせ当時の田舎道は砂利道です。がたがた揺れる度に豆腐が崩れ、売り物にならなくなってしまったのでした。

取らぬタヌキの皮算用であえなくこの作戦は失敗。そうこうしているうちに、役場の職員の間にもカメラブームが広がり始め、親父も大枚はたいてパールⅢ型の蛇腹カメラを購入したのです。当時は、二眼レフカメラや蛇腹カメラが全盛の頃でした。

これ幸いとカメラを持ち出し学校でも取りまくりました。同級生のマドンナ達を追い掛け回した記憶がよみがえります。これが、カメラを始めるきっかけとなりました。写歴だけは、50年以上になります。

次の二枚の画像は、中学の遠足の際に撮ったものです。上段は尾白利加川にかかる吊橋で遊ぶ友人を撮ったものです。下段は、遠足時の集合写真ですが、男子生徒の一割以上はカメラを持っていたようです。


(S33年頃の画像 小西六製のParlⅢ型で撮影)


(隣町の新十津川玉置神社へ遠足に行った時の集合写真 卒業アルバムから複写)


最後の画像は、中学校の勤労動員(懐かしい言葉です…)で農家の稲刈りを手伝った時の風景です。秋には稲刈り、春には田植えの動員がありました。またこれらの時期には学校も数日間休みになりました。田園地帯特有の事情なんでしょうね。故郷を離れて以来50年近くたちます。今も続いているかどうかは分かりません。


(卒業アルバムから複写 制服・セーラー服で作業していますね)

ともあれ、カメラをはじめたのは、中学生頃はやったカメラブームがきっかけで、同級生のマドンナ達を追い掛け回したのがはじめての写真撮影になります。昭和33-34年頃です。なお、中学校以降の話は、別の機会に触れたいと思います。
コメント (6)
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