噛みつき評論 ブログ版

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歴史に残るワースト判決・・・医療崩壊に決定的な役割を果たした大阪高裁判決

2008-03-24 11:43:41 | Weblog
 『救急医なら知らぬ人がいない判例がある。大阪高裁が03年10月、奈良県立五条病院に対し、救急患者の遺族に約4900万円の支払いを命じた判決。事故で運ばれた患者は腹部出血などで亡くなり、病院側は「当直の脳外科医が専門外でも最善を尽くした」と主張したが、裁判所の判断は「救急に従事する医師は、専門科目によって注意義務の内容、程度は異ならない」だった。
 白鬚橋病院長で都医師会救急委員長の石原哲は訴える「どんな優れた医者でも、何でもできるわけではない。専門外まで対応できなければ過失があるというのなら、受入れを制限せざるを得ない」』(08/02/08朝日新聞より)

 この判決のあと、当直医の専門外の患者に対する受入れ拒否の動きが起こったのは当然です。その結果、救急搬送された患者が医療機関から受け入れを拒否されるケースが、都市部を中心に激増しました(参照)。

 この判決のため、受入れ拒否に遭い、命を落とした人がいるかもしれません。医療機関側も防衛的な医療を余儀なくされ、そのためによりよい医療機会を失った人もいるでしょう。

 判決は救急医療機関にあらゆる専門医を待機させることを要求するものであり、医療資源の有限性や現状を理解しない空論に基づくものと思われます。問題はたったひとつの不適切な判決が社会にきわめて重大な影響を与えたこと、それを回避する有効な手段がとられなかったこと、あるいはとり得なかったことです。

 他の例としては1966年の旭川学力テスト事件があります。旭川地裁は全国学力テストを違法とする判決を下し、これ以降40数年間の学力テスト空白期間のきっかけになりました。テストの意義よりも、細かな法の解釈を多分恣意的に優先した結果、日本の教育界は教育の成果を確認する手段を失いました。成果を見ずして正しい方針がどうして決められるでしょう。ひとつの無思慮な判断が国の教育を左右したわけです。

 これらの判決を下した裁判官の見識と判断能力には疑問をもたざるを得ません。また、そのような人物が影響の大きい重要な職にとどまり、新たな判決を出し続けるのであれば、その体制も問題だと思います。映画「それでも僕はやっていない」は冤罪の怖さと共に裁判官の資質の差を問題にしています。

 福島県立大野病院産婦人科の医師は業務上過失致死に問われました。しかし裁判官は死刑判決を出し、執行後に誤判が判明した場合でも業務上過失致死に問われた話は聞きません。事実上、冤罪による理不尽な死や損害に対しては誰も責任を負わなくてよいシステムです。

 裁判官達にとっては大変幸せな仕組みですが、反面、この仕組みは不適格者を排除する機能が弱いことが問題です。問題ある判決を連発する裁判官は出世の道が閉ざされるという程度のことはあるでしょうけど、余程のことがない限り、野放しを防ぐことは無理でしょう。

 形式的には裁判官弾劾裁判所がありますが、戦後行われたのは7回に過ぎず、理由も児童買春、破産管財人からの物品供与などであって、判決内容に関するものは皆無です。

 裁判が外部の力によって影響されないために、裁判官の独立性が必要なことはわかりますが、独立性が強すぎると問題のある裁判官が温存されることになります。 できれば法曹以外の立場からのチェックが必要ではないでしょうか。

 一般論ですが、無責任な組織は緊張感のない仲良しクラブになりがちです。責任を追及されなければ、不適格者を排除するという強い動機は生まれません。不適格者が強い権限をもつ と大きな不幸を周囲にもたらします。

 多くの裁判官は人を裁くという重要な仕事に高い職業倫理をもって臨んでいると思います。その点、人の命を預かる医師も同様だと思います。しかし医師を告発する裏に、すべての医師が信頼できるわけではないという前提があるのなら、裁判官にも同じ前提があってしかるべきでしょう。

 素人考えながら、裁判の判決をチェックし、それが裁判の質にフィードバックされる仕組みがあってもよいと思います。もっとも司法の独立性の一部に制限を設けるような仕組みは法曹界みずから提案することはないと思いますが。

 それともモンスター級の判決も、裁判官の独立性に伴う、仕方ないものとして甘受するしかないのでしょうか。

 独立性とチェックシステムは二律背反の関係ですが、中間の適正解を求める努力があってもよいと思うのです。