噛みつき評論 ブログ版

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竹槍事件の意味するもの・・・首相の暴虐

2008-09-01 20:56:53 | Weblog
 前のコラムで東条元首相と新聞の戦争責任に触れました。終戦の約1年半前に起きた竹槍事件は両者に深い関係をもち、また当時の特殊な状況を理解するのに有益なのでその概要を紹介したいと思います。以下は「太平洋戦争と新聞」(講談社学術文庫)からの引用です。

『44年2月23日の「毎日」第一面真ん中に、
「勝利か滅亡か、戦局はここまで来た。竹槍では間に合わぬ。飛行機だ、海洋航空機だ」
という5段抜きの記事が載った。

「太平洋の攻防の決戦は、日本の本土沿岸において決せられるものではなくして、数千海里を隔てた基地の争奪をめぐって戦われるのである。本土沿岸に敵が侵攻してくるにおいては最早万事休すである。・・・・・敵が飛行機で攻めてくるのに竹槍をもっては戦い得ない。問題は戦力の結集である。帝国の存亡を決するものはわが海洋航空兵力の飛躍増強に対するわが戦力の結集如何にかかって存するのではないか」

 本土決戦、女性から子供まで竹槍主義で一億玉砕を唱えていた陸軍のアナクロニズムをズバリと批判した。同日の社説「今ぞ深思の時である」でも、「必勝の信念だけでは戦争に勝てない」と軍部の精神主義を正面からやっつけていた。

「然らばこのわれに不利な戦局はいつまでも続くのか、どこまで進むのか。われ等は敵に跳梁を食い止める途はただ飛行機と鉄量を敵の保有する何分の一かを送ることにあると幾度となく知らされた(略)。

 この記事は一大センセーションを呼び、全国から賛辞の嵐がわき起こった。読者から圧倒的な支持を受け、販売店や支局からも大好評の報告が入った。海軍省報道部の田中中佐は、この記事は全海軍の言わんとするところを述べており、部内の絶賛を博しております、と黒潮会(海軍省記者クラブ)で述べた』・・・(引用終わり)

 一方、この記事に竹槍精神を強調していた東条首相は激怒し、記事を書いた新名記者の退社を要求しますが、高田編集総長は責任は自分が負うと、これを拒否し、間もなく高田編集総長らは辞任します。極度の近視で兵役免除になっていた37歳の新名記者はその後、東条の意向によって懲罰召集され、「玉砕」の硫黄島へ送られるところを海軍によって救われます。東条は毎日新聞の廃刊をも企てますが、これは周囲の反対によって断念します。

 以上がこの事件の概要ですが、記事は竹槍精神を正面から批判してるだけでなく、「不利な戦局はいつまでも続くのか」という表現は、負け戦を隠し、勝利を誇張する大本営発表によって戦意を鼓舞していた軍部の欺瞞に対する挑戦とも受けとれます。

 44年という厳しい言論統制の下でこれほどの記事が書かれたことに驚きます。毎日はこのキャンペーンを1週間続ける計画であったそうです。軍部の提灯記事一色の新聞界で、新名記者と毎日の編集局の勇気は大変際立つもので、余程の覚悟があったものと想像できます。逆に言うとそのような認識と気概があれば書くことが可能であったとも言えます。

 毎日の行動に朝日や読売が追従したと言う事実は見つかりませんでした。だとすれば彼らは見殺しにしたことになります。追従は先頭を走るより楽な筈であり、このとき歩調を合わせていれば、その後の展開は違ったものになっていたかもしれません。日本全体のことより商売仇の危機を喜ぶという意識が働いたのかもしれません。国のことより党利党略を優先して争う政党となにやら似ています。

 しかし、これだけで毎日(東京日日新聞)を優れた新聞だと決めつけるのは早計です。国民を戦争へと駆り立てるのに果たした役割は朝日に劣らないといわれています。どんな組織も一枚岩であることはまずなく、様々な勢力が消長を繰り返すのがふつうです。竹槍事件は、認識能力を持ち言論人としての職業意識の強い数名の人間によって主導されたと見るべきでしょう。

 ところでこの事件の余波は思いがけない悲劇をもたらします。新名記者は丸亀連隊へ一人だけの二等兵としての入隊となるのですが、兵役免除の年齢に該当していることが判明すると、陸軍は辻褄を合せるため同じ年代の兵役免除者250人を招集します。新名記者だけは海軍の計らいで報道班員としてフィリッピンへ送られるのですが、250人は予定通り硫黄島に送られ、全員が戦死します。37歳と同年代ですから多くは妻子があったことでしょう。