日本一“熱い街”熊谷の社長日記

組織論の立場から企業の“あるべき”と“やってはいけない”を考える企業アナリスト~大関暁夫の言いっぱなしダイアリー~

森元首相発言からオリンピック・パラリンピックの統合を考えてみた

2014-02-24 | ニュース雑感
ソチで行われていた冬季オリンピックが無事閉幕しました。浅田真央選手がらみの発言でも物議を醸した東京オリンピック・パラリンピック組織委員会会長の森喜朗元首相が、またまた誤解を招くような発言をされたとか。

「もう一遍、またこれ3月に入りますと、パラリンピックがあります。このほうも行けという命令なんです。オリンピックだけ行ってますと、組織委員会の会長は健常者の競技だけ行って、障害者のほうをおろそかにしてるんだと。こういう風に言われるといけませんので。ソチへまた行けと言うんですね。今また、その日程組んでおるんですけど、「ああ、また20何時間以上も時間かけて行くのかな」と思うと、ほんとに暗いですね」

御年76歳ということを考え合わせてあげれば、そのお気持ちまったく分からんでもないのですが、でもその立場の方がこの物言いはいかがなものかと言われるのも致し方のないところではあるでしょう。ただ個人的には、森さんの発言の是非はどうでもよろしくて、私がこの発言を聞いて思ったことは、オリンピックとパラリンピックという2つのものを統一してオリンピックの枠組みの中でできないものだろうか、ということです。私は、以前にも同じようなことを書いたことがあるのですが、森さんが2回ソチにいくのは辛いとおっしゃるので、統一されてひとつになっていればこんな発言もなかったろうに、と再びこの問題を考えさせられた次第です。

私の発想は、パラリンピックをオリンピックの中の「ハンデキャップ部門」として位置づけたらどうかというものです。すなわち、従来の「男子」「女子」という区分けの他に、「ハンデキャップ男子」「ハンデキャップ女子」という部門を設け、4部門で競技を争うというやり方です。ですから一例をあげればスキー大回転などでは、「男子大回転」「女子大回転」「ハンデキャップ男子大回転」「ハンデキャップ女子大回転」という4つの競技が行われることになります。もちろん、開会式、閉会式は一緒。開催期間は長期化することにはなるでしょうが、上手にやりくりすれば開会式、閉会式が合同になる分だけ、コストは削減できるようには思います。

もちろん、コスト削減は二の次です。目的は、パラリンピックにもっとスポットライトを当てる工夫をしたらどうかということ。もちろん今更、パラリンピックの扱いがマイナーで障害者差別であるなどと、申し上げるつもりはありません。ただ、今や障害者の皆さんのスポーツにおける技術水準たるや健常者のそれと見劣りしないほどのものがあるのであり、もはやパラリンピックがスタートした1960年当時のような存在ではなく、健常者と並べても恥ずかしくない水準にある競技の一部門としてもっともっと光の当たるものにして、その栄誉をたたえるべき存在になっているのではないかと思っているのです。

オリンピックとパラリンピックが別の団体によって運営され、その歴史的背景から勘案しても統合が私のような素人が言うほど容易ではないであろうことは想像に難くありません。しかし、2000年のIOCとIPC(国際パラリンピック委員会)との協定により、オリンピック開催都市でオリンピックに続いてパラリンピックを行うこととIPCからのIOC委員を選出することが両者間で約束され、オリンピック開催都市でのパラリンピック開催が正式に義務化された時点で、障害者スポーツのレベルアップに関係なく一層の歩み寄りの動きはストップしてしまったように思うのですが、本当にそれでいいのでしょうか。

きれい事を申し上げるようですが、スポーツの祭典の意義というものは、決して単なる記録争いや順位争いではないはずで、スポーツを通じて出るものの努力をたたえ、調和であったり友好であったりといった何かを学ぶ場としての一層の発展を視野に、運営されていくべきものなのではないかと思うのです。特にオリンピックは「参加することに意義がある」の考え方を精神的な支柱として運営されているのであり、その観点からもパラリンピック代表選手の“参加”は歓迎してしかるべきなのではないかと思うのです。

森さんの発言はそういう意味では、個人的には非常に有意義な一石を投じてくれたのではないかとすら思っています。ならば森さん、ご自身の“失言”挽回策として、2020年東京オリンピック・パラリンピック組織委員会会長として、その統一開催に向けて動かれてみてはいかがでしょう。あと6年あれば、東京大会をこの観点から後世に語り継がれるエポック・メイキングな大会にできるのではないかとも思うのですが。