静聴雨読

歴史文化を読み解く

歴史の転換期

2010-10-05 07:35:16 | 歴史文化論の試み
(1) 転換期の認識の難しさ

私たち一人ひとりは日々生活を営んでいます。この一人ひとりの日々の営みが集積して、地域の・国の・世界の歴史を形作ることは、観念的には理解できても、なかなか実感できるものではありません。

私自身の経験を振り返ってみます。戦後、わが国が貧乏国として出発し、わが国の工業製品の粗悪さが世界的に喧伝された期間が長く続きました。ところが、衣類・自動車・電器製品などの品質が飛躍的に良くなり、わが国は世界に名だたる製品輸出国に変貌していました。しかし、その中を生きてきたはずの私に、わが国がいつ「豊かな国」に転換したのか、の認識がありません。

歴史の転換を確認するためには、少し引いて高みから世界を見る必要があるのでしょう。また、少し時間を隔てないと、歴史の転換をつかまえるのが困難だ、ともいえます。同時代の歴史を語る難しさはここにあります。

同じようなことが、現在も起きつつあるように思います。

世界的に、中国の存在感が増しています。GDP(国民総生産)は、アメリカに次いで世界2位になろうとしています。わが国の製品輸出先も、従来のアメリカに加え、中国が飛躍的に伸びています。アメリカと中国の二国を指して「G2」という呼び方も生まれています。

ところが、当事者の中国の人たちには、自国が大国に変貌しつつある、という認識がないようなのです。二酸化炭素の排出量で、中国は、アメリカ・インドと並んで三大国といわれています。ところが、中国は、自国は「途上国」だから、「先進国」並みの排出削減の議論は妥当でない、と主張しています。

また、北京オリンピックや上海万国博覧会を開催するほどになったにもかかわらず、中国の人たちの公衆道徳は最低レベルです。これは、外から見られる・評価されることに無関心だということの表われのように思えます。

おそらく、中国の人たちは、自国が「大国」化しつつあることを自覚していないのでしょう。 (2009/11)

昨今起きた尖閣諸島沖の中国漁船の体当たり事件をめぐる中国政府と中国国民の反応を見ると、「中国の人たちは、自国が『大国』化しつつあることを自覚していない」というのは間違いで、「中国の人たちは、『大国』化しつつある中で、国際社会でどう振舞うべきかの訓練を受けていない」と言い直すべきでしょう。 (2010/10)

(2)戦後史の転換期

同時代史をその渦中で把握することの難しさを述べました。

さて、世界規模の大戦が終わった1945年以降を仮に「現代」と呼ぶとして、この60年余の期間に「歴史」を読み取れるでしょうか? さすが60年は長く、その期間を引いて眺めると、歴史の変遷が見てとれます。

地域の歴史・国の歴史だけでなく、世界規模の歴史の「転換」を考えると、政治・経済・社会の各面で大きなメルクマール(標識)となるような出来事が見出されなければなりません。その観点で1945年以降の歴史をたどると、1968年と1989年に歴史の「転換」点があるのではないか、というのが私の見解です。これはあくまで私の私見で、人それぞれの見解が分かれても一向に構いません。

1968年は、世界的規模で「学生の反乱」が吹き荒れた年です。
フランスではパリ市街を学生が占拠しました。鈴木道彦は『異郷の季節』(1986年、みすず書房、*)でパリの「学生の反乱」を活写しています。
アメリカでも、映画『いちご白書』に描かれたように、「学生の反乱」が燎原の火にように広がりました。
わが国では、東京大学の安田講堂占拠事件など、やはり、「学生の反乱」が世間の耳目を引きました。

いずれも、既存の秩序の正当性を問う行動であったことが共通しています。

1989年は、いうまでもなく、「ベルリンの壁」の崩壊した年です。それまでの東西冷戦体制が崩壊し、社会主義体制を信奉してきた人々が深刻な挫折感を味わったことが特徴的です。以後、アメリカを中心とした体制が世界を支配するかに見えました。

しかし、経済面では、1985年の「プラザ合意」により、世界通貨としてのドルへの過度の依存が否定されたことにより、アメリカ中心の世界経済体制にひびが入り始めました。

このような文脈で見ると、今年2009年は、新たな現代史の「転換」点かもしれないという思いにとらわれます。
昨年2008年秋の「リーマン・ショック」に端を発する世界的信用経済の破綻は、ドルへの信任を低下させ、今やドルの基軸通貨としての地位がゆらいでいます。

政治面では、アメリカの一国主義はすでに行き詰まりました。アメリカ・ヨーロッパ・アジアがそれぞれ対等のパートナーとして、政治面でも経済面でもそれぞれの役割を担っていくべきことが明らかになりつつあるといえます。  (2009/12)

(3)20年周期の転換期

現代史の「転換」のメルクマール(標識)として、以下の年を仮説として提示しました:

1945年(第二次世界大戦の終結)
1968年(世界的規模で「学生の異議申し立て」)
1989年(「ベルリンの壁」の崩壊)

このように並べると、奇しくも、約20年ごとに、現代史の「転換」が起きていることになります。これが偶然かどうか、判断する材料はありません。仮に、「20年ごとの転換」説に乗ると、次の「転換」期として、2008年または2009年が当たっても不思議ではありません。

2008年(「リーマン・ショック」)

経済面のみならず、政治面でも、2008年に、アメリカにオバマ大統領が誕生し、アメリカの世界一極支配体制を見直す機運が生じています。

また、そのお相伴に預かる形で、わが国でも、2009年の本格的な「政権交代」が実現しました。先日まで続けられていた国の「事業仕分け」の光景がその象徴でした。

この中ではっきりしたのは、わが国の官僚がいわれてきたほど「有能」でないことでした。政策にはまだ素人の民主党議員や民間仕分け人の質問にまともに答えられないのを見て、多くの国民は、官僚たちが国民向けにその「有能さ」を発揮してきたのではない、ということを理解しました。

明治政府以来の「官僚制」の崩壊が現実化したという点では、2009年はわが国にとって、「大転換」の年となるという予感がします。これは、私たちにとって、稀有の経験となるでしょう。  (2009/12)

(4)未来の転換期の予兆

現代史を20年きざみで見るという見方はなかなか便利です。これからは、これから100年の未来史について、同じく20年きざみでどのようなことが起こり得るか、予測してみましょう。

1 世界の主導権争い
 1-1 アメリカの相対的地位の低下
 1-2 アジアの存在価値の向上
1-3 核の拡散と廃絶との争い
1-4 基軸通貨は、ドルの一極制からドル・ユーロ・元の多極制へ

2 グローバル化
2-1 経済のグローバル化
2-2 国境の存在意義の低下

3 格差
 3-1 地域間格差の是正へ
 3-2 貧富間格差の是正へ

4 地球環境問題
 4-1 先進国での取り組みが急ピッチに
 4-2 途上国での取り組みも「待ったなし」に

以上が大雑把に見たこれからの世界の変動要因ですが、それぞれの項目の「転換」が、いつ、どのような形で現われるかについては、さらに考えることにしたいと思います。 (2009/12)

(5)成長の尺度

これから100年の間に起こると予想される事態はまだほかにもあります。

5 価値観の変化
 5-1 個人の価値観の多様化
 5-2 国家観の変貌

個人のレベルでは、今でも、経済的豊かさを第一に追い求めるか、家族の絆の深さを何よりも大事にするか、人様々です。

一方、国家観となると、非常に貧しい国家観しかないのが現状です。すなわち、国民総生産(GNP)至上主義が全世界を支配しています。中国がもてはやされているのは、他国が経済の停滞に苦しんでいる時に、依然として、年10%前後の経済成長率を維持しているというのが理由です。

しかし、先進国は、これからの中国を含め、まもなく際立った経済成長は望めなくなる、というのが私の予測です。経済成長率が高いから素晴らしい、経済成長率がゼロだから困ったことだ、という考え方を克服することが必要になってきます。そのためにどうするか?

一つの仮説を提示しますと:

国を測る尺度として、経済成長率(それもあって構わないのですが)のほかに、国民が生活にどれだけ満足しているかという尺度をもう一つ設定するのはどうでしょう? それを、仮に、国民総満足度(GNS=Gross National Satisfaction)と呼んでみます。

ある国は、現在のように、経済成長の高さがGNSに直に反映している、と主張します。
ある国は、他国への援助の多さがGNSの大きな要素である、というかもしれません。
また、ある国は、生活程度は高くなくても、部族間の対立もなく、平和に生活するのが、GNSの指標になる、というかもしれません。

そう、GNSにどのような要素を含めるかは、国それぞれで違いがあって不思議でありません。また、年々要素が変わっても構いません。

そのようにして、国ごとに、自国のGNSを定義して、そのGNSの成長率を測り、国際的な場でそれを発表する習慣が出来上がると、各国の他国を見る眼が変わってくるのではないでしょうか?
国によって価値観が多様であることを国同士で認め合うことができれば、それは素晴らしいことです。「そんなの『夢物語』だよ」と一笑に付されてしまうかもしれませんが。 (2009/12)