静聴雨読

歴史文化を読み解く

バルガス・リョサ『楽園への道』を読む

2010-10-07 22:09:10 | 文学をめぐるエッセー
バルガス・リョサ『楽園への道』(田村さと子訳)を読み終えた。池澤夏樹編集の世界文学全集(河出書房新社)の一冊で、B6判で485ページの大作である。

画家ポール・ゴーギャンとその母方の祖母フローラ・トリスタンの物語だが、両者の直接の関係性は何もない。小説は、フローラの章、ポールの章と交互に進み、それぞれの死まで記述が進むという仕掛けだ。

ポールについては、タヒチに移り住み、その後マルキーズ諸島に居を移して死を迎えるまで。記憶の中では、ゴッホ(オランダの狂人)との共生とその破綻までが描かれる。

フローラについては、労働運動のオルグとしてフランス各地を飛び回る生活と、前夫との生活の破綻と故郷ペルーへの旅行が描かれる。

全体を支配するのは、ラテンアメリカ文学に特有の、圧倒的な饒舌だ。バルガス・リョサは二人の生涯を記録してやまない。

バルガス・リョサの手法で着目すべきは、二人に対する「語りかけ」だ。作者が高い位置から二人を見下ろしているのではなく、二人に同情し、二人を理解していることを示すしるしとして、たえず二人に語りかける手法を用いている。

「あの娘が懐かしいのだね、フロリータ」(フローラに対して)
「おまえの父の国への旅行はすごかったね、アンダルシア女」(フローラに対して)
「おまえはどれほど後悔しただろうね、ポール」(ポールに対して)
「急がなければおまえも駄目になってしまうぞ、コケ」(ポールに対して)

ポール・ゴーギャンに対する語りかけは素直にうなずける。

また、フローラに対する「フロリータ」というのもよくわかる。

しかし、フローラに対する「アンダルシア女」という呼びかけには首をかしげる。
アンダルシア人のことをスペイン語で、アンダルース andaluz という。その女性形がアンダルーサ andaluza だ。それを訳して「アンダルシア女」としているのだろう。

だが、日本語の「アンダルシア女」は、「アンダルシア」と「女」の二つのことばの合成と取られてしまい、また、ことばが長すぎる。普通の呼びかけことばとしての「アンダルシア女」は見るからに異常である。

ここは少し工夫が必要ではないか。
私の提案は:初めに断りを入れた上で、「アンダルーサ」と原語のままのことばを使うのはどうだろう。
「おまえの父の国への旅行はすごかったね、アンダルーサ」
これだと、素直に受け入れられると思う。

翻訳はもう一つの創作だといわれる。それを大胆に実践する訳者の工夫があってもいいのではないか、というのが私の感想だ。
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バルガス・リョサの著作で邦訳のあるものを列記する。
1959年・67年 『小犬たち、ボスたち』(野谷文昭訳、国書刊行会)
1963年 『都会と犬ども』(杉山晃訳、新潮社、*)
1966年 『緑の家』(木村栄一訳、新潮社)
1969年 『ラ・カテドラルでの対話』(桑名一博訳、集英社)
1973年 『パンタレオン大尉と女たち』(高見英一訳、新潮社、*)
1975年 『果てしなき饗宴-フロベールと「ボヴァリー夫人」』(工藤庸子訳、筑摩書房、*)
1977年 『フリアとシナリオライター』(野谷文昭訳、国書刊行会、*)
1981年 『世界終末戦争』(旦敬介訳、新潮社)
1986年 『誰がパロミーノ・モレロを殺したか』(鼓直訳、現代企画室、*)
1987年 『密林の語り部』(西村英一郎訳、新潮社、*)
1988年 『継母礼賛』(西村英一郎訳、福武書店、*)
1989年 『官能の夢-ドン・リゴベルトへの手帖』(西村英一郎訳、マガジンハウス)
1997年 『若い小説家に宛てた手紙』(木村栄一訳、新潮社、*)
2003年 『楽園への道』(田村さと子訳、河出書房新社、*)
(2008/5)

バルガス・リョサが2010年のノーベル文学賞を受賞した、と報じられている。(2010/10)