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静聴雨読

歴史文化を読み解く

ドイツ:冬から早春へ・8

2013-12-18 07:27:19 | 異文化紀行

(8)ベルリンからバーデン・バーデンへ

ベルリン滞在の後半から晴れが続き、路上の雪がどんどん融けていった。

ベルリンからカールスルーエまでICEで6時間ほどの旅程だ。南に下るにしたがって車外の雪が減っていき、フルダあたりで見えなくなった。

バーデン・バーデンはカールスルーエのすぐ南、「黒い森」(シュヴァルツヴァルト)への入口に当たる街で、温泉の湧く保養地として知られている。淡雪に迎えられたものの、何となく春の気分が感じられる。この小さな花々に春の息吹が見出せる。

トリンク・ハレ(飲泉場)の建物の大きさにびっくりする。ここは今では飲泉施設は閉鎖しているが、昔の栄華を偲ばせる巨大な建物だ。ヨーロッパでは、温泉とは浴泉と飲泉の両方を指すことがよくわかる。

バーデン・バーデンは高級保養地なので、各国のセレブリティが保養に訪れる。中でも驚いたのが、ロシア人の多いことだ。街のいたるところでロシア人のセレブリティを見かける。これは、あるビアホールの入口の看板だ。よく見てほしい。ドイツ語、英語に続いてロシア語が記されているのがわかる。フランス語はその後だ。それほど、この街はロシア人に愛されているのだ。かのドストエフスキーもこの街を訪れたのではなかったか? (2013/12)

 


ドイツ:冬から早春へ・7

2013-12-14 07:25:22 | 異文化紀行

(7)物乞い

Sバーンのフリートリヒ・シュトラッセ駅からベルガモン博物館に向かう途次の路上で、少女が座って物乞いをしていた。すでに記した通り、3月といえども、強い風が吹きさらす路上だ。私の頭の中にとっさにシューベルト『冬の旅』の最終曲「辻音楽師」が駆け巡った。「氷の上で、裸足で あちこちと歩き廻りながら。しかし彼の小さな盆には いつまでも銭は入らない。」少女の姿と辻音楽師の姿が重なりあう。

この写真は、ベルガモン博物館の帰途、同じ場所で撮ったものだ。少女に代わり、老人が路上に座っていた。 (2013/12)


ドイツ:冬から早春へ・6

2013-12-10 07:23:00 | 異文化紀行

 

(6)時代設定

ワーグナーの楽劇は神話・伝説の時代を扱っている。ということは、物語がいくぶん荒唐無稽になりがちだ。それで、物語にリアリティを持たせるために、時代設定に工夫する場合がある。

時代設定には、神話・伝説の時代そのまま、ワーグナーの生きた19世紀、楽劇が上演される現代、時代を特定しない、の四通りある。

私の考えでは、「神話・伝説の時代そのまま」と「時代を特定しない」とは実は同根で、それだけ、ワーグナーの楽劇には融通性があるのだ、と思っている。

一方、「楽劇が上演される現代」に時代を設定するということは、演出者のメッセージが隠されていると読むのが普通だろう。今回の『トリスタンとイゾルデ』はその典型だ。舞台は、現代の邸宅で、1幕から3幕まで通す。したがって、船も何も登場しない。

しかし、登場人物のセリフに変更が加えられた跡はない。つまり、トリスタンとイゾルデもワーグナーの書いた通りに歌うのだ。書き割り(装置)と派生的登場人物がこの新しい演出の「売り」というわけだ。派生的登場人物の中には、裸で静々と歩く女性だとか、同じく、裸で土掘りをする男性だとかがいる。また、天井のシャンデリアが降りてきて左右に振れたりする。

結局のところ、ワーグナーの音楽は変えられず、書き割り(装置)とか派生的登場人物とかで「新味」をアピールする、というに過ぎない。これが、「楽劇が上演される現代」に時代を設定することの限界なのだろう。(2013/12)


ドイツ:冬から早春へ・5

2013-12-06 07:21:15 | 異文化紀行

(5)ワーグナーの4作

ベルリン・ドイツ・オペラで聴いたのは、『タンホイザー』・『ローエングリン』・『トリスタンとイゾルデ』・『ニュルンベルクのマイスタージンガー』の4作。

このオペラ・ハウスの狭さを逆手に取った演出に出会った。『タンホイザー』で、兵士の集団を宙吊りにしてしまったのだ。第2幕の半ばから第3幕の終了まで兵士は宙吊りのまま。そのため、カーテン・コールでもご覧の通りの格好だ。でも、それで何なの? と問われると、答えに窮してしまう。 (2013/12)

 


ドイツ:冬から早春へ・4

2013-12-02 07:18:55 | 異文化紀行

(4)狭い!

ベルリン西部のベルリン・ドイツ・オペラに行った。ほかの街のオペラ・ハウスとは異なり、古びた現代建築の建物のようだ。内部も同様に、左右のバルコニーはなく、日本のコンサート・ホールと見間違える作りだ。

そして、このオペラ・ハウスは狭い! 幅が座席にして10席ほど、すなわち、5mほど、ほかの街のオペラ・ハウスに比べて狭いのではないか。舞台の奥行きも深くない。これらは、市街地に建てたために広いスペースが取れなかったためだろう。 (2013/12)

 


ドイツ:冬から早春へ・3

2013-11-30 07:16:44 | 異文化紀行

(2)小さい!

ベルリンの街を散策して不思議なことに気づいた。二人乗りのコンパクト・カーが異常に目に付くのだ。知らないメーカーのものから、BMWのものまで、いたるところでコンパクト・カーが走ったり、駐車していたりする。ベルリンだけの現象なのか、ドイツ全体に広がる傾向なのかわからない。少なくとも、日本には見られない現象だ。(2013/11)


ドイツ:冬から早春へ・2

2013-11-28 07:08:11 | 異文化紀行

 

(2)寒い!

3月下旬といえば、首都圏では春真っ盛りで、やがて桜も開花しようかという季節だ。その時期にベルリンに飛んだ。ところが、ベルリンは寒い! 首都圏の冬でも経験しないような寒さだ。

上左はホテルに着いた日にホテルから撮った写真だ。積もった雪が融けるどころか、さらに雪が降り積もっている。左はティア・ガルテン駅から出たSバーン(郊外電車)の車両だ。この日はこの雪に怖気づいて外出する気にならなかった。

上右は、翌日、ティア・ガルテンを散策した時のもの。これを見て、3月だと読める人はいないだろう。現地の人によると、今年は異例の寒さなのだという。(2013/11)

 

 


ドイツ:冬から早春へ・1

2013-11-26 15:08:00 | 異文化紀行

 

(1)序

2009年夏のバイロイト音楽祭とその前後のバイエルン紀行を記したコラムで、「次回、冬の季節に同様の旅をしてみたい。その時には、また、今回と同じようなコラムをまとめたいが、そのタイトルが頭に浮かんだ。そう、『ドイツ:冬の旅』という題だ。コラムの通奏低音はシューベルトの『冬の旅』で、それに、ワーグナーの楽劇とヴォルプスヴェーデ村(ブレーメン)の芸術家コンミューンが重なり合う、という構成になるはずだ。」と述べた。

今年(2013年)3月、再びドイツを訪れる機会に恵まれた。私の「オペラと将棋の旅」の一環で、ドイツ(ベルリン)と南西ドイツ(バーデン・バーデン、カールスルーエ、ハイデルベルク)とを旅行した。うち、カールスルーエとハイデルベルクについては、別に報告した。ここでは、ベルリンとバーデン・バーデンを中心に報告しよう。ベルリンでは、ベルリン・ドイツ・オペラでワーグナーの楽劇を4本聴き、バーデン・バーデンではベルリン・フィルハーモニーのイースター・フェスティバルを聴いてこようという計画だ。 (2013/11)


アウシュビッツについて・4

2013-01-03 07:20:25 | 異文化紀行

 

(4)現代に置き換えると

 「ずいぶん、寂しい話ね。」

「・・・」

「あれ、黙ってしまった。」

「これ、ご覧よ。イスラエルがガザ地区への新規入植を認めた、という記事が出ている。」

「それとアウシュビッツがどう関係するの?」

 

「アウシュビッツでは、働けると判定されたユダヤ人は、労働中隊に編入されて、道路工事や線路工事に駆り出された。」

「それで?」

「現代のイスラエルでは、入植者が汗水たらして、痩せた土地を開拓するために働いている。同じ厳しい労働でも、強制された労働(アウシュビッツ)と半ば自ら進んで行う労働(ガザ地区)では、その意味が違うかもしれない。しかし、ガザ地区への入植には大義がない。ガザ地区はパレスチナの領土なのだから。ということは、汗水たらした神聖な労働が、アウシュビッツの強制労働でも、ガザ地区への入植活動にしても、無駄に、あるいは不当に、行使されていることになる。」

「難しくてよくわからないけど、なるほどね。」

 

「だから、アウシュビッツでの苦しみを舐めたユダヤ人には、パレスチナの領土を不当に占領したり、意味のない労働で入植活動をしたりするという考えを改めてほしいと思うわけだ。」

 (2013/1)


アウシュビッツについて・3

2013-01-01 07:32:56 | 異文化紀行

 

(3)既視感

「それで、実際のアウシュビッツはどうだったの?」

「正門では、言語別にガイド・ツアーがありました。英語・ドイツ・フランス語・スペイン語のガイドはありましたが、日本語のガイドはありません。そもそも日本人にはまったく出会いませんでした。」

「中国人や韓国人は?」

「いません。それで、英語のガイド・ツアーに入りました。」

 

「収容所の入口には、有名な『 ARBEIT MACHT FREI 』 の鉄製の看板がありました。『働けば自由になる』とは何とふざけた標語でしょう。これを見た瞬間に気持ちが沈んでいきました。」

「収容所に連れてこられたユダヤ人は振り分けられたのでしょ?」

「そう、働けない囚人は焼却炉行き、働ける囚人は労働に駆り立てられたわけ。」

 

「途中、ガイドにはぐれ、後は一人で見学しましたが、行く先々で、これは見たことがあるという『既視感』に囚われました。なぜだろうと考えたら、アラン・レネのドキュメンタリー『夜と霧』で見た映像を追体験しているのだとわかりました。」

「私もあれは見たわ。」

 

「アウシュビッツの後は、隣りのビルケナウに行きました。これがとてつもなく大きな収容所で、アウシュビッツより大きかったですね。」

「そう、アウシュビッツ=ビルケナウ収容所として世界遺産になっていたわね。」

「正門から奥に真直ぐ線路が伸びていて、その長さが1km あるそうだ。そこを歩いていると、ナチスの途方もない蛮行が伝わってきて、怖気をふるったものさ。」

「・・・」

「加えて、途中から雨が降ってきて、冷気に身が縮みました。7月だというのに。」  (2013/1)


アウシュビッツについて・2

2012-11-17 07:00:23 | 異文化紀行

 

(2)心理分析

「アウシュビッツについては、おびただしい記録が発表されています。」

「『夜と霧』という本を読んだことがあるわ。」

「オーストリアの精神分析学者フランクルが自らの強制収容所体験を綴ったものですね。」

「あの中で、アウシュビッツに連れてこられた人たちが、初めの反発・憤りから次第に収容所に馴化させられていく過程がヴィヴィッドに描かれていて、痛々しく感じたわ。」

「そう、精神分析学者らしい記述です。」

 

「同じような記述をどこかで読んだ覚えがあるわ。そう、E・キューブラー・ロスの『死ぬ瞬間』。その中で、彼女は、死を前にした人間の態度を分析して、7つほどの段階を踏むと言っていたわ。」

「今手元にその本がないので、正確ではありませんが、自分が死ぬことへの怒りや反発が初期にあり、やがて、死の受容にまで遷移する過程は、フランクルの描写したアウシュビッツの囚人のそれに照応していますね。」  (2012/11)

 


アウシュビッツについて・1

2012-11-14 07:33:08 | 異文化紀行

 

(1)ユダヤ人をめぐって

 「ポーランドに行って、アウシュビッツに行かなかったの?」

「行きました。」

「あなたのブログを読んでも、ワルシャワとクラクフのことばかりで、アウシュビッツに触れた記事は見当たらなかったわね。」

「はい、少し訳がありまして。」

「もったいぶらないで、その訳を教えて。」

 

「『ポーランドつれづれ』に書いたのですが、ポーランドで出会ったユダヤ人やユダヤ人社会が『ユダヤ人はケチで強欲だ』という俗説を思い出させてしまって、ユダヤ人について書くのが億劫になったのです。」

「でも、そのこととアウシュビッツとはまったく違う次元の話じゃないの。」

「確かに。」

「アウシュビッツはホロコースト(大量殺戮)を被ったユダヤ人を記憶するモニュメントでしょ。」

「はい。」

 

「とにかく、聞かせて。」

「アウシュビッツはクラクフから車で1時間強のところにあります。ツアーのコーチが出ています。それを利用したのですが、アウシュビッツに近づくにつれて、気持が重くなっていきました。道行く犬連れの男性を見るとゲシュタポの警備兵とバーナード犬に見え、石炭を積んだ貨物車を見ると収容所に運ばれて来たユダヤ人の群れを想起するというように、早くも現実と過去の出来事が重なり合うような妄想に捕われてしまいました。大変重苦しい1時間でした。」

「あなたの夢想癖が現われてきたのね。」  (2012/11)

 


ポーランドつれづれ

2012-08-14 07:41:49 | 異文化紀行

 

(1)ショパンをめぐって

ポーランドの3大有名人とは、「地動説」を発表したコペルニクス、ピアノの詩人・ショパン、ノーベル賞を受賞した化学者・キュリー夫人を指すそうだ。最近、それに、ローマ教皇に擬せられたヨハネ・パウロⅡ世が加わって、4大有名人といわれている。

中でも、ショパンは国内外で最も有名なポーランド人といっていい。

ショパンは39年の生涯の前半20年をポーランドに過ごし、後半はポーランド国外で過ごした。20歳になった作曲家兼ピアニスト・ショパンは国外に出る。すでにショパンの器を受け入れるような音楽市場は国内になくなっていたのだ。この点は、戦後彗星のように現われたヴァイオリニスト・渡辺茂夫に似ている。渡辺は14歳でアメリカに渡った。

当時のポーランドはプロシア・オーストリア・ロシアの3国に分割され、国内には絶えずそれに対する反乱・蜂起が芽生えていた。ショパンが出国を決意した1830年には、「11月蜂起」が起きて失敗に終わる。ショパンの出国がその直前であったことから、政治的にポーランドにいられない事情があったのではないかと推測されている。その証拠に、出国後、祖国が嫌いであったわけではないショパンは一度も祖国に帰らなかった。この事情を知ると、例えば、ショパンの『英雄ポロネーズ』のかもし出す望郷の念が身にしみるのだ。

ワルシャワには立派なショパン博物館がある。

展示はむしろすっきりしている。ピアニストとして、作曲家として、旅行者としてのショパンが簡潔な展示で理解できるようになっている。そして、さらに詳しく知りたい見学者のために、見学者の入場カードを触れることによって、さらに詳しい解説などを見たりすることができる仕掛けになっている。作曲家としてのショパンのブースでは、該当する曲目の演奏が、同じく、見学者の入場カードを触れることによって、聞ける。これは、素晴らしいアイディアだ。

見学者の意向によって、詳しく観覧できる仕組みは、青森県三沢市の「寺山修司記念館」でも経験した。ここでは、寺山の様々なアクティビティが数多く並んだ「学習机」で表現されており、それぞれの机の引き出しを開けることによって、そのアクティビティの詳細を確かめるようになっている。同じ趣向がショパン博物館でも表わされている。

ポーランドに行ったらショパンを聴かねばならないと思っていた。

クラクフでは、夏のハイ・シーズンには各所で「ショパン・コンサート」が開催されていることがわかった。インフォメーション・センターで調べたところ、多い日には、何と4ヶ所で「ショパン・コンサート」が開かれている。

そのうちの2ヶ所に二晩連続で通った。

一つは、20歳代の女性ピアニスト、もう一つは、30歳代の男性ピアニスト。いずれも、熱演で、満足した。ちなみに、料金は55ztと50zt。1時間のコンサートなので、まず、リーズナブルな価格だ。

実は、私は、ショパンの「偉大さ」はよくわからないのだ。「マズルカ」と「ポロネーズ」との違いもわからない素人だ。しかし、例えば、プログラムの最後に組まれたポロネーズを目の当たりに聴いていると、その激情の所以が自ずから理解できてしまうのを実感する。20歳にして国を出て、39歳で異国に亡くなるまで、国に帰らなかった(あるいは、帰れなかった)ショパンの心情は痛いほどよくわかる。クラクフでの「ショパン・コンサート」はそのような思いを新たにするかけがえのない体験になった。 

(2)車内にて

ワルシャワからクラクフまでの列車「マリア・キュリー・スクウォドフスカ号」では、奮発して、1等車にした。1室6席のコンパートメントだ。

先着の、アメリカ中西部から来たと思われる老人夫婦とその20歳代の孫娘の3人連れ、それに、ニューヨークから来たという黒の衣装に黒のシルクハットを被った中年男性が同室であった。この黒の男は典型的なユダヤ人のいでたちだ。

さて、この黒の男が、窓際の席を占領し、さらに前のテーブルにいろいろなものを展開して、その席を「実効支配」しようとしていた。

「もしもし、その席は私の席ですが。」「ん? 座りたいか?」「当たりまえでしょ。」

座席争いが一段落したところで、車内サービスのアテンダントが来た。「お飲み物はいかがですか?」誰も応えない。「ただですが。」途端に「それなら話は別だ。 It’s another story.」と黒の男が声を発した。一同爆笑した。

さてさて、私は「常識を疑え」というコラムで、「スペイン人はなまけもので、フランス人はケチだというのは、他国の人を面白おかしく批評する俗説だ」と述べたのだが、「ユダヤ人はケチで強欲だというのは、シェイクスピア『ヴェニスの商人』以来の俗説だ」と言い切れるのか、いささか怪しくなってきた。

その後、車内は静かになり、老人夫婦とその20歳代の孫娘の3人連れはそれぞれ舟を漕ぎ始め、黒の男は本に目を落としている。身なりは立派で、教養も申し分なく見える男なのだが。

(3)カジミエシュ地区にて

ポーランドとユダヤ人との「相性」は良く、過去多くのユダヤ人が定住の地を求めてポーランドに渡った。ワルシャワやクラクフには大きなユダヤ人街ができた。

ナチスが政権を取り、ポーランドに侵入すると、ワルシャワやクラクフのユダヤ人街にはユダヤ人を閉じ込めるゲットーが作られ、やがて、ユダヤ人はゲットーから引き出されてアウシュビッツなどの強制収容所に送られ、そこで多くのユダヤ人が命をなくした。ポーランドは、まさにおぞましいホロコースト(大量殺戮)の場になってしまった。

クラクフのカジミエシュ地区はそのような歴史を刻むユダヤ人街だ。旧市街に比べると、カジミエシュ地区では、壁の崩れかかった建物が多く、壁にはいたずら書きが多い。赤銅色のよっぱらいが昼間からうろついている。その一方で、銀行の支店が多いのに気づく。

カジミエシュ地区の奥にユダヤ博物館があり、ユダヤの民俗や風習を示す展示がしてある。それに感銘を受けた後、トイレに行きたくなった。スタッフに「トイレはどこですか?」と聞くと、「トイレはありません。」と返ってきた。トイレのない博物館は初めての経験だ。

博物館見学を早々に済ませ、近くのレストランに入った。「トイレを貸してください。」「ワン・ドリンク!」この返答に驚いた。「トイレを使うには、飲み物を一杯注文していただく必要があります。」ということだろうが、ここまでストレートに表現されると、気持が萎縮する。

ワルシャワでも、レストランでトイレを借りたことがあった。「トイレを貸してください。」「はい。その階段を下りたところよ。テラスに席を用意しておきますね。」これがスマートな接客法というものだ。

カジミエシュ地区のレストランのオーナーやウェイター・ウェイトレスがユダヤ人かどうかわからないが、その余りにもストレートで非スマートな接客法に接すると、ふたたび「ユダヤ人はケチで強欲だ。」という「俗説」が頭をもたげてくるのだった。  

(4)食事情

「ポーランドの食事には期待しない方がいいよ。」 これが、ポーランド経験者の忠告だった。ポーランドの食事情は予想通りだった。

ピエロギ(ポーランド風餃子。皮が厚い。具がたくさん詰まっている。たっぷりのキャベツとニラとひき肉をパリッと揚げた日本の餃子とは違う。具が少ないのはないものか?)

赤カブのスープ(まずまず。酸味が利いている。)

ほかのスープ(やたらに塩辛い。)

ロールキャベツ(大きい。味も大味。)

ピゴス(牛肉とザウアーフラウトを煮込んだものだが、量が多くて、半分残した。)

このように、十分満足した料理に出会わなかった。

クラクフを離れる前日、イタリアン・レストランで食べたパスタがいけた。何より、量が日本で食べるパスタと同じくらいで、それが救いだった。クラクフにはイタリアン・レストランが多い。一方、中華料理店は少なかった。

カジミエシュ地区の「ワン・ドリンク!」のレストランで食べたスープが皮肉にもこの旅で出会った最高の料理となった。わが国のビーフ・シチューのようで、さらにスープを多くして、その上スパイスを効かしてある。ポーランドとユダヤ人との「相性」の良さを実感することとなった。

ビールをよく飲んだが、チェコのピルゼン・ビールには及ばないと感じた。 

(5)琥珀の魅力

ポーランドは琥珀の産地として有名なのだそうだ。琥珀とは、4000万年から6000万年かけて樹液が変化してできたものだそうで、茶色の様々なグラデーションが人を引き付ける。

ポーランドの中でも、バルト海に面したグダンスクが琥珀の一大産地として有名で、そこには、琥珀専門のギャラリーまであるという。今回のポーランドの旅では、残念ながら、グダンスクまで足を延ばすことはかなわなかった。

でも、ワルシャワにもクラクフにも、琥珀を専門に扱うショップが数多くあった。

クラクフのあるショップに入ってみた。左右の壁一面と手前の陳列台に琥珀製品が飾られている。ネックレス、ペンダント、ブレスレット、ピアスなどなど。この店の雰囲気に浸っていると、心が落ち着くのがわかる。茶色は人を穏やかにさせる働きがある。

琥珀の余りの鮮やかさについつい気をとられ、何度左へ右へと店内を移動したろうか? 気がつくと、中央のカウンターにいる三人の若い店員が、私が左に行くと一斉に左に向きを変え、右に行くと、今度は一斉に右に向きを変えているのがわかった。それで、思わず、笑ってしまった。

ここで、勝負あった。ペンダントを一つ求めて、外に出た。

贈るあてのないみやげ物がまた一つ増えてしまった。 (2012/8)

参考資料:

『地球の歩き方 チェコ/ポーランド/スロヴァキア 2012-2013年版』(2012年5月改訂第17版、ダイヤモンド社)

『読んで旅する世界の歴史と文化 中欧 ポーランド・チェコ・スロヴァキア・ハンガリー』(沼野充義監修、1996年、新潮社)

遠山一行『ショパン カラー版作曲家の生涯』(平成12年、新潮文庫)

V・E・フランクル『夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録』(霜山徳爾訳、1991年、みすず書房)

 

 


宵闇のニューヨーク

2012-07-13 07:31:57 | 異文化紀行

 

ニューヨークには行ったことがない。いや、ニューヨークに行ったことがある。私の気持ちはこの両者の間で揺れ動く。

アメリカには仕事の出張で何十回も訪れたが、私の旅程はいつもニューヨークを避けて作られるのだった。
乗り継ぎのために、ジョン・F・ケネディ空港を利用したことはしばしばだ。また、ラ・ガーディア空港からケネディ空港までの連絡バスに乗って、街中をチラっと眺めたこともある。

しかし、ニューヨークの象徴であるマンハッタン地区に足を踏み入れたことは一度もない。一度、ニューヨークの北のプロヴィデンス(ロード・アイランド州)からプロペラ機でケネディ空港に向かう途中、マンハッタン地区の真上をかなり低い高度で飛んだことを覚えている。ああ、これがエンパイア・ステート・ビルディングか、これが、貿易センター・ビルディングか、と興奮したものだ。1995年のことだった。それが、マンハッタン地区に関する記憶のすべてだ。そのため、「ニューヨークには行ったことがない。」

行ったことはないのだが、どこかで、「行ったじゃないか」という声も聞こえてくる。オードリー・ヘプバーンの『ティファニーで朝食を』、ミュージカル『ウェスト・サイド物語』、ドキュメンタリー『バワリー25時』などの映像で、マンハッタン地区の隅々までおなじみになっている。植草甚一の著作で、マンハッタン地区の古本屋に出入りしたような気分になる。

これが既視感 deja-vu (アクサン・テギュとアクサン・グラーヴは省略)というものだろうか。
ニューヨーク、とくにマンハッタン地区についての情報はおびただしい量にのぼり、自然に、既に訪れたような錯覚におちいるのだ。『大雪のニューヨークを歩くには』(*)という案内書を読んだことも思い出すし、『42nd Street』というミュージカルもあったっけ。

しかし、ニューヨークはマンハッタン地区だけではない。 

東部に広がるクイーンズ地区、北部に広がるロング・アイランド地区などもニューヨーク「州」を構成していて、面積では、クイーンズ地区とロング・アイランド地区がマンハッタン地区をはるかに凌いでいる。

ある年、ロング・アイランド地区に引退している人を訪ねて、ラ・ガーディア空港から車で北を目指したことがある。運転は、現地法人のアメリカ人にお願いした。空港からしばらく走ると、イースト・リバーを渡る。河の両岸には、中産階級や低所得者向けと思われる高層住宅が林立している。

2時間ほど走って、ロング・アイランド地区の山の中に到着した。日本でいえば、軽井沢みたいなところだ。

そこでの仕事を終え、ラ・ガーディア空港に引き返すべく、陽の暮れかかった道を急いだ。
再びイースト・リバーにかかったときは宵に入っていた。そして、周りの景色に唖然とした。往きに見た中産階級や低所得者向け高層住宅が一斉に明かりを灯して、ゆらゆらと漂っているようなのだ。あたかも、蜃気楼のように、砂上の楼閣のように。

実際の建物がそんなに揺れていたわけではない。しかし、夕闇と明かりが相俟って、建物が今にも崩れそうに見えたのだった。アメリカ人の運転手もこの光景を気味悪がり、アクセルを踏んでその場から急いで離れたものである。1983年のこと。
実在するものが幻覚のようになる。これを、幻視 illusion というのであろうか?

というわけで、「ニューヨーク州(の一部)には行ったことがある。」しかし、「ニューヨーク(の中心)には行ったことがない。」
私にとって、ニューヨークの記憶といえば、イースト・リバー近くの「宵闇の楼閣」に他ならない。

5年前の9月11日に、テレビでニューヨークの貿易センター・ビルディングに飛行機がぶつかるのを目撃し、さらに数時間後、ビルの一つが崩落するのを目の当たりにして、驚愕するとともに、「これはどこかで見たことがある」との思いにとらわれた。1983年に経験したイースト・リバー近くの「宵闇の楼閣」の光景が知らず知らず重なり合っていたようなのだ。

あるはずのものがなきがごとく見えること(1983年の経験)と、あるはずものがなくなること(2001年の経験)とは、ほとんど同じではないか? 二本あった貿易センター・ビルディングそのものが「蜃気楼」か「砂上の楼閣」なのかもしれなかった。

これは文学的表現だが、現実が想像力を超えることは時々起こる。9・11はその不幸な実例になってしまった。

9・11以降、アメリカの一国主義の傾向が深まり、外国からの旅行者の入国にも様々なチェックが課せられるようになった。最近のテロ未遂事件でこの傾向はさらに顕著になっている。外国人に開かれていないアメリカのどこに魅力を見出せるのか? 今は進んでアメリカを訪れる気になれない。しばらくは、私にとってのニューヨークの記憶は、イースト・リバー近くの「宵闇の楼閣」に限られ続けることだろう。

(その後、東京で同じような景色がないか、探してみた。中央高速道路を新宿から西に向かう途中、初台を過ぎたあたりのマンション群が、宵の時刻に、イースト・リバー近辺の高層住宅と同じように、ゆらゆらと揺れているのにぶつかった。やはり、あった。「都市の周縁地域」、「宵の時刻」、「高層住宅」。この3つが重なると、どの大都市でも似たような景観が現出するようなのだ。) (2006/9)


スイスの休日

2012-07-07 07:32:11 | 異文化紀行


東京・渋谷のBunkamura ザ・ミュージアムで開かれていた「スイス・スピリッツ 山に魅せられ画家たち」を観て来た。セガンティーニ、ホードラー、キルヒナーなど、スイスに生まれ、あるいは、スイスをベースに活躍した画家たちの絵を観ているうちに、ゆくりなくも、スイスで過ごした休日を思い出した。1983年のことである。

(1) マルチニまで

ジュネーヴでの仕事を終えた翌日が休日であった。休養に充てるという先輩と別れ、さて、どうしたものか、と考えた。朝食に降りたロビーでインターナショナル・ヘラルド・トリビューンを見ていると、マルチニ Martigny という町でフェルディナント・ホードラーの展覧会が開かれているとの記事眼に入った。その日が初日である。よし、マルチニに行こう、と決めた。

地図で確かめると、マルチニは、ジュネーヴからレマン湖を半周したところにあるようだ。鉄道で行ける。
駅で確認すると、鉄道で一時間余りの行程だ。著名な避暑地のローザンヌを経由するらしい。早速来た列車に乗り込む。列車がローザンヌに近づくと、車掌が私の車両に来て「ローザンヌ!」と一声野太い声で叫んで立ち去った。これを日本語に訳すと、「次はローザンヌ、ローザンヌです。お降りの方は、忘れ物のないよう、お支度ください。次はローザンヌです。」となろうか。余分なことは言わないのが清々しい。

ローザンヌを過ぎてすぐヴヴェー Vevey に着く。ヴヴェーはそれほど著名ではない避暑地だが、私はこの街に特別な思い入れがある。ドストエフスキーが、ペテルブルグの債鬼から逃れて、アンナ夫人とともに、ドレスデン、バーデン・バーデンを経て滞在した街として記憶に残っていたからである。確かこの前後に赤ちゃんも儲けている。ひっそりとした街の様子を確かめる術もなく、列車はヴヴェーを離れ、有名なシオン城の周りを通って、マルチニに着いた。
 
(2)フェルディナン・ホードラー

マルチニ駅を出る。11月だが、かなり寒い。眼の前に、二つの巨大な三角形の鋭鋒が迫ってきた。しかし、名前がわからない(マッターホルンとブライトホルンだろうか? 正しいことは今でもわからない)。

目指すピエール・ジアナッダ財団 Fondation Pierre Gianadda 文化センターに向かう。
展覧会はフェルディナン・ホードラー Ferdinand Hodler とフェルディナン・ツォンマー Ferdinand Zommer の二人展で、それぞれ50点以上を並べた大掛かりなものである。大きな会場はひっそりとしている。つまり、人が極端に少ない。
山岳画に感銘を受けるとともに、山の日常を描いた絵も印象に残った。山小屋や小屋に寄せて積んである薪など。しかし、それらのどの絵がホードラーのもので、どの絵がツォンマーのものか区別がつかないまま美術館を去ることになった。

二人はスイスを代表する画家のようだ。ホードラーの名前は知っていたが、ツォンマーの名は聞いたことがない。

ホードラーについては、吉田秀和が詳しく論じているのをその後読んだ。(『調和の幻想』、1981年、中央公論社(*))
吉田はホードラーの「秋の夕べ」と菱田春草の「落葉」を並べて論じ、ホードラーの幾何学的パースペクティブの独自性を指摘している。また、ホードラーの絵が、具象にもかかわらず、非写実的・非日常的・装飾的高みを獲得している不思議を指摘している。また、類似した形態の反復がもたらすパラレリスム(「平行の原理」)をホードラーの特徴として挙げている。

ホードラーの本格的画集は見たことがないが、展覧会図録は二点入手した。
 『ホドラー展』(1975年、東京と京都の巡回展)
 『 Ferdinand Hodler 』(1983年、 ベルリン、パリ、チューリッヒの巡回展)
とくに後者は500ページにわたる大部なもので、カラー図版も多く収録されている。ホードラーの主題が、山岳画のほか、古代ローマに題材をとった兵士などや病床の知人などに広がっているのがわかる。人物の描写についてはエゴン・シーレとの類似性が顕著だ。

ピエール・ジアナッダ財団文化センターでは、1991年にも大掛かりなフェルディナント・ホードラー展を開催している。展覧会図録が出ている。内容は山岳画ではなく、古代ローマのロマンスの人物が主である。そういえば、マルチニでは、古代ローマの遺跡があり、ピエール・ジアナッダ財団文化センターはこの古代ローマの出土品を展示する目的で博物館を設置したという。これは、旅行案内書から仕入れた情報だ。ホードラーが古代ローマに題材をとった兵士の絵を大量に残したわけはこの辺にあるのかもしれない。 

なお、ツォンマーについて『新潮世界美術辞典』にあたったが、情報はなかった。 

(3)登山電車

マルチニ駅に歩いて戻った。正午だ。まだ、午後の時間が自由に残っていた。そこで、登山電車に乗ってみることにした。マルチニはフランスとの国境に近い街で、シャモニー方面に行く登山電車の始発駅でもある。切符売場で、「シャトラール・フロンティエール、ゴー・アンド・リターン」と叫ぶと、売り子が「ああ、ラウンド・トリップね」と答えて、往復切符を発券してくれた。(スイスの登山電車については、長真弓/文・写真『ヨーロッパアルプス鉄道の旅』、1992年、講談社カルチャーブックス、を参照)

車両は一両だけで、それが二分割されている。喫煙車と禁煙車である。分煙の徹底に驚いた。駅を出てまもなく、大掛かりなスイッチ・バックを繰り返して斜面を登り始めた。1時間ほどでル・シャトラール・フロンティエール Le Chatelard-Frontiere に着いた。列車はまだ先まで行くが、なぜここで降りることにしたかというと、この先は国境を越えてフランスに入ってしまうからだ。

駅を出ると、大きな峰々が眼前に飛び込んできた。間違いなく、シャモニーを構成する峰々だろう。
やはりかなり寒い。レストランに入り、マトンのクリーム・シチューのようなものを食べた。チーズがたっぷりかかり、まずまずの味だ。傍で、イタリア人のグループらしいのが10人ほどで大騒ぎしている。ここは、フランスに近いとともにイタリアにも近いことを実感した。ちなみに、マルチニもイタリア語から来ているようだ。

ジュネーヴに戻り、一日の遠足を終えた。ホテルで先輩と合流して、街中で中華料理の夕食をとるために再び外出した時には、日もすっかり暮れ、再び寒さを感じ始めていた。  (2006/6)

その後、マルチニ駅から出るシャトラール線については、「旅チャンネル」などで紹介されているのを何度か見た。シャモニー・モンブラン駅まで通ずる電車は「モンブラン急行」として親しまれているとのこと。 (2006/11)