(1)ショパンをめぐって
ポーランドの3大有名人とは、「地動説」を発表したコペルニクス、ピアノの詩人・ショパン、ノーベル賞を受賞した化学者・キュリー夫人を指すそうだ。最近、それに、ローマ教皇に擬せられたヨハネ・パウロⅡ世が加わって、4大有名人といわれている。
中でも、ショパンは国内外で最も有名なポーランド人といっていい。
ショパンは39年の生涯の前半20年をポーランドに過ごし、後半はポーランド国外で過ごした。20歳になった作曲家兼ピアニスト・ショパンは国外に出る。すでにショパンの器を受け入れるような音楽市場は国内になくなっていたのだ。この点は、戦後彗星のように現われたヴァイオリニスト・渡辺茂夫に似ている。渡辺は14歳でアメリカに渡った。
当時のポーランドはプロシア・オーストリア・ロシアの3国に分割され、国内には絶えずそれに対する反乱・蜂起が芽生えていた。ショパンが出国を決意した1830年には、「11月蜂起」が起きて失敗に終わる。ショパンの出国がその直前であったことから、政治的にポーランドにいられない事情があったのではないかと推測されている。その証拠に、出国後、祖国が嫌いであったわけではないショパンは一度も祖国に帰らなかった。この事情を知ると、例えば、ショパンの『英雄ポロネーズ』のかもし出す望郷の念が身にしみるのだ。
ワルシャワには立派なショパン博物館がある。
展示はむしろすっきりしている。ピアニストとして、作曲家として、旅行者としてのショパンが簡潔な展示で理解できるようになっている。そして、さらに詳しく知りたい見学者のために、見学者の入場カードを触れることによって、さらに詳しい解説などを見たりすることができる仕掛けになっている。作曲家としてのショパンのブースでは、該当する曲目の演奏が、同じく、見学者の入場カードを触れることによって、聞ける。これは、素晴らしいアイディアだ。
見学者の意向によって、詳しく観覧できる仕組みは、青森県三沢市の「寺山修司記念館」でも経験した。ここでは、寺山の様々なアクティビティが数多く並んだ「学習机」で表現されており、それぞれの机の引き出しを開けることによって、そのアクティビティの詳細を確かめるようになっている。同じ趣向がショパン博物館でも表わされている。
ポーランドに行ったらショパンを聴かねばならないと思っていた。
クラクフでは、夏のハイ・シーズンには各所で「ショパン・コンサート」が開催されていることがわかった。インフォメーション・センターで調べたところ、多い日には、何と4ヶ所で「ショパン・コンサート」が開かれている。
そのうちの2ヶ所に二晩連続で通った。
一つは、20歳代の女性ピアニスト、もう一つは、30歳代の男性ピアニスト。いずれも、熱演で、満足した。ちなみに、料金は55ztと50zt。1時間のコンサートなので、まず、リーズナブルな価格だ。
実は、私は、ショパンの「偉大さ」はよくわからないのだ。「マズルカ」と「ポロネーズ」との違いもわからない素人だ。しかし、例えば、プログラムの最後に組まれたポロネーズを目の当たりに聴いていると、その激情の所以が自ずから理解できてしまうのを実感する。20歳にして国を出て、39歳で異国に亡くなるまで、国に帰らなかった(あるいは、帰れなかった)ショパンの心情は痛いほどよくわかる。クラクフでの「ショパン・コンサート」はそのような思いを新たにするかけがえのない体験になった。
(2)車内にて
ワルシャワからクラクフまでの列車「マリア・キュリー・スクウォドフスカ号」では、奮発して、1等車にした。1室6席のコンパートメントだ。
先着の、アメリカ中西部から来たと思われる老人夫婦とその20歳代の孫娘の3人連れ、それに、ニューヨークから来たという黒の衣装に黒のシルクハットを被った中年男性が同室であった。この黒の男は典型的なユダヤ人のいでたちだ。
さて、この黒の男が、窓際の席を占領し、さらに前のテーブルにいろいろなものを展開して、その席を「実効支配」しようとしていた。
「もしもし、その席は私の席ですが。」「ん? 座りたいか?」「当たりまえでしょ。」
座席争いが一段落したところで、車内サービスのアテンダントが来た。「お飲み物はいかがですか?」誰も応えない。「ただですが。」途端に「それなら話は別だ。 It’s another story.」と黒の男が声を発した。一同爆笑した。
さてさて、私は「常識を疑え」というコラムで、「スペイン人はなまけもので、フランス人はケチだというのは、他国の人を面白おかしく批評する俗説だ」と述べたのだが、「ユダヤ人はケチで強欲だというのは、シェイクスピア『ヴェニスの商人』以来の俗説だ」と言い切れるのか、いささか怪しくなってきた。
その後、車内は静かになり、老人夫婦とその20歳代の孫娘の3人連れはそれぞれ舟を漕ぎ始め、黒の男は本に目を落としている。身なりは立派で、教養も申し分なく見える男なのだが。
(3)カジミエシュ地区にて
ポーランドとユダヤ人との「相性」は良く、過去多くのユダヤ人が定住の地を求めてポーランドに渡った。ワルシャワやクラクフには大きなユダヤ人街ができた。
ナチスが政権を取り、ポーランドに侵入すると、ワルシャワやクラクフのユダヤ人街にはユダヤ人を閉じ込めるゲットーが作られ、やがて、ユダヤ人はゲットーから引き出されてアウシュビッツなどの強制収容所に送られ、そこで多くのユダヤ人が命をなくした。ポーランドは、まさにおぞましいホロコースト(大量殺戮)の場になってしまった。
クラクフのカジミエシュ地区はそのような歴史を刻むユダヤ人街だ。旧市街に比べると、カジミエシュ地区では、壁の崩れかかった建物が多く、壁にはいたずら書きが多い。赤銅色のよっぱらいが昼間からうろついている。その一方で、銀行の支店が多いのに気づく。
カジミエシュ地区の奥にユダヤ博物館があり、ユダヤの民俗や風習を示す展示がしてある。それに感銘を受けた後、トイレに行きたくなった。スタッフに「トイレはどこですか?」と聞くと、「トイレはありません。」と返ってきた。トイレのない博物館は初めての経験だ。
博物館見学を早々に済ませ、近くのレストランに入った。「トイレを貸してください。」「ワン・ドリンク!」この返答に驚いた。「トイレを使うには、飲み物を一杯注文していただく必要があります。」ということだろうが、ここまでストレートに表現されると、気持が萎縮する。
ワルシャワでも、レストランでトイレを借りたことがあった。「トイレを貸してください。」「はい。その階段を下りたところよ。テラスに席を用意しておきますね。」これがスマートな接客法というものだ。
カジミエシュ地区のレストランのオーナーやウェイター・ウェイトレスがユダヤ人かどうかわからないが、その余りにもストレートで非スマートな接客法に接すると、ふたたび「ユダヤ人はケチで強欲だ。」という「俗説」が頭をもたげてくるのだった。
(4)食事情
「ポーランドの食事には期待しない方がいいよ。」 これが、ポーランド経験者の忠告だった。ポーランドの食事情は予想通りだった。
ピエロギ(ポーランド風餃子。皮が厚い。具がたくさん詰まっている。たっぷりのキャベツとニラとひき肉をパリッと揚げた日本の餃子とは違う。具が少ないのはないものか?)
赤カブのスープ(まずまず。酸味が利いている。)
ほかのスープ(やたらに塩辛い。)
ロールキャベツ(大きい。味も大味。)
ピゴス(牛肉とザウアーフラウトを煮込んだものだが、量が多くて、半分残した。)
このように、十分満足した料理に出会わなかった。
クラクフを離れる前日、イタリアン・レストランで食べたパスタがいけた。何より、量が日本で食べるパスタと同じくらいで、それが救いだった。クラクフにはイタリアン・レストランが多い。一方、中華料理店は少なかった。
カジミエシュ地区の「ワン・ドリンク!」のレストランで食べたスープが皮肉にもこの旅で出会った最高の料理となった。わが国のビーフ・シチューのようで、さらにスープを多くして、その上スパイスを効かしてある。ポーランドとユダヤ人との「相性」の良さを実感することとなった。
ビールをよく飲んだが、チェコのピルゼン・ビールには及ばないと感じた。
(5)琥珀の魅力
ポーランドは琥珀の産地として有名なのだそうだ。琥珀とは、4000万年から6000万年かけて樹液が変化してできたものだそうで、茶色の様々なグラデーションが人を引き付ける。
ポーランドの中でも、バルト海に面したグダンスクが琥珀の一大産地として有名で、そこには、琥珀専門のギャラリーまであるという。今回のポーランドの旅では、残念ながら、グダンスクまで足を延ばすことはかなわなかった。
でも、ワルシャワにもクラクフにも、琥珀を専門に扱うショップが数多くあった。
クラクフのあるショップに入ってみた。左右の壁一面と手前の陳列台に琥珀製品が飾られている。ネックレス、ペンダント、ブレスレット、ピアスなどなど。この店の雰囲気に浸っていると、心が落ち着くのがわかる。茶色は人を穏やかにさせる働きがある。
琥珀の余りの鮮やかさについつい気をとられ、何度左へ右へと店内を移動したろうか? 気がつくと、中央のカウンターにいる三人の若い店員が、私が左に行くと一斉に左に向きを変え、右に行くと、今度は一斉に右に向きを変えているのがわかった。それで、思わず、笑ってしまった。
ここで、勝負あった。ペンダントを一つ求めて、外に出た。
贈るあてのないみやげ物がまた一つ増えてしまった。 (2012/8)
参考資料:
『地球の歩き方 チェコ/ポーランド/スロヴァキア 2012-2013年版』(2012年5月改訂第17版、ダイヤモンド社)
『読んで旅する世界の歴史と文化 中欧 ポーランド・チェコ・スロヴァキア・ハンガリー』(沼野充義監修、1996年、新潮社)
遠山一行『ショパン カラー版作曲家の生涯』(平成12年、新潮文庫)
V・E・フランクル『夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録』(霜山徳爾訳、1991年、みすず書房)