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静聴雨読

歴史文化を読み解く

「プラハの春」

2012-06-29 07:08:48 | 異文化紀行


(1)パリからプラハへ

勤務先の永年勤続表彰で旅行をプレゼントされ、迷いに迷った末、パリに一週間、プラハに一週間のコースに決めた。仕事の出張以外では外国に長く滞在したことがなかった。思い切った贅沢である。パリについては別に記す機会もあろうから、プラハについて記す。1997年のことである。

パリ市街からシャルル・ド・ゴール空港までのタクシーで、運転手に「これからプラハに行くんだ。」といったら、「フーン。プラハってどこにあるんだ?」と返ってきた。フランスとチェコはそれほど、互いに知らない間柄であった。ベルリンの壁が崩壊して、チェコとスロヴァキアが分離した後であったが、フランスの属する「西欧」とチェコの属する「東欧」はまったく違う世界として存在し続けていた。もっともその頃すでに東欧は「中欧」として存在価値を高めつつあったのだが。

プラハを選んだ理由はいくつかあった。
プラハは中世以来の古い街だ。その街の香りを嗅いでみたい。これが一つ。カフカの街、アルフォンス・ミュシャの街でもある。もう一つは、「プラハの春音楽祭」に参加することだ。毎年5月に開かれるこの音楽祭は、1989年のビロード革命のときには、ラファエル・クーベリックを迎えて、スメタナ「わが祖国」を演奏したという伝説にも彩られた有名な音楽祭である(クーベリックはその後すぐ亡くなった)。幸い、この音楽祭のオープニング・コンサートの切符も入手できた。

5月のプラハは好天続きで、空気は乾き、空は高く、夜は20時でも日が暮れない。旅行者には格好の季節であった。朝食を終えるとすぐ観光に出かけ、お昼過ぎには一度ホテルに戻って午睡をとり、夕方ディナーをとったあとコンサートに出かける、というのが滞在中の一日の過ごし方であった。
ちょうどその時期チェコの通貨コルナが大幅に切り下げられ、1コルナ=3.1円から1コルナ=2.6円になっていた。物価の安さが一層強く感じられることになった。なにしろ、生ビール500mlが30コルナ(78円)である。  (2006/9)

(2)「プラハの春音楽祭」

「プラハの春 Prazske Jaro 音楽祭」(チェコ語では、 z の上に ^を逆さにした記号が、e の上にアクセント記号が付く)は、1968年の民主化運動(「プラハの春」、と呼ばれた)を誇りとして記憶するために開催されるようになった音楽祭である。そのオープニングとクロージングはスメタナ「わが祖国」全曲の演奏と決まっている。毎年選りすぐりの指揮者と管弦楽団が演奏を担当する。この年は、ガエターノ・デログ指揮プラハ交響楽団が演奏した。

会場は市民会館のスメタナ・ホール。プラハ市民自慢の建物であり、ホールである。アール・ヌーヴォー様式の装飾が美しく、華麗で明るい雰囲気を持っている。演奏当日、いつものように、午前中は観光のつもりで、下見もかねて、この市民会館を訪れた。ちょうどロビー・ホールで歴代の陶器の展示を行っていたので、それを見てみることにした。ここで、思わぬことが起こった。どこからか、オーケストラの合奏が聞こえてきたのだ。聴くと、スメタナ「モルダウ」ではないか。ようやく、事情を理解した。コンサート・ホールで、今夜の演奏のためのゲネラル・プローベ(総稽古)をしているのが聞こえてきたのだ。稽古は「わが祖国」の前半3曲を通しで行い、少しの休憩をはさんで、後半3曲を行うという、まさに本番並みのものであった。思わぬ得をした気がした。

さて、夜の演奏会は、荘厳な中にも、華やかさにあふれていた。舞台奥に「プラハの春」の垂れ幕が下がり、左上のバルコニーにはハヴェル大統領夫妻が臨席していた。会場は満席で、そのうち10%ほどが日本人であった。
チェコ国歌の演奏に続き、スメタナ「わが祖国」の演奏が始まった。それとともに、恥ずかしくも涙が頬を伝うのを抑えきれなかった。
はるばる東欧の地に身を置いていることや人生の来し方の感懐が押し寄せたのかもしれない。
また、1968年と1989年の二度の民主化で勝ち取ったチェコ国民の歓びを象徴する演奏会にいることに興奮したためかもしれない。

あっという間に、スメタナ「わが祖国」全曲の演奏が終わった。熱気を冷ますべく、夜の街をホテルまで歩いて帰った。  (2006/10)

(3)美術と建築の町プラハ

プラハは音楽の町であるとともに美術と建築の町でもある。
「百塔の街」といわれているように、キリスト教会の尖塔が町のいたるところに顔を出している。古く大きな教会が数多くある。12世紀・13世紀から建立されてきた教会であるから、当然傷みも激しい。修復中のものも多い。その修復期間も半端でなく、一つの教会が修復されて再開するまでに20年から30年はかかるらしい。一度訪れて修復中にぶつかると、30年後の再開まで訪問を待たねばならない。なんとも悠々とした時の流れである。

プラハの町と建築については、帰国後の2001年に出版された、田中充子「プラハを歩く」、岩波新書、が最適の案内書である。この本を持っていたら、さらに興味深くプラハの町を歩けただろうに、との思いもある。(現地で入手した Prague and Art Nouveau という写真集(*)が参考になった。)

しかし、あてずっぽうの散策も楽しいものである。
プラハでは、建築とともに絵を見て歩くのが目的の一つであったので、各所の美術館をめぐり、古代・中世から始まり、16世紀のルドルフ二世の最盛期を経て、近代まで、相当の数の絵を見た。3000点ほどになろうか。

面白い経験もした。ヴルタヴァ河の河岸にある魚料理店(シーフードではなく、川マスのから揚げなどを供するレストラン)から出て、目の前にあるクルーズ船に乗った。どこを経由して、何時間かかるクルーズか確かめていなかったが、気にしなかった。船は1時間後に上流のあるはしけに停泊した。どうやら、終点らしい。周りの乗客の後について、船をおりた。しかし、付近には何もない。再び、周りの乗客の後を金魚の糞のようについていった。すると、建物が現われ、道路も現われて、小さな町中に入ったようである。眼の前に、大きな館が現われ、美術館らしい。そこで、思わぬことに、17世紀から19世紀にかけてのチェコの絵画を300点ほどまとめて鑑賞する幸運に恵まれたのである。

今でもその町の名を知らないし、美術館の名前もわからない。わかっているのは、プラハの市街からクルーズ船で1時間ほど遡行した町の中の館ということだけである。
その町のバス停留所からプラハ市街行きのバスに乗った。親切な人が、「どこに行くのか?」と訊ねてくれて、切符の買い方も教えてくれた。この小さな町では、英語のわかる市民はおらず、すべてチェコ語による案内であったが、よくわかった。

恒例の午睡を取るには遅すぎた。その夜は、モーツァルト「ドン・ジョヴァンニ」を観ることになっていた。ホテルで着替えを済ませ、さて夕食はどうしようかと考えた。  (2006/12)

(4)買いそびれたイコン

ヴルタヴァ川の右岸に広がる旧市街は、細い、というよりは細かったり太かったりする道路の入り組む街並みである。その中のあるアンティーク・ショップで、1900年ごろのものというグラスを2客見つけた。ワイン・グラスにしては分厚すぎるし、ビール・グラスにしては容量が小さい。しかし、金の装飾を施しているのがおしゃれで、すぐに求めることにした。1客300コルナ(780円)で、チェコではいい値段(つまり、高い)のようだが、私にとってもいい値段(つまり、安い)だった。

ほかにもいいものがあり、翌日また覗いてみようと思った。ところが、このもくろみは見事失敗した。そのアンティーク・ショップにたどり着けなかったのだ。それほど、旧市街は道が覚えにくい。はっきりした目安をいくつも記憶しておかないと迷子になることを実体験した。

旧市街からカレル橋を通ってヴルタヴァ川を渡り、坂を上っていくと、プラハ城に着く。プラハ城からフラチャニ地区のストラーホフ修道院までの道には、土産物屋が多く並んでいる。ひやかしていると、イコンが多く出ていることがわかった。イコンとはギリシア正教の聖画のことで、偶像崇拝を排するギリシア正教の世界で、偶像の代わりに崇めるために用意されたもので、木彫りのものが多い。

土産物屋で見たイコンは新しいものが多く、その割に高くて、食指が動くことはなかった。

ストラーホフ修道院からヴルタヴァ川までは、だらだら坂を下っていく。その途中に、粗末なたたずまいのアンティーク・ショップが店を出しており、覗いてみた。偏屈そうな親父が店番をしている。外見からは想像できなかったが、店内にはイコンが多く展示されている。

その内の一つに眼が釘付けになった。初老の男が幼子を慈悲深い目で見守るもので、珍しい絵柄だ。かなりの年代もののようだ。親父に聞くと、「18世紀」と答えた。気に入って、「いくらですか?」と聞くと、「1万コルナ(26,000円)」とのこと。親父はそう答えると、そのイコンを新聞紙で包み始めた。
私はいささかあわてた。値段にひるんだのではなく、現金の持ち合わせがなかった。再度の訪問を約して、ひとまず、店を出た。

以後、プラハを離れるまで、このアンティーク・ショップを再訪する時間の余裕がないままであった。あのイコンを買いそびれたのは、返す返すも残念なことであった。
今度、プラハを訪れる機会があれば、まず一番に、あのアンティーク・ショップに行って、イコンを吟味してみたいと思う。 (2007/1)

(5)様々な音楽体験

「プラハの春音楽祭」のオープニング・コンサートでスメタナ「わが祖国」全曲を堪能したほかにも、以下のオペラやコンサートを楽しんだ。

ヤナーチェク「イェヌーファ」(国民劇場) : 入り組んだ家族の中における幼女殺しをテーマにした重いオペラだが、これを見て、ヤナーチェクのオペラの面白さに一気に目覚めることになった。従来の多くのオペラと違って、テーマの同時代性、庶民性、真摯さなどが斬新だ。隣りでおばあさんと小学生くらいの孫娘が熱心に鑑賞していた。とても感動したと話しかけると、おばあさんはうなずいていた。この劇場では、外国人の観客は少なかった。

モーツァルト「ドン・ジョヴァンニ」(エステート劇場) : 1787年、モーツァルトはここでこの曲のピアノ演奏版でデヴューを果たした。舞台の奥行の深いオペラハウスらしいたたずまいがすばらしい。素晴らしいアンサンブルだった。

ベートーヴェン「ヴァイオリン協奏曲」(アンネ・ゾフィー・ムター独奏、「プラハの春音楽祭」、スメタナ・ホール) : コリン・デーヴィス指揮ロンドン交響楽団との協演。日本では(切符がすぐ売り切れて)聴けなかったムターにプラハで出会うとは! その容姿のように、ゆったりとした堂々たる演奏だった。

(6)迷宮のプラハ

さて、エステート劇場のある旧市街で、アンティーク・ショップを見失ったことはすでに述べた。プラハではよく起こるといわれることを実体験したのだが、現実と仮想の間があやふやになるという体験は神秘的である。ちょうど、カフカが「変身」や「審判」で描いたような仮想現実感が街の至るところにちりばめられている感じだ。

旧市街の北部を占めるユダヤ人街のあやふやさも相当のものだし、市街からクルーズ船で1時間ほど遡行した町の中の館で見た17世紀から19世紀にかけてのチェコの絵画も、本当にそこにあったのかという神秘さがある。

ストラーホフ修道院の図書館もかなり怪しい雰囲気を漂わせている。壁一面に本棚が据え付けられていて、そこにびっしりと、白い皮で装丁した書物が埋め尽くされていて、そこからは妖気さえ匂わせている。本好きの私でさえ後ずさりしそうなほどだ。求めた絵葉書はすでに手元にないが、絵葉書さえも異様な妖気を伝えていたことを覚えている。

プラハを解く鍵が、迷宮であり、仮想現実感であることを実感した1週間であった。 (2007/3)


バイエルン紀行・Ⅴ 旅の終わり

2011-10-27 07:32:37 | 異文化紀行

 

(15)再びナチスの影

ミュンヘンには4泊したが、ノイシュヴァンシュタイン城やシュタルンベルガー湖など、ルートヴィヒ二世を偲ぶ遠出に時間を割いたので、ミュンヘン市内の見物の時間が少なくなった。それに加え、バイロイトからミュンヘンへと続いた長旅で、旅の終末期特有の「無感動症候群」にも襲われ始めていた。

当初の予定では、アルテ・ピナコテーク、ノイエ・ピナコテーク、モダーン・ピナコテークの3大美術館には足を運ぶつもりだった。ところが、アルテ・ピナコテークだけで4時間もかかってしまい、ほかの美術館に足を向ける気力は残らなかった。また、別の機会に取っておこう。

フランツ・ハルスという肖像画家がいて、高位の人の陽気な肖像画を多く残しているのだが、アルテ・ピナコテークにも1点フランツ・ハルスの絵があった。だが、それは、側廊の端に掲げられており、かつ、壊れかかった額縁に収まっていたのが痛ましかった。アムステルダム国立美術館では、主役級の扱いを受けている画家なのだが。

口直しというか、ミュンヘン見物の締めくくりに、ミュンヘン大学にある「白バラ博物館」を訪れた。

「白バラ」とは、ナチス・ドイツに抵抗した末に虐殺された、大学教授と大学生とその家族のグループの名前で、その存在はわが国にも知られている。最近、映画にもなったという。

彼ら一人一人の写真や手紙(読めるわけではないが)を眺めているだけで、ミュンヘンの地に影を落とすナチスの大きな負の遺産に気づかされる。ミュンヘンの西北の近郊にはダッハウ収容所跡もある。バイロイト音楽祭の『パルジファル』(中世スペインとナチスの時代とを重ね合わせる演出で驚かされた)といい、ミュンヘンの「白バラ博物館」といい、今でも、ナチスと対峙することがドイツ人の宿命になっていることを感じた。 

(16)15日間の休暇

15日間のバイエルンの旅は終わった。

今回の経験を踏まえ、再びバイエルンを旅する機会があれば、以下のことに注意したい:
1 日本から直接ニュルンベルクに飛び、ニュルンベルクに一泊する。
2 ホーエンシュヴァンガウに一泊して、南ドイツの「上高地」を堪能する。
3 高地用の羽織るものを用意する。
4 ビタミンCの錠剤を用意する。
5 独和辞典を持参する。

15日間というのは私にとって特別の意味がある。これまで、仕事上の出張でもプライベートの旅行でも、最長が15日間だった。それ以上になると、「無感動症候群」に襲われることが確実なのだ。

今回の旅行は、昨年の12月に計画して、今年の8月に終わったものだが、実は、その間、一つ、気がかりなことがあった。老人ホームに入所している母に何か起こったらどうしよう。幸い、この間、母は元気に過ごした。

帰国後、老人ホームに母を見舞うと、いつものように無表情で迎えられたが、一瞬、口元がわずかに緩んだ。これが、現在の母の最大の意思表示だ。「お昼を食べるか?」と聞くと、頷く。
ほっとして、老人ホームを後にした。15日間の休暇が明けて、再び、日常に戻った。 (2009/10)

参考資料:
『地球の歩き方 南ドイツ 07-08 』、2008年8月改訂第2版第2刷、ダイヤモンド社
ジャン・デ・カール『狂王ルートヴィヒ 夢の王国の黄昏』、三保 元訳、1987年、中公文庫
『王の夢・ルートヴィヒⅡ世』、撮影・篠山紀信、文・多木浩二、昭和58年、小学館
C・ペトリ『白バラ抵抗運動の記録 処刑される学生たち』、関 楠生訳、1971年、未来社



バイエルン紀行・Ⅳ カルチャー・ギャップ

2011-10-25 07:36:22 | 異文化紀行

 

(12)サイクリング文化

シュタルンベルガー湖のルートヴィヒ二世入水の地に建つチャペルの前はサイクリストで溢れていた。いずれも、サイクリング用のスパッツに身を包み、ヘルメットを被った本格的ないでたちだ。チャペルの前に大きな看板があり、「Konig Lutwig Weg 」とある。日本語にすれば、「ルートヴィヒ王の道」だ。はて、これも、わが国に同類があるではないか。そう、「おくの細道」だ。

「王の細道」は、ルートヴィヒ二世ゆかりの地を結ぶ道で、ノイシュヴァンシュタイン城、ホーエンシュヴァンガウ城、リンダーホーフ城、ベルク、ヘーレンキームゼー城、ミュンヘンなどを自転車で巡るのがこの国の流行らしい。丘から森へ、森から湖へ、湖から丘へとたどる「王の細道」は、ドイツ人の「さすらい」好きの現われのように思える。

ドイツ人の「さすらい」の伝統は古い。
親方・徒弟制度では、徒弟が技能を磨くために各地に赴くのが習慣になっていた。

シューベルトが曲を付けたウィルヘルム・ミュラーの『冬の旅』も、失恋した若者が冬の凍てつく各地をさすらう物語詩だ。

ワーグナーの『ニーベルングの指輪』では、神々の王ヴォータンが「さすらい人」に身をやつして各地の民情を探る。

「ワンダーフォーゲル」は若者が徒歩で旅行するという言葉として知られている。

現代では、この「さすらい」を自転車で実行する文化がドイツに根付いているらしい。サイクリストは若者だけでなく、30歳代から50歳代までの男女に、拡がっている。彼らの多くは高性能車に乗っている。新聞広告で見ると、1台2000ユーロ(27万円)ほどだ。半端な金額ではない。

サイクリング文化を支える環境も出来上がっている。
ミュンヘンの市街で、何度か、道行く人に注意された。「そこは、自転車道ですよ。」歩道の一部分が色分けされて、自転車専用道になっているのだ。

列車に自転車を持ち込むこともできる。何しろ、改札はないし、「自転車を折りたため」などという規制もない。気兼ねなく、自転車で遠出ができる。これはうらやましく感じた。 

(13)休日の列車内

ニュルンベルクからバイロイトに向かった日は、たまたま、日曜日であった。「さすらい人」のドイツ人がここにも多くいた。休日をどこかに出かけて過ごすのだろう。

ニュルンベルク駅に停車中の列車内も大分込んできたが、座席を大きなリュックサックやボストンバッグで占拠している乗客がいる。ドイツ人の持ち込む荷物は大きい。おそらく、中国人の乗客と並んで、ドイツ人の乗客は列車内に荷物を多く持ち込むようだ。

やがて、社内がさらに込んできた。入って来た一人の青年が、荷物で座席を塞いでいる中年の男性乗客に向かって話しかけた。「 Frei ? 」 フライ、空いてますか、という意味だろう。中年の男性乗客は何か言ったか言わなかったかわからない程度の反応だった。青年はそんなことではへこたれない。「お荷物を網棚に載せてもよろしいですか?」と言ったに違いない。中年の男性乗客は、それでも反応しない。すると、青年はさっさと中年の男性乗客の荷物を網棚に載せて、空いた席に腰掛けた。見事な掛け合い漫才だった。

主張すべきは主張するという気風が気持ちよかった。

ミュンヘンのSバーンでは、乗車してきた女性が、座席に座っている男性に向かって何やら話しかけ、男性は席を立ち、女性が腰掛けた。女性は妊婦らしい。「妊婦には席を譲るべし」という決まりがあって、女性はその決まりに基づいて、男性と交渉したのだろう。ここでも、主張すべきは主張するという考え方が根付いていて、それを実行に移す風潮が出来上がっている。

それに引き換え、荷物で座席を塞いで平気でいる中年の男性乗客はどう理解すればいいのだろう。単にこの男性にとどまらず、進んで座席を空けようとしない乗客が、男女とも、30歳代から50歳代にかけて、数多くいた。これは大きなショックだった。これまでドイツ人に抱いていたイメージは、公衆道徳をよく守る、というものだったが、今回その正反対の事態に遭遇したわけだ。

この中年の男性乗客の振舞いが、この日この列車でたまたまあったことなのか、南ドイツに漫延しつつある公衆道徳の乱れなのか、ドイツ全般に一般化したマナー崩壊の一端なのか、この事例だけでは測りがたい。しかし、注目すべき事象だとは言える。

ノイシュヴァンシュタイン城からの帰り、カウフボイレン駅では、ミュンヘンに向かう乗客で混雑していた。車内に乗り込むと、3人掛けの座席の一つにバッグが置いてある。そこで、私は、バッグの持ち主らしい隣席の青年に、座席を指して、「 Frei ? 」と聞いてみた。青年はすぐにバッグを自分の膝上に引き上げた。「 Danke schon. 」 これで、私もドイツ人の仲間入りをした気分になった。

旅に出て初めて気づくことがあるものだ。それが旅の効用でもある。

(14)英語が通じない!

英語が通じない、ということが、今回の南ドイツ紀行での最大の発見であり、驚きであった。
「スペインやイタリアの田舎町では英語が通じないから、気をつけなさい」とはガイドブックでよく目にするフレーズだ。スペインやイタリアだけではない。ドイツでも英語が通じないのだ。田舎町だけではない。ミュンヘンの街中でも英語が通じないのを経験した。

ホテルやレストランで決まり文句の英語が通じるのは当たりまえだが、決まり文句を少しはずれると、皆、キョトンとした顔つきになる。

街中で案内を請うために英語で話しかけると、こちらの言葉は理解されることが多いが、答えは決まってドイツ語だった。(独和辞典を持参しなかったのは失敗だった。Dienstag が火曜日だというのがわからないくらいなのだから。)

ドイツ人は学校で英語を学んでいないのだろうか? そう疑いたくなるような事態だ。
もちろん、英語が絶対的な外国語だというつもりはないが、ドイツの学校での外国語教育はどうなっているのだろう。同じEU内の同盟国のフランスのフランス語を第一外国語としているのであれば、とりあえず、納得がいく。しかし、そのようなことがあるのか?

ドイツ人は、フランス人のように尊大になってほしくないし、外国語としての英語を尊重してほしいと思う。

今回の旅行で最も英語が通じたのは、ニュルンベルクのクーヘン(菓子)のみやげ物店のおばさんだった。
「これら二つのクーヘンはずいぶん値段に差がありますが、なぜですか?」
「生地が生に近いか、乾かしているかが違います。ほら、こちらが生に近いクーヘンで、ミルクの量も多くなっています。それで、高額になっています。」
「なるほど。それで、どちらがお勧めですか?」
「それは、場合によりけりです。お客様が、すぐに食したいのであれば、こちらの生に近いクーヘンをお勧めします。また、日本に持って帰られるのであれば、こちらの乾いたクーヘンの方がいいでしょう。」
「わかりました。じゃあ、こちらをもらいます。」
このような会話は普段あまりしていないと思うが、こちらの質問に的確に答えてくれた。
 (2009/10)


バイエルン紀行・Ⅲ ドイツ食事情

2011-10-21 07:53:36 | 異文化紀行

 

(9)朝食の定番

旅行先で食事に悩むのはいつものことだが、とくに朝食が重要だと気づくようになった。
今回、バイロイトとミュンヘンで泊まったホテルはどちらも中級ホテルだったが、その朝食は驚くほど互いに似通っていた。それを紹介しよう。

共に、ビュッフェ形式。
共に、用意されるのは;
・パン数種類(いずれもおいしい)
・バター、ジャムの類
・セリアル
・ハム数種類、ソーセージ
・チーズ数種類
・ヨーグルト
・果物数種類
・コーヒー、紅茶など
・ジュースなど。

種類も量も十分だ。だが、一つだけ欠けているものがある。それは野菜だ。こちらでは、野菜を摂る習慣がないのだろうか? そんなことはあるまい。おそらく、野菜のコストが高いのだと思う。果物とジュースだけでは、ビタミンCが不足してしまう。その影響はてきめんで、日本に帰った後、唇に吹き出物が出て困った。ドイツを旅行する時はビタミンCの錠剤を携行する必要がある。

朝食は毎日同じところで同じものを食べることになるので、飽きのこないのが一番だと思う。パンさえおいしければ、朝食に飽きはこない。  

(10)巨人族の食事

以前、「大食い世界一周」というコラムを記した。その中で、イタリアとフランスの大食いぶりを紹介したのだが、ドイツについてははっきりとした印象がなく、深く触れなかった。今回、2週間のドイツの旅で、ドイツも明らかに大食いの国だということがわかった。

ワーグナーの『ニーベルングの指輪』には、巨人族と小人族とが出てくるが、それに擬えると、こと食事に関しては、イタリア・フランス・ドイツの人々は巨人族で、日本人は小人族であることを実感する。小人族は巨人族と同じように食事に接することが無謀なのだ。例えば、一皿の肉料理を注文しても、私はせいぜいその60%しか平らげられなかった。

あるレストランに「少食の人のためのメニュー」があり、その一つはスパゲッティであった。それにヒントを得て、何軒かのレストランでスパゲッティだけを試した。その結果、スパゲッティの量が少ない店が確かにあった。困った時にはスパゲッティに逃げ込むというのが、ドイツで得た一つの知恵だ。

ここで、巨人族の国で食事をするための留意事項を記しておこう。

1 コース料理の呪縛から脱すること。前菜、主菜、デザートのコースは忘れること。一品だけ注文しても何ら恥ずかしくない。

2 気のあった人との二人連れであれば、二人で一皿の料理を注文すること。この場合、どちらかの好みを抑える必要があるが、それができれば、これはいい解決法だ。取り皿を1枚余分に取り寄せればいい。それで、少し物足らなければ、デザートを、これも、二人で一皿注文すること。デザートだからといって侮ってはいけない。たっぷり、2人前のものが出てくるのだから。

3 昼食時などで軽い食事が取れる場合は、迷わずそうすること。その後の空腹を恐れてはいけない。

私の経験した「軽い食事」でおいしかったのは、デナー・ケバブのサンドウィッチ。ドイツにはトルコからの出稼ぎの人が多いようで、羊肉を焼いて薄くスライスし、それを、たっぷりの野菜とヨーグルトと一緒にパンに挟んだものがよく売られている。日本で見るものよりはやや大きいが、昼の腹の足しにちょうどいい。

夜食では、地中海料理(つまりイタリア料理)のレストランで食べたスパゲッティ。量は日本のそれの2割増しくらいで、無理すれば、完食できた。とくに、ホウレン草をパテ状にして、春巻きのように生地で包んで蒸し焼いたスパゲッティは新たな発見だった。 

(11)究極はソーセージ

デナー・ケバブもスパゲッティもドイツの料理とはいえない。バイエルンの料理では、やはり、ソーセージを挙げないわけにはいかない。そして、ソーセージは私の食の悩みを解決する料理でもあった。

ニュルンベルク・ソーセージは、直径1cm 、長さ10cm ほどのソーセージを客の目の前で焼いてサーブしてくれる。わが国の「焼き鳥屋」感覚だ。6本のソーセージにザワー・クラウトまたはポテト・サラダを付け合せて食すれば、幸せな気分になる。これは、少食の小人族にもぴったりの料理だ。
ニュルンベルクでも味わったが、ミュンヘンのフラウエン教会前にもニュルンベルク・ソーセージを食べさせる店があり、そこでも味わった。

ミュンヘンには白ソーセージなるものがある。タール通りにヴァイセス・ブロイハウスというビアホールがある。日本語に訳せば、「白ビール醸造所」だ。そこで食べた白ソーセージはことのほか旨かった。

生の白ソーセージがボイルされてサーブされる。直径2.5cm 、長さ10cm ほどで、それが2本単位で注文できる。付け合せは何もない。ソーセージの肉は甘みがあり、からしをつけて食べると絶品の味だ。これが、今回の南ドイツの旅で味わった最高の味だ。量も多すぎず、少食の私にぴったりだ。

ビアホールの中は午前中から賑わっている。グループで騒いでいる男たちの隣には一人で新聞を読む男がいる。皆、ビール片手に白ソーセージを啄んでいる。また、プレーツェルというミュンヘン独特のパンを食べている人もいる。
この白ソーセージは鮮度が命で、昼12時には注文ストップになるという。 (2009/10)



バイエルン紀行・Ⅱ ルートヴィヒ二世を偲ぶ

2011-10-19 07:58:20 | 異文化紀行

(4)フュッセンまで

翌日は、ノイシュヴァンシュタイン城まで、日帰りの観光を試みた。
前日、ミュンヘン中央駅で、時刻表を調べた。出発と到着の時刻が全紙大の紙にびっしりと書き込まれている。この時刻表は優れもので、例えば、出発の時刻表には、始発駅とその始発時刻、主要駅とその経過時刻、当駅の出発時刻と番線、終着駅までの主要駅とその到着時刻が一目でわかる。

その出発の時刻表を見る限り、フュッセン駅まで行く列車は朝に一本あるだけだ。
一方、私のガイドブック(『地球の歩き方 南ドイツ 07-08 』、2008年8月改訂第2版第2刷、ダイヤモンド社)によると、「ミュンヘンから直通のRER快速が平日の日中は1時間に1本運行」とある。さて、どちらが正しいか?

日本に帰り、『トーマスクック ヨーロッパ鉄道時刻表 2001初夏』をひも解くと、ミュンヘンからフュッセンまで行く列車が一日に7本あった。私のガイドブックの情報とピタリ符合する。何のことはない、私のガイドブックの情報が古かったのだ。ガイドブックを頼りすぎてはいけない一例だ。

さて、朝一本だけあるフュッセン駅行き直通列車を捕まえるため、ミュンヘン中央駅の隣のパージン Pasing 駅に赴いた。プラットフォームの表示板には、「7:59 MEMMINGEN」とあり、フュッセンの文字がない。不安になり、近くで乳母車を引く女性に尋ねた。「この列車はフュッセンに行かないのですか?」「行くと思いますが・・・」「では、なぜ表示がないのでしょう?」

しばらくやりとりをしている間に、彼女のことばの中に「バック」という音が入ったように感じた。ドイツ語か英語かはわからない。英語だとすると、「後ろの車両がフュッセンに行くようです。」と言っているのではないか。彼女に礼を述べて、プラットフォームの後ろに移動した。入って来た列車は想像通り、2編成を連結したものであった。車内で女車掌に「フュッセンに行くのですが、乗り換える必要がありますか?」と聞くと、にきび面の彼女は「あなたは、このまま座っていればいいのよ。」と答えた。それで、安心した。すると、パージン駅のプラットフォームの表示板には、「7:59 MEMMINGEN(前の4両)、FUSSEN(後ろの4両)」のように表示すればいいのではないか。

列車は途中のブッフローエ駅(2編成の切り離し)とカウフボイレン駅(アウグスブルク方面からの列車の待ち合わせ)で長い停車をした後、単線区間に入った。緩い勾配の坂道を上って行く。車窓には、一面に牧場が広がり、牛がのんびりと草を食んだり、寝そべったりしている光景が続く。やがて、列車はフュッセン駅に着いた。 

(5)ノイシュヴァンシュタイン城

フュッセン駅に着いたのが10時40分。かなり涼しい。今回は、この涼しさを想定した準備をしていなかったのが大きな間違いであった。そのため、バイロイトで着用したスーツに再びお役を務めていただく破目になった。

フュッセン駅からホーエンシュヴァンガウまでバスで行く。ところが、その先にまだ難関が待ち構えていた。ノイシュヴァンシュタイン城に入るチケットを購入しなくてはならない。その購入者の列が長蛇の列だ。結局、チケットを入手するまでに1時間を浪費し、時刻は12時30分だ。そして、ホーエンシュヴァンガウ城の入場時刻が13時40分、ノイシュヴァンシュタイン城の入場時刻が15時40分と決まった。何と、朝7時にホテルを出て、ノイシュヴァンシュタイン城に入場するまでに、8時間40分かかることになった。

道路に面したレストランのテラスで、この日初めての食事にありつき、ホーエンシュヴァンガウ城を見学し、ノイシュヴァンシュタイン城に向かう。といって、それは簡単ではない。登り道を歩いて40分かかるという。ほかに、馬車とシャトルバスが出ているとのことで、シャトルバスを利用した。シャトルバスはノイシュヴァンシュタイン城の裏側のマリーエン橋まで連絡している。マリーエン橋は深さ100メートルほどある峡谷に架けられた木のつり橋で、その上に立つと足がすくむ。また、マリーエン橋から望むノイシュヴァンシュタイン城は優雅なたたずまいを見せている。この日は、外装の修復のため、幕がかけられていたが、城の優美さは想像できる。

定刻の15時40分に入場が始まった。日本語のイヤフォン・ガイドを貸してくれる。城内は夢想家ルートヴィヒ二世の趣向をこらした内装の部屋が続く。この点は、これまで、テレビの映像や文献で紹介されていた通りだ。王は、自らを、ワーグナーの楽劇の主人公に擬して疑わなかったという。例えば、『ローエングリン』の白鳥の騎士や『トリスタンとイゾルデ』のトリスタンなど。ノイシュヴァンシュタイン城の内部は、ルートヴィヒ二世のワーグナー狂いをそのまま具現化するための装置だった。

しかし、その王が本当に「狂って」いたかどうかは別の話だ。世の中には夢想家は数多くいる。芸術家は夢想家であることがむしろ普通だ。「ペテルブルグの夢想家」と称されたのはドストエフスキーだが、彼を「狂人」扱いにする人は少ない。ルートヴィヒ二世はワーグナーの楽劇に入れ込んだが、ドストエフスキーは賭博に入れ込んだ。どっちもどっちだ。ノイシュヴァンシュタイン城で確認できるのは、ルートヴィヒ二世の「夢想家」ぶりのとてつもない大きさだ。 

(6)ホーエンシュヴァンガウ

ノイシュヴァンシュタイン城のあるホーエンシュヴァンガウは、シュヴァンガウ(市だか町だか村だか知らないが)の一部だ。ガイドブックによると、シュヴァンガウは「白鳥の高原」の意味で、「ホーエン」は「高い」という意味だから、ホーエンシュヴァンガウは「白鳥の高原のうちでさらに高い地」という意味になる。はて、どこかで聞いたような? そう、「上高地」と同じではないか。

松本-新島々-上高地の位置関係は、そのまま、カウフボイレン-フュッセン-ホーエンシュヴァンガウの位置関係に重なるのだ。上高地に大正池があるように、ホーエンシュヴァンガウにノイシュヴァンシュタイン城がある。こう考えるとわかりやすい。

この日は帰りの列車の都合も考えて、ホーエンシュヴァンガウを早々に脱出したが、惜しいことをした。ホーエンシュヴァンガウはノイシュヴァンシュタイン城観光の基地としてのみならず、ほかにも魅力のありそうな土地なのだ。

まず、ホーエンシュヴァンガウ城。この城は内部は一度見れば十分だが、外観が素晴らしい。周りの山麓を背にした城のたたずまいには威厳がある。また、夏の夜には、城がライトアップされるという。
次に、アルプ湖。ここには今回行けなったが、山間にたたずむ湖は神秘的らしい。

再訪する機会があれば、ホーエンシュヴァンガウに入ったらアルプ湖を訪れ、夜は、ホーエンシュヴァンガウ城のライトアップされた姿を鑑賞するために、ホーエンシュヴァンガウに一泊する。これが、理想だ。ノイシュヴァンシュタイン城のライトアップした姿も拝めるかもしれない。  

(7)シュタルンベルガー湖

ノイシュヴァンシュタイン城から帰った翌日、シュタルンベルガー湖を訪れた。ノイシュヴァンシュタイン城と並んで、今回のバイエルン紀行の目玉の一つと考えていた場所だ。
前日とは打って変わり、空は晴れわたっている。それでも、朝はひんやりとした冷気が身を包む。

私の宿のあるガウティンからシュタルンベルクまで2駅。シュタルンベルク駅がシュタルンベルガー湖畔に面している。
3階建ての大きな観光客船が停泊している。乗船チケット売り場は船内にあった。いかにも、ドイツらしい。

2階のデッキで出発を待つと、日差しがまぶしい。目指すは対岸のベルク Berg 。
ベルクには、ルートヴィヒ二世が幼少期を過ごしたベルク城があるとともに、王が入水した場所がある。それで、是非、訪れたいと思っていた。

シュタルンベルクからベルクまでの航程はわずか10分。ベルクの船着場の脇にあるレストランでルートヴィヒ二世が入水した場所を尋ねる。「あっちよ。」とウェイトレスが南を指した。周りを見回したが案内標識はない。でも、南を指して歩き始めた。10分ほど歩くと、木戸から藪に入る道があった。自転車に乗った人たちが、木戸から中に入っていく。私も、後に続いた。鬱蒼とした木立ちの中を歩くこと10分、ある建物に到達した。

そして、その建物の前に、本などで見覚えがある十字架の建つ庭があり、さらに、その前の藪が幅10m ほど切り開かれて、湖が望める。そして、そして、湖の中、湖畔からわずか5m ほどの位置に、もう一つの十字架が建てられているのが見えた。これも、本などで馴染みのものだ。これが、ルートヴィヒ二世が入水したという場所であった。

深い感動が身を駆け抜けた。
まず、すべてがとても簡素であること。2つの十字架に飾りは何もない。
次に、湖の十字架-庭の十字架-後ろの建物(これは、後世に建てられたチャペルであった。)と並ぶ線の一直線の素晴らしさ。
そして、周りの静寂。
ここはルートヴィヒ二世を偲ぶにふさわしい場所だ。 

(8)王の入水

ルートヴィヒ二世は、侍医グッデンから「パラノイア。不治の病。王権の維持不能。」の診断を受け、ノイシュヴァンシュタイン城に幽閉される(1886年)。そして、すぐに、ベルク城に移送された。ジャン・デ・カール『狂王ルートヴィヒ 夢の王国の黄昏』、三保 元訳、1987年、中公文庫、によると、馬車で8時間の行程であったそうだ。

その数日後に王は入水して果てた。侍医グッデンが行を共にした。一応ここでは「入水」と表現したが、王の死因を深く詮索することは当時なかったようだ。だが、普通に考えれば、3つの可能性がある。

1 自殺説。この場合、侍医グッデンも「殉死」となろう。
2 事故説。死ぬつもりはなかったが、何らかの事故で溺死した。
3 他殺説。誰かに殺された。この場合、犯人は侍医グッデンしかありえない。

ジャン・デ・カールは、ノイシュヴァンシュタイン城における王と侍医グッデンとのやりとりを記録している。次の王の言葉。「診察したわけでもないのに、どうして私が精神に異常をきたしているといえるのかね。」この言葉は重い。王は、人一倍の夢想家ではあったが、決して、狂人とはいえない、というのが私の感想だ。

しかし、湖畔からわずか5m ほどの位置で人は死ねるのだろうか。謎は永遠に残る。

ミュンヘンのミヒャエル教会の地下室は墓地となっていて、王室の人たち二十数人の柩が安置されている。中に、ルートヴィヒ二世の柩があり、献花に包まれていた。

脇に、もう一つ、ルートヴィヒ二世のものよりやや小ぶりの柩があり、オットー一世の標識がある。そう、ルートヴィヒ二世の死後、弟であるオットー一世はその跡を形式的に継いだものの、本物の狂人であった彼は一度も王権を揮うことなく、30年間、叔父ルイトポルト公に摂政を委ねた後、亡くなった。これももう一つの悲劇だった。 (2009/9)


バイエルン紀行・Ⅰ ニュルンベルクからミュンヘンまで

2011-10-05 07:40:01 | 異文化紀行

 

2009年の夏、ドイツ南部を旅した。主目的は、バイロイト音楽祭に参加することだった。その記録は、「バイロイト詣で」と題するコラムにまとめた。ここでは、バイロイト以外での体験を綴ってみようと思う。

これから触れる内容を箇条書きにすると以下のようになる:
・ ルートヴィヒ二世
・ 鉄道の旅
・ 食事情
・ サイクリング文化
・ 英語が通じない

(1)ニュルンベルク

バイロイト音楽祭で『パルジファル』の公演を観た翌朝、ミュンヘンに向け、バイロイトを後にした。途中、ニュルンベルクを観光する予定だ。疲れが残り、体がだるい。あまり、無理な行動はできなかろう。

バイロイトからニュルンベルクまで列車で1時間20分。ニュルンベルク駅で、夕方のミュンヘン行きICE(都市間超特急)を手配し、スーツ・ケースをコイン・ロッカーに預け、さあ、市内見物に出発だ。

駅前から、ケーニヒ通りを通り、中央広場を経て、カイザーブルクまでの道が、ニュルンベルクの中心街だ。端から端まで歩いて1時間の行程。その道筋がなかなか趣きがある。中世以来の街並みを実感できる。広場にも、通りにも、露店が出ている。果物屋、野菜屋が多いが、中には、チーズ専門店も出ている。

カイザーブルクまで登り、デューラーの家を通って、坂道を下ると、ヘンカー・シュテークという運河に出る。ここは、ベルギーのブリュージュを彷彿とさせるところで、古い家並みと運河が調和する景観が広がる。

そこから中心街に戻る途中で、ある、室内装飾店の前で立ち止まった。ちょうど、セールの最中で、ショウウィンドウに、素敵なテーブルクロスがあるのが目に入った。大きなテーブルクロスがセールで54ユーロ、お買い得だ。中に入り、店員と交渉に入った。「セールで安くなっているのはわかるが、2枚買うのでさらにディスカウントしてもらえないか。」店員は私の英語が分からないらしく、「これは、54ユーロ。」の一点張りだ。無論、私も、値切り交渉に拘っていたわけではないので、1点だけ54ユーロの買い物をして、店を出た。

ニュルンベルクの街は、バイロイトに比べればはるかに大きいが、後に経験するミュンヘンの街に比べたらはるかに小さい。その中くらいさが気に入った。
また、清潔一辺倒のバイロイトに比べ、ニュルンベルクにはどことなく猥雑なところがあり、夜この街を訪れたら別の顔を見せるのではないか、と思われた。

ニュルンベルクの名物である「ニュルンベルク・ソーセージ」を味わった。直径1cm、長さ10cmほどのソーセージを目の前で焼いてサーブしてくれる。注文単位は、6本、8本、10本、12本と自由に選べる。付け合せは、ザワー・クラウトかポテト・サラダを選ぶ仕来りだ。少食の人は6本注文すればよい。このソーセージは聞きしに優る旨さだった。

ニュルンベルクがこれほど心地よい街なら、日本からバイロイトに向かう時に、この街を経由すればよかった、と後悔するほどだった。 

(2)ICE(都市間超特急)

ニュルンベルクからミュンヘンまでは、ICE(都市間超特急)を利用した。ICEとは Inter City Express の略で、日本語では、「都市間超特急」の名が当てられている。なぜ、「超特急」なのか?
それは乗ってみると分かる。

ドイツは、弧状の日本とは違って、国土が真四角といっていいほどだ。その中を鉄道網が張り巡らされている。ドイツは鉄道王国なのだ。ちなみに、ドイツ鉄道(ドイチェ・バーン)は国有だ。

そのドイツの主要都市間を結ぶのが、ICE。北はハンブルグ、東はベルリン、西はケルン、南はミュンヘン。いずれの都市間をも高速で結ぶのが、ICEの役割だ。

ニュルンベルクからミュンヘンまでは、ICEで1時間強。わが国に例えると、東京―静岡間の新幹線と同じ行程だ。途中、大きなトンネルを2回通過したところから考えると、おそらく、専用の線路を敷いたものと思われる。最大時速228kmを出していたので、日本の新幹線と比べても遜色ない。

並行して走るアウトバーンをものすごい勢いでICEを追いかける車がいた。さすがに、ICEには負けていたが、それでも時速160kmを超えるスピードで疾走していたようだ。この国のスピード・マニア恐るべし、だ。

ニュルンベルク-ミュンヘン間、ICE2等車座席指定で、49ユーロ(6860円)。
東京-静岡間の新幹線2等車座席指定で、6180円だから、ドイツと日本の超高速列車の運賃は同じようなものだ。 

(3)ミュンヘンの宿

ミュンヘンには4泊する予定だった。事前に調べたところ、リーズナブルで便利な宿を市内で見つけるのはなかなか難しいらしい。
それで、以前「旅チャンネル」の「日本人が経営するもてなし宿」で見たホテルを当たってみることにした。オーナーが日本人で、日本人の旅客によくしてくれるという触れ込みのその宿は、
 ホテル・ガウティンガーホーフ Hotel Gautingerhof
という。ミュンヘン西南の郊外にあるガウティン Gauting という街にあるらしい。
ガウティンは、ルートヴィヒ二世が入水したシュタルンベルガー湖にも近いので、今回のルートヴィヒ二世を偲ぶ旅にふさわしいロケーションだということがわかった。

夜、ミュンヘン中央駅からSバーン(郊外電車)6号線で25分のガウティンに着く。
プラットフォームを出て、自転車をいじっていたおばさんに聞く。
「すみません。Hotel Gautingerhof はどちらですか?」
おばさんは、私の袖を引いて、「こちらに来てごらん。ほら、そこにホテルがある。2軒もある。」と宣(のたま)う。だめだ、こりゃ。どうやら、Gautingerhof が引っかからなかったらしい。

次に、自転車で通りかかった若者に、「すみません。Hotel Gautingerhof はどちらですか?」と聞くと、彼はしばらく頭をひねった後、「わかりません。」と走り去った。

次に自転車で通りかかった若い女性に同じ質問をぶつけてみた。ただし、このホテルがピピン通りに面していることを思い出したので、「すみません。Pippinstrasse に面したHotel Gautingerhof はどちらですか?」と聞いた。「Pippinstrasse なら、その通りを左に真直ぐ行ったところです。」「ありがとうございます。それで、Hotel Gautingerhof は道の右側にありますか、左側にありますか?」
「Straight です。」「???」

言われた通りに道をたどると、細長いロータリーに出た。Pippin Platz (ピピン広場)と標識が出ている。そして、そのロータリーの右でも左でもなく、正に正面に「 Hotel 」の文字の建物があった。彼女の「Straight です。」の意味がようやく飲み込めた。

ホテル・ガウティンガーホーフは20室ほどの小さなホテルで、アット・ホームな雰囲気を醸している。音楽家の日本人女性が一人勤めている。久しぶりに聞く日本語に心和む思いだ。彼女は、フュッセン近郊のヴィース教会でのコンサートを2回終えたところだという。  (2009/9)


優しい東南アジア

2010-12-15 07:07:15 | 異文化紀行
ヨーロッパが遠いと感ずるようになった今では、アジアが従来以上に身近に感じられる。かといって、中東やインドはやはり遠い。

アジアの中では、東南アジアの諸国に最も魅力を感ずる。多くの年金生活者が、タイやマレーシアなどに、長期滞在したり移住したりする心境が少し判りかけてきた。

まず、日本から比較的近い。東南アジアの諸国は成田から空路6時間ほどで行ける。逆にいえば、長期滞在したり移住したりした人が、急に、日本に帰るのにも適しているのだ。

次に、陽気がいい。特に、10月から3月にかけて、東南アジアの諸国は乾季で、日本の寒さと湿気から逃げ出すには格好の土地だ。

第三に、人びとが明るく、屈託のないのがいい。

第四に、物価の安いのがいい。

このように、東南アジアの諸国は日本人にとっては天国のようなものだ。

その内で、3つの国や地域を挙げるとすれば;

ベトナム:世界一やさしい人たちの国がベトナムだ。乾季を選んで、ハノイ・ホーチミンの都市のほかにも、中部のフエなどの歴史ある場所も訪れたいし、あのベトナム戦争は何だったのだろうと思いを馳せてもみたい。 

タイ:近年の政情不安でタイの人気はガタ落ちだが、ベトナムと並んで魅力のある国に変わりない。
アユタヤなどの歴史遺跡に行ってみたいし、かつての宗主国イギリスとの関係を振り返ったり、近隣諸国(カンボジャ・ラオス・ミャンマー・マレーシアなど)との付き合い方なども勉強してみたい。

バリ島:インドネシアの保養地だが、この地に根ざす民俗舞踊とそれに使う「仮面」に惹かれている。
ただ、火山活動の活発化、地震・津波の来襲、テロリズムの頻発、治安の悪さなど、訪問を躊躇させる要素も数多くある。

いずれは、ベトナムかタイに数ヶ月滞在してみようか。そんなことを考える。  (2010/12)


変貌する上海

2010-05-04 07:38:31 | 異文化紀行
上海万博が始まりました。以前掲載した「変貌する上海」を再掲します。

(1)10年前と現在

「旅チャンネル」に 「ASIA NAVI」という番組がある。ソウル・プサン・上海・香港・台北・バンコクの6都市の現在を紹介するもので、このうちのいくつかにはなじみがあるので、よく見る。対象はどうやら余裕のある女性のようで、ブティック・みやげ物店・食堂・スパなどがよく取り上げられている。これは6都市共通だ。番組に共通するスタイルがあり、はやりの街・おすすめの店・値切り交渉の方法などを、各都市で演じてみせるようになっている。

さて、この番組の2006年12月は「上海NAVI」だった。

上海には10年ほど前一度行ったことがある。その時には、浦東(プドン)地区は開発が始まったばかりで、国際空港もプドンではなく、虹橋(ホンチャオ)地区にあった。当然、黄浦江の下を通る高速地下鉄もなかった。

街中の至るところで、高層ビルが建築中で、それが奇妙なことに同じ形の建物が2棟建てられていた。住居にしろ、ショッピング・ビルにしろ、1棟では到底足りないだけの需要があることがわかる。であれば、一遍に2棟建ててしまえ、というわけだ。

当時言われていたことは、再開発のために、古くからの老朽建築物を大々的に壊しているということだった。「古くからの」といっても、上海は19世紀後半に人工的に造成した街であるから、土やコンクリートなどを固めたものが耐久の限界に来てスラム化したのを壊しているのである。
超近代的な高層ビルと前近代的なスラム街が隣り合うのは、アジアの大都市に共通する景観だ。
しかし、それは「上海NAVI」には映らない。

以下に、私の上海経験と「上海NAVI」とをフラッシュ・バックして描いてみる。  

(2)老人には住みにくい街

私の泊まったホテルは、上海を東西に貫通する南京路のうちの東路(南京東路。これを、ナンジンドンルーと呼ぶのにはびっくりした)に面しており、そのまま東へ行けば、外灘(ワイタン)にぶつかる。
南京東路は広く、車道は両方向各3車線ほどあり、ほかに広い歩道があるのだが、その歩道に人があふれている。これはいつものことのようで、あまりの人の多さに、車道の一部をつぶして歩道にしているほどだ。

南京路のうちの西路(南京西路。ナンジンシャールーと呼ぶのだろうか?)にある景徳鎮の陶磁器専門店に行ったときのこと。ホテルから歩いて30分ほどかかる。買った重い花瓶をかかえ、帰りは難儀した。途中休みたいと思い、カフェを探した。ある料理店に「三楼 喫茶」という看板があるのを見つけ、上がった。

薄暗い店内には、こじんまりしたソファが多くおいてあり、ウェイトレスがあくびをかみ殺している。なんとなく居心地が悪く、コーヒー一杯飲んで、そそくさと店を後にした。
この時の印象は、「上海では、ふらっと立ち寄って休める店が少ない」ということ。
一方、現在の「上海NAVI」では、おしゃれなカフェが取り上げられている。このような店を必要とする中産階級が増えているのだろうか?

休めるところといえば、上海には公園が少なかった。もちろん、人民公園とか魯迅公園とかはあるが、圧倒的な人口に比べ、公園の少なさが目立つ。市民はいったいどこで休むのだろうか?
休めるところが少ないのとともに、緑が少ないのが異常に思えた。市の南西部に植物園があるので、行ってみた。ところが、植物の緑が、ほこりで灰色に染まっているのだ。休むどころではない。
この状況を現在の「上海NAVI」で確かめたかったが、わからない。

悪口を多く書いたが、悪口ついでに、もう一つ。
上海の道路は広いが、それを横断するのが一苦労だ。信号のないところも多く、信号のあるところでも一度で渡りきれないほど広い。
高速道路をまたぐ大掛かりな歩道橋もあるが、これは上って降りるだけで疲れてしまう。
上海は老人には住みづらい街だ。 

(3)豊かな「食」の街

上海について、誰もが認めるのが、その豊かな「食」だろう。
上海では、中国各地の料理があり、上海料理はもちろんのこと、北京料理・広東料理・四川料理・揚州料理など、一流のものが楽しめる。食の専門家は、近年各地の料理が均一化していると嘆いているが、そんなことはない。

外国人観光客にとって、これほど多彩な料理を気軽に楽しめるところはあまりない。一流の料理店でも、プライム・タイムをはずせば、観光客が一人でも入れるようになっており、また、料理の値段もリーズナブルである。高級料理店でも庶民向け料理店でも、何を食べてもおいしい。高いレベルで「均一化」していれば、客にとっては幸せなことだ。

ホテルの近くに北京路(ベイジンルー、か?)というのがあり、北京料理の店が軒を連ねている。その内の庶民的な一軒で食べたチャーハンがことのほかおいしく、毎日通った。

有名な観光地の豫園に、南翔饅頭店というこれまた有名な小籠包(シャオロンパオ)を食べさせる店がある。「上海NAVI」でもこの店を取り上げていた。
私が行った時は人があふれていて、近寄れなかった。市民がテイクアウトに長い列を作っているのである。
「上海NAVI」で見ると、2階のテーブル席であれば比較的座りやすいらしい。ああ、そうだったのか。次回は2階を試してみよう。

一番楽しめたのは、湖沼の魚介類で、とくに揚州料理が味付けに深みがあり、しかも、どんどん食が進むのが不思議だった。  

(4)変化と不変と

そろそろ、まとめの時だ。

「変貌する上海」とタイトルに書いたが、本当にそうだろうか?

19世紀後半の市街造成 → 20世紀前半の外国列強による「租界」化 → 文化大革命後の小平による近代化 → 急速な経済成長と資本主義経済化、という流れを一気に駆け抜けてきたのだから、上海は変貌に変貌を重ねてきたことはいうまでもない。

外見的には、スラム街の取り壊しと高層ビルの林立、外資によるショッピング・モール、ホテル、地下鉄などの建設、などが目に付く。
また、街を行く人々の服装の垢抜けてきたことは目を見張るほどだ。ケイタイの普及もめざましい(「上海NAVI」で確認済み)。

背景には、急速な経済成長と資本主義経済化があることは明らかだ。これが、中産階級を大量に生み出したといってよい。

しかし、人々の心・意識の変化はあるのだろうか?
それを解くヒントが、「上海NAVI」が紹介していた豫園の南翔饅頭店に集う人々にあるのではないか、というのが私の推理である。小籠包(シャオロンパオ)を求める人々の服装はと見ると、昔懐かしいボテボテの服で、今風の垢抜けたものとは程遠い。食べている小籠包は、正確な数字は覚えていないが、10個4元(60円)ほどだ。本当の庶民がここに集っているといえないだろうか。

このような人々は、私の行った時には、至る所で見られたと思う。南京東路でウィンドウ・ショッピングする人々、魯迅公園で体操やダンスをする人々、象棋(シャンチー。中国将棋)に興ずる人々、料理店の人懐っこいウェイトレスなどは、おそらく現在もほぼそのままの姿で見られることと思う。

私の経験した10年前と「上海NAVI」の取り上げた現在で、外見の変貌ほど人々(特に庶民)は変わっていないのではないか。 (2007/3-6)

私の手元に、『斎藤康一写真集 上海 ‘92-‘93』(1993年、日本カメラ社)がある。ちょうど私が訪れた時代の上海を写していて、懐かしいとともに、ここに撮し取られている庶民の姿に、ここで述べた「変化と不変と」とを改めて確認した。 (2007/7)

旅行に行きたしと思えども

2009-08-06 01:00:00 | 異文化紀行
「ふらんすに行きたしと思へども ふらんすはあまりに遠し」と詠ったのは萩原朔太郎だが、私の場合は「旅行に行きたしと思えども」の気持ちだ。

このところ、旅行に誘われることが多い。
一つは、アメリカの大リーグ観戦旅行で、今年はボストン・レッドソックスに松坂大輔が入ったので、彼の出る試合を見てみたい。
二つ目は、観光客の入らない砂漠や砂丘を訪ねる旅で、体力に自信があり、好奇心も旺盛なので、食指をそそられるところだ。
三つ目は、シンガポール観光で、これも行ったことがない場所で、一度は行ってみたい。

でも、今は母の世話で休暇が取れない。「旅行に行きたしと思えども 日々雑用に過ぎゆきぬ」の所以である。

朔太郎は前記の詩「旅上」の一節に続けて、「せめては新しき背広をきて きままなる旅にいでてみん」と詠っている。

私の場合は、旅行に出られない憂さを晴らすため、以前の旅行を題材にした紀行をこのブログに書いている、といったらいいかもしれない。「スイスの休日」「宵闇のニューヨーク」「プラハの春」は、このようにして生まれた。
今準備しているコラムは「変貌する上海」だ。

ほかにも、アンダルシア、ウィーン、ドイツ、パリ、ロンドン、ベルギー、リスボンについても、機会ができたら、書いてみたいと思っている。そして、そう、ボストンについても。
「せめては昔の旅を思い返して きままな感懐にふけってみよう」というところだ。 

旅行に出られない憂さを晴らすため、以前の旅行を題材にした紀行をこのブログに書いているものの、旅への思いは募る。時間があれば行ってみたい場所を列挙すると、次のようになる:

イスタンブールとトルコ各地:ヨーロッパとアジアが交差し、キリスト教とイスラム教の歴史文化が交錯するイスタンブールとトルコ各地は是非訪ねてみたい。カッパドキアの石の遺跡にも惹かれる。

ブダペスト:プラハ・ウィーンと歴史ある中欧の都市を巡った後には、ブダペストにも行ってみたいものだ。加えて、マジャールの面影をもたどってみたいし、温泉文化も興味あるところだ。

ミュンヘンとザルツブルグ:南ドイツのミュンヘンと西オーストリアのザルツブルグはごく近い距離にあるので、まとめて行ってみたい。音楽三昧の旅になりそうだ。ワーグナー、モーツァルト、ヘルベルト・フォン・カラヤンなど。

北イタリア:ミラノ・ヴェネツィア・フィレンツェの三都市は音楽・美術・文学の醸す垂涎のトライアングルだと思う。須賀敦子のミラノ、トーマス・マンのヴェネツィア、若桑みどりのフィレンツェは、どのようなたたずまいを見せていたのか? 通貨リラの恐怖から解放されて、イタリアも身近になった。

サンクト・ペテルスブルグ:ドストエフスキーの面影を探し、エルミタージュ美術館を見尽くす旅になりそうだ。案内書によると、街が大きすぎて、道路が広すぎる、とのこと。19世紀のエカテリーナ二世時代の建造になるこの街に歴史の重みを求めてはいけない。

ベトナム:世界一やさしい人たちの国がベトナムだ。乾季を選んで、ハノイ・ホーチミンの都市のほかにも、中部のフエなどの歴史ある場所も訪れたいし、あのベトナム戦争は何だったのだろうと思いを馳せてもみたい。  (2007/2)


大食い世界一周

2008-09-13 18:19:51 | 異文化紀行
(1) アメリカ

アメリカの東海岸に仕事で出張した時のこと。
昼食のために街角のレストランに入って、帆立貝のシーフード・サラダを注文した。昼食なので、軽く済ませたいという思惑で注文したのだが、出てきた料理を見て驚いた。かなり大きなボウルに、野菜が満載で、その中に生の帆立貝も見えている。これを食べ始めたのだが、食べても食べてもなくならない。ついに食べきれなくて、完食をギブアップした。小ぶりではあるが、まるごとの帆立貝が20個以上入っていたようだ。

アメリカの食習慣を実感した思いであった。 
この例のように、アメリカでは、一食の量が例外なく多い。これを、朝・昼・晩摂っていたら、確実に、肥満体になるか、体を壊すか、してしまう。
これを防ぐ手段は、食事の量を減らす(つまり、残す)か、食事の回数を2回に減らすしかない。
しかし、仕事の相手先との会食(「横メシ」ということばがあった。)を省くわけにはいかないし、アメリカでの食生活は不便この上ない。

アメリカですぐ目につくのは、セイウチかとどのような体型の人が多く、しかもその人たちが、勤め人なら働いている週日の昼間に数多く「ジョギング」していることだ。

アメリカに滞在した経験のある人には、よく食べる健啖家が多いように思う。体型からは考えられないほどよく食べる。これは、アメリカでの食生活で鍛えられた・あるいは習慣づけられたためだと私は推測している。

小柄な先輩と中華料理屋に入り、私は飯類+小ラーメン、先輩は麺類+小チャーハンを注文したのだが、私が小ラーメンには手が回らなかったに対して、先輩は小チャーハンまで見事に完食した。先輩は、ハーバード大学を出て、アメリカの企業で勤務した経験を持つ。このくらい食べて当然なのだ。

別の先輩と昼食をともにするときにも、いつもその食べぶりに感心する。この先輩は、アメリカの現地法人に数年間出向した経験がある。

さらに別の人で、私より若い人だが、アメリカの現地法人に長く勤務していた日本人は、仕事が終わってから、自宅でもてなしてくれたのだが、彼は、自ら、客人のために、庭に出て、鉄板で大きなビーフ・ステーキを焼いて、ふるまってくれた。そのステーキの大きさにもびっくりしたが、彼のエネルギッシュな動きにも驚いた。アメリカで生活するということはこういうことか、と頷いた。

どうやら、アメリカでは、「大食い」が一つの文化になっている、といえるかもしれない。 

(2)ヨーロッパ


アメリカからヨーロッパに飛ぼう。

大学の指導教官がイタリアでの学会に出席して帰って来られ、土産話を伺った。「君、イタリアでは、スパゲッティが前菜なんだそうだよ。」
正餐では、アンティ・パスタ(前菜)としてシーフードのマリネが出、次にスパゲッティが出る。もちろん、パンもついている。先生はここまででもう腹いっぱいになってしまった、とおっしゃる。まだ、メイン・ディッシュの肉料理が残っていて、これに手をつけるのに難儀されたそうだ。さすがに、その後のデザートはパスした、と回想しておられた。

ことほど左様に、イタリアの食事は豪華だ。

同じような事情がフランスでも見られる。
哲学者ジャン・ポール・サルトルの晩年のこと、すでに歩様もままならなくなっていた彼が、アパルトマンから出てレストランに入り、普通の昼の定食を食べきったということを誰かの回想で読んだことがある。
ここで、「定食」とは、前菜、スープ、肉の主菜、デザート、コーヒーから成るコース料理のことだ。主菜の肉料理の量も多い。晩年のサルトルは、(自宅で食事する習慣がないせいもあって)必ずレストランに赴き、定食を注文して完食したそうだ。

もう一つ、私の経験を述べる。
仕事相手と魚料理屋に入って、私は「ムール貝」を注文した。出てきたものを見て、びっくりした。小さなバケツほどの容器にムール貝の蒸したものが入っている。一つ一つ貝殻から身をはがして食べたのだが、全部で108個のムール貝が入っていた。初めの30個くらいまでは旨いと思って食べたが、以後は惰性で食べ終わったようなものだ。
この話には余談があり、仕事相手も「私もそれにしよう。」といって、「ムール貝」を注文したのだ。それで、二人してムール貝と悪戦苦闘したわけだ。

フランスでもイタリアのように皆よく食べる。
他の国のことは詳しく知らないが、例えば、ドイツでは、主菜に添えられる山のようなジャガイモの蒸して漉したものなどを見ると、やはり、彼らも「大食い」なのだろう。
ヨーロッパでも、「大食い」が一つの文化になっている、といえる。 

(3)アジア

ヨーロッパからアジアに飛ぶ。

アジアでは、大食いの様相は一律ではないようだ。

韓国ソウルでのこと。
韓定食ではずらっと並ぶ皿にびっくりするが、普通の食事でも、主菜のほかに小鉢が多くつく。これは別に注文したものではなく、付け合せの小鉢なのだ。多くは野菜を唐辛子で味付けしたもので、キムチはその代表だ。辛味は食欲を刺激するし、野菜は主菜の肉・魚とのバランスを取る役割があって、それなりに合理的だ。それにしても、皿の数が多いし、量も多い。現地人の食べぶりを観察すると、必ずしも小鉢を全部平らげているわけではないようだ。好きなものを好きなだけ摂り、後は残すというのが韓国人の流儀のようだ。

さて、ある庶民的魚料理屋でのこと。
フグのちり鍋がリーズナブルな価格で食べられるということで、注文してみた。すると、お馴染み、テーブル一杯になるほど、小鉢が並べられた。さらに驚くことに、大きな皿に、「サンマの焼き物」が一尾ドーンと鎮座していた。さて、「サンマの焼き物」は注文した覚えがないのだが。どうやらこれも付け合せの一品のようだ。

「フグちり」の付け合せに「サンマの焼き物」とは!すぐに配膳されたところを見ると、この「サンマの焼き物」は作り置きのようだ。熱も冷めていて、うまくない。
何も、「サンマ」を貶めるつもりはない。熱々のサンマの塩焼きに大根おろしが添えてあれば、それだけで、主菜を張れるほどの立派な料理だ。しかし、冷めたサンマを付け合せで出されては、サンマの有難みが吹き飛んでしまう。

韓国では、料理の量を多くして、客をもてなす文化が根付いているのだろう。

アジアのほかの国の大食い事情はどうか?  

韓国以外のアジアの国に大食いの文化はあるのだろうか?

中国では、一つの皿の量が日本などと比べてやや多いが、これは注文する皿の数を調節することで、大食いは回避できる。つまり、誰でもたくさん食べなければならないわけではない。
また、多人数の会席では、多くの皿を取り分ける習慣があるので、これは、大食いにも少食の人にも便利なシステムだ。

もちろん、中国にも、「満漢全席」という贅沢な会席料理があるが、これは一部富裕層向けの料理で、一般の人々には縁のない料理だ。

他に、タイの例がある。ここでは、一つの皿の量もリーズナブルで、注文する皿の数も自由に選べる。日本の食習慣と似ているようだ。バンコクの街中で、極端に肥満した人間を見ることは滅多にない。 

(4)日本

さて、わが国に戻ってみよう。

一度だけ、築地・治作の会席料理を味わったことがある。
そのメニューは次のようだ。

食前酒
先付
前菜
小茶碗
おつくり
焼き物

煮物
揚げ物
酢の物
ご飯
止め椀
香の物
水菓子

これでは、中国の「満漢全席」と同じで、全部を味わうことなど到底できない。日本料理の会席とは、所詮富裕層向けの料理にすぎない。

一方、普通の人が日常食べる料理は、世界の中でも珍しいほど、量が少ないといえる。
また、多くの人が囲む鍋料理では、中国の例と同じで、基本的に「取り分け」を前提にしたシステムなので、誰もが好きなだけ食べることができるようになっている。

以上、アジアでは、韓国のように大食いが普通になっている国と、中国・タイ・日本のように大食いが常態となっていない国とに分かれている。

(5)大食いの背後にあるもの

世界の「大食い」事情を見てきたわけだが、なぜ大食いの習慣が発達してきたのだろうか? それを考えてみたい。

もともとは、大食いができたのは限られた富裕層だけだった。フランスやロシアの宮廷料理や中国の満漢全席に象徴されるように、大食いは富裕層特有の生活形態だった。

それが、なぜ、普通の庶民にまで、大食いの習慣が広がってきたのか? 実は答えをまだ持っていない。一つだけ、ヒントがある。

大食いの習慣が広く一般の人々にまで広がっているアメリカ・イタリア・フランスに共通している食事習慣がある。それは、各人のメニューが各人に閉じていることだ。難しくいわなければ、「取り分け」の習慣ができていないのだ。
「私は、鴨料理を頼もう。」「私は、『海の幸 Fruits de Mer 』にするわ。」
二人はそれぞれ自分の注文した料理に専念する。

「その牡蠣おいしそうだね。一つもらっていいかな?」「どうぞ。私にも鴨をいただける?」このような会話がアメリカ・イタリア・フランスの食卓では成り立たない。これが個人主義の賜物だとしたら、考え込んでしまう。

一方中国や日本では「取り分け」文化が浸透している。「取り分け」でいいところは、各人の食事量を各人が自由に決められることだ。これで、「食べろ、食べろ。」の押し付けがなければいうことなし、だ。

実は、「大食い」について考えてみようと思った訳は: 「メガ牛丼」や「メガ・プリン」がはやっていると聞き、なぜだろう? というところから来ている。これらの大盛りメニューを注文する人たちがすべて富裕層とは考えにくい。「ヤケの大食い」のことばがあるが、あるいは、ここらあたりに真実があるのではないか。つまり「ストレス解消」のための大食いなのではないか?

「大食い」がストレス解消の方策だとしたら、まさしく、大食いは「文明の病」の表徴ではないだろうか? (2008/1-2)