アイヌ民族情報センター活動日誌

日本キリスト教団北海教区アイヌ民族情報センターの活動日誌
1996年設立 

2019年9月16日開催 旭川アイヌ民族フィールドワーク報告 その2

2019-10-25 10:15:09 | 日記

榎森進さんの講演の続きです。メモ調に内容を紹介します。

日本におけるアイヌ民族の歴史的位置の経緯。

まず、江戸時代の幕藩制国家におけるアイヌ民族の位置について、慶長9年(1604)に松前氏宛家康黒印状(全国の諸大名に与えた土地を安堵する重要な記録)の内容が以下の通り。

  定

1、諸国より松前へ出入りの者共、志摩守(しまのかみ)に相断(ことわ)らずして、夷仁(いじん)と直ニ商売仕(つかまつり)候儀、曲事(くせごと)たるべき事。   

1、志摩守に断り無くして渡海せしめ、商売仕候者、急度言上(きっとごんじょう)致すべき事。

附(つけたり)、夷(えぞ)の儀は何方(いずかた)へ往行(おうこう)候共、夷次第致すべき事。

1、夷人(いじん)に対し非分申し懸けるは、堅く停止(ちょうじ)事。

  右条々若違背(もしいはい)の輩(やから)に於いては、厳科に処すべき者也、仍件(よってくだん)の如し。

                         松前志摩守とのへ(北海道博物館所蔵・松前家文書、読み下し文)

第1条は、松前氏に対するアイヌ民族との交易の独占權を公認したもの。第2条は、松前氏に対して松前に渡来する和人船頭・商人に対する課税権を公認したもの。これが松前藩の経済基盤になる。第3条は、和人のアイヌ民族に対する非分行為を禁止したもの。「附」の文言は、アイヌは何処へ行こうとアイヌ次第であることを謳ったもの。

以上から、アイヌ民族は幕藩制国家の外に位置づけられていたと言える。

アイヌの人たちを統治しているかどうかの一番大きなメルクマール(指標)は、税金をとっているかいないかにある。そこからすると統治外。

 寛永年間(1624年~1643年)、松前藩は、「蝦夷えぞが島しま」を渡島半島部を城下町の松前を中心に、西は江差湊の北部にある「熊石村」から東は、箱館湊の東部にある亀田村に至る地域を「和人地(松前地)ともいう」と称し(いわゆる日本の領地)、この地域以北の「蝦夷島」の大部分の地域をアイヌ民族が居住する「蝦夷地」(差別用語だがアイヌの土地であり、日本の領域外)という二つの地域に区分し、熊石村と亀田村の両地に番所を設置して、人物の往来を厳しく取り締まった(その後省略)。こうした地域区分体制は、原則として幕末まで続いた。したがって、江戸時代の「蝦夷島」は、「松前・蝦夷地」とも称され、「松前地」までが松前藩の領地=日本の領地で、「蝦夷地」は原則としてアイヌ民族のみの居住地として位置づけられていた。アイヌ民族=日本国以外の異民族。「松前地」の和人の「宗門人別改帳」に相当する「人別帳」は無く、各場所毎のアイヌの「人別帳」は労働力を把握する爲の台帳にすぎない(こられは幕府や松前藩に支配されたという証拠とはならない)。

ところが、突如、明治2年8月15日、「松前・蝦夷地」両地を「北海道」と改称し、11国86郡を画定。「松前・蝦夷地」を一括して一挙に日本国に編入した。

近代日本に於ける「北海道」を歴史家たちは「内国植民地」と位置付けて来た。けれど、前々からそこに住んでいるアイヌ民族と政府がどうなったかに関して全然論じていない。

以下、当日に配布されたレジュメから:

近代北海道を「内国植民地」との理解の仕方は、近代北海道を「植民地」的な地域としてとらえ、先住民族に対する強圧的な支配、同化政策の実施及び当該地域の経済構造の後進性だけでなく文化や住民意識の中に植民地性を見るという歴史觀に位置づけられた地域のこと。

つづく


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