~Agiato で Agitato に~

再開後約20年になるピアノを通して、地域やほかの世代とつながっていきたいと考えています。

ピアノ デー

2007年02月25日 22時44分45秒 | ピアノ
今日は昼からずっとピアノ漬けで、もう音楽はいいよ・・・・というくらい堪能して帰ってきたのだが、これがまたN響アワーを見ていたりして、もういい加減にしなさいっ、という感じだ。

本日なにがあったかというと街中某所で、先日ブログに書いた若いピアニストさんのコンサートがあり、その前座というか前半プログラムでちょっと弾かせていただいた。

曲はリサイタルのリサイクルというか(逃)、「子供の情景」から9曲を弾いた。
ピアノもちょっと勝手が違ったし、前後の出演者もあることなので、今日はあまり集中できそうにないなあ・・と思っていたが、今日もある意味、やはりおかしかった。
どういうわけかこの曲、本番になると自分でも相当「ヘン」になる気配が濃厚になり、最後の2曲ではどうも感情失禁状態になってしまう。
いや、こういうことではいけないとほんとに反省するのだが、ダメだ。
シューマンが結婚以前に書いたこの曲、未来への青写真もあったかもしれないのだが、その生涯とか子供たちのその後を思うと(いや実際はそんなこと演奏中は考えもしない)、やはりちょっと複雑な思いを禁じえない。

そういう自分のことはともかくとして、若いピアニストさん、繊細なタッチと歌心あふれるモーツァルト&メンデルスゾーン、
深い音とぐっと胸せまる激情のリスト、
どちらも大変すばらしかった。ほんとに楚々としたお嬢さんなのだが、ちょっと別の一面も垣間見た気がした。
ピアノ仲間の3人も、それぞれが弾きこんだ曲を持ち寄り、ホールに集まったかたたちとの相互の交流を感じる、あたたかい演奏を披露した。

そのコンサートが終わったあと、
街中からバスで30分ほどの場所で行われるステップを聴きに行った。
サークルの仲間が3人でる予定だ。

会場内はアドバイザー以外は「ほぼ身内」な感じで、これなら髪が逆立つほどの緊張はしないかも、とちょっと思った。
それにしてもなのだが・・・ほんとに一人一人の演奏に感銘を受けた。
わざわざ自分のコンサートが終わってから駆けつけた甲斐があった。
ちょっとおおげさかもしれないが、これはもう涙ものだった。
もちろん私は最近、音楽を聴いてはすぐ「コワレル」傾向が顕著だが、
そのせいだけではなかったと思う。

結果、今日出演されたかたのほとんど一人一人に、感激のコメントを渡してしまった。

なかでも、サークルの3人は日頃を知っているせいもあるが、「よくここまで」とまるで親かなにかのようにしみじみした。
詳細はご本人に伝えてあるのだけれど、

「雨だれ」を弾いたK君・・・・・ほとんど独学でやってきたというのに、ほんとに「よくここまで」(泣)。
冒頭の美しい音、中間部のムリのない音量ゆえに一層胸にしみる激情、再現されたテーマのいっそうの美しさ&しみじみ、そして最後の雨上がりのつややかさと静けさ。
もちろんいろいろ考えての末だろうけど、低音の上にきっちり和声が構築され、すみずみまで音色に心が配られていたと思います。
でも、そういうことが、「計算」としてまったく現れず、自然な流れとして表現されたのはアッパレとしか言いようがないです。

「エチュード 10-1」と、冬ソナの中の1曲を弾いたHちゃん・・・・
実は10-1というのは、本番で大変なことになるケースが多いので、結構心配していたのです。
ですが、そんな心配は無用でした。この曲、私もかじったことあるから想像つきますが、たとえCDのようなテンポでないにしても、人前であれだけ弾くには並の練習では絶対ムリなはず。
こういう「大変な曲」から逃げていた自分を、深く反省いたしました。
2曲目は私よく知らないので、うまくいえませんが、歌を自然に、でも染みとおるように表現するHちゃんの真骨頂だったと思います。

それからギターとのアンサンブル「アランフェス」を演奏されたhiroさん、
感心したのは、音色がギターよりになっていたこと。
鍵盤からアクションを伝わって出た音というよりは、弦を鳴らして出る音のように感じました。
音色についてはブログなど拝見しても考えに考えておられたようなので、そのあたり工夫されての結果かと思いました。
コンビとしては長いようなので、そのへんの息はよくあっておられたし、テンポのとりかたが私としては大変好ましかったです。

最後には、現代曲を弾かれることで有名なS先生が三善晃作曲のソナタを弾かれた。
これが20分を超える曲で、この長さの現代曲を弾かれるだけでも驚きなのに、
私のような現代曲ちんぷんかんぷん人間でも、最後の音まで連れていかれた(驚)。
おそらく緻密な楽曲分析、多彩な音色、情緒など相俟ってのことだと思う。
やっぱり現代のピアノのために書かれた現代の曲をいちどは自分も弾いてみたいと思った。


という、一日で聴くには多すぎるほどの音を聴いた日だったが、すばらしく充実していた。
ただ、あまりにすばらしい演奏をたくさん聴くと「もう自分は聴く側で」とついつい思ってしまうのだが、よい演奏をよりよく聴くためにも、自分でも弾きつづけていかなければなあ・・・・・と気をとりなおして、また明日から練習だ。


ウラディーミル・フェルツマン その2

2007年02月25日 00時13分48秒 | ピアノ
ムジカノーヴァ 2005年8月号のインタビューにおいて、
フェルツマンは、<ピアノを弾く基本の姿勢>について次のように語っている。

「自然のまま、ありのままに体を使って演奏するということです。
自然な形で楽に座ったら、自分の重心が分かります。そうして手も自然な位置にあると全ての力が自然と指先を伝わってくる。
他の誇張した動き、体の使い方、座り方はナンセンスです。だから私は学生が来たらまず最初にすることがあります。
10人のうち9人は私のところに来た時には高い位置に座り過ぎています。
音楽について話を始める前に、どう座るか、どう座れば自分の重心を感じられるかを理解してもらうのに時間を費やします。身体的にしっくり心地良くない座り方からでは、音楽を作り出すことなど決してできはしないからです」


椅子の高さというのは、ピアニストによってほんとにそれぞれで、リヒテルやポゴレリチは大変高い位置にすわっているし、ホロヴィッツやグールドは相当低いと思われる。
椅子の高さというもの、体格が大きく関係あるようで、もちろん<椅子が高い>といえば体の小さな子供を思い出すのだけれど、リヒテルやポゴレリチは大男なのであって、それはなぜなのか・・とずっと考えていたのだが、たぶん、手や腕と鍵盤の位置関係もさることながら、脚の長さというものも大いに関係のあることで、椅子の座面よりも膝の方が高いようだとペダルの操作がしにくかったりするのではなかろうか、と思ったりもしている。

私自身も椅子の高さについてはもう毎日毎日考えたり試したりしているのだが、いまだに決定打はない。
ずっと以前は大変高くにすわっていて(普通の自在椅子で上から2~3目盛り)、和音の多い曲だとかフォルテの多い曲は楽なような気がしていたけれど、どうしても手首が高くなってしまうので、モーツァルトの音の細かい曲は動きも鈍くなるように感じたし、何よりも指先をわざわざ<上げなければ>ならないように思った。
なので、自分としては低めにすわっているつもりなのだが、これとて一番いい位置という自信があるわけではなくて、曲によって変えたりもしている。

単に「弾きやすい」ということであれば、それはもういろいろなバージョンがあっておかしくないが、フェルツマンのいうような
「どう座れば自分の重心を感じられるか」ということになると話は別だ。
だいたい自分の<重心>とはなんぞや・・ということになるわけであって、
う~ん・・・体重でもなければ中心でもないのよね・・・
でも確かに、重心をしっかりとらえておかなかったら、たとえば前傾して弾いたり、うしろにそったりした場合の体の戻りが不自然になるわけで、これは緊張してしまったりなんかするとますますロクでもないことになる。
だいたい私がステージで失敗した時というのは、両手の跳躍があったりしたときに、ヘンな位置に体が戻ってしまい、いわゆる<バランスをくずす>という状態になった時なのであって、おきあがりこぼしのように自然な位置に返れれば、起きなかったであろうミスだと思われる。
そういうことを考えると「たかが座り方、されど座り方」なのであって、たしかに<自分の重心>については一考を要すると思った。

ところで、フェルツマン自身は、テレビで見た限りでは、座ると割にさっさと弾き始めるタイプなのであって、もちろんリハーサルなどでしっかり確認してのことなのだろうけど、実は歩いている時ですら、自分の重心はわかっているのではなかろうか・・と思ったことであった。
私にはまったく心得はないことなのだが、これって武道とかそのあたりに通じることだったりするのではないのだろうか?

・・・というわけで、ただ楽しいだけといいたい楽器演奏も、ステージで没頭するためには一体どれだけの心得というか常日頃の精進がいるものなのだろうか・・・と思わずため息をついたことなのであった。