~Agiato で Agitato に~

再開後約20年になるピアノを通して、地域やほかの世代とつながっていきたいと考えています。

コントロールの妙

2008年06月04日 23時42分44秒 | 見る・読む
昨晩、テレビで坂東玉三郎さんを拝見した。

NHKの「プロフェッショナル」の再放送(カット部分はあるようだ)だったのだが、話をされる時のちょっとしたしぐさのひとつひとつが美しく、思わず見とれてしまい、耳の方がおろそかになってしまいそうだった。

年間で500もの公演をされているそうなのだけれど、いったいどのような健康管理とか精神面のコントロールをされたら、あのようにすばらしい舞台を50年も続けられるのだろうか・・・。

こんなことをおっしゃっていた。

「けいこのときに、最悪から最小までの踊りを練習して、そのなかの真ん中くらいを舞台ではやるんです」

・・・・<最悪>というのは「やりたい放題」なのだそうで、「最小」というのは「コントロールされすぎて小さくなってしまっている状態」なのだそうだ。
玉三郎さんによると、舞台で「のりすぎる」のはよくないことで、常にコントロールされていないといけないのだそうだ。
司会の茂木さんが、「では、稽古されているときは『やりたい放題』とかいうことはないのですか?踊っているうちにどこか別の世界へいってしまいそうな時とかは?」ときかれると
「それはありますよ。稽古のときはやりたい放題です。でも、それは他人に見せたことはありませんし、見せてもいけないと思ってます」といったことをおっしゃっていた。


また茂木さんが「男性が女性を演じることをどう思われますか?」ときくと
「音符(楽譜?)をよんでいくのと同じだと思うのです。並んだ音符をひとつひとつ表現していくことで、あるときはゆったりとした時間になったり、あるときは忙しく落ち着かないような時間になる。
ひとつひとつの所作を通して、女性を演じる。たまたま演じているのは私ですけれど、お客さんは私の向こう側のものを見ているのかもしれません。
風を感じるように女性を感じてもらえれば。
見たあとで、見ていたことそのものは忘れてしまっているんだけど、なにかの感じだけが残っている、とお客さんに思ってもらえたらいいなあ、と思います」

・・・あまりうまくまとめられなくて申し訳ないのだけれど、だいたいこういったことをおっしゃっていたように思う。


よく演奏なんかでも「自分はのりまくってたのに、客席が冷えてた」とか、
「演奏者のキャラクターが曲に合いすぎて、逆にあまりよくなかった」などということをきく。
最初から、曲から離れすぎていてはいけないのだろうから、もちろん練習のときは「やりたい放題」から「コントロールでがちがち」までいろいろとやってみなければならないのだろうけれど、これが観客や聴衆がある場合は、どの程度のコントロールでやっていくかが重要な問題となるのだと思う。



この番組の後半は、バレリーナの吉田都さんだったのだが、
こんなトップレベルの方でも、ひとつの公演が終わると、ほっとすると同時にいろいろと反省されて大変なのだそうだ。
なんとすごいことに、寝るまでに、その日の公演の最初のステップから最後のステップまで、すべてが脳内でリプレイされるのだそう。
そして、「あ、あそこはもうちょっとこうすればよかったな」と振り返られるそうで、またそうしないと寝られないとのこと。

これもやはり、ステージ上で冷静にコントロールされていたからこそ、すべてがリアルに脳内リプレイされるのだと思う。


本番でそうだということは、練習の時も自分のすべてを見てひとつひとつ修正を加えながら練習されているはず。踊りの方々は鏡をご覧になっていることが多いかと思うのだけれど、たぶん鏡がなくても自分の姿が客観的に脳内で再現されるのだろう。

ちょっと話がそれるが、ある二世俳優さんをスカウトした演出家の方がおっしゃっていたこと、
「鏡をみるのが習慣になっていて、自分がどんな表情をしているかをよく知っているんだよ」
・・・俳優さんは、自分の表情を客観的に見る目が必要なわけですね。

演奏の場合は主に音なので、舞踊家さんや俳優さんに倣うと「自分の音を聴く耳あってこその演奏」ということになる。
つまり、「他人に聴いていただく音は、まず自分が聴きつくし知り尽くしておけ」ということですね。


・・・・・むずかしい・・・・・