フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

6月8日(金) 雨

2018-06-10 21:06:50 | Weblog

7時半、起床。

トースト、サラダ(+ソーセージ)、牛乳、紅茶の朝食。

新聞に日高六郎の訃報が載っていた。101歳であった。ご冥福をお祈りします。合掌。

花屋に仏花を買いに行く。

花屋に行く前に「あるす」に寄って行く。

お庭に成った夏みかんをいただいた。

「あるす」の並びの「紅葉花園」。大城通りの方はお子さん夫婦がやっていて、こちらはお母様がやっておられる。

仏花を買ったらオマケにきれいなお花をいただいたので、仏間に飾る。

昼食は「マーボ屋」で。

豚レバーとキャベツの甘味噌炒め定食を注文(ご飯は軽めで)。

回鍋肉の豚肉をレバーにしたもの。スタミナが付きそうである。

デザートは杏仁豆腐。

大学へ出る前にJ:COMオンデマンドで『桐島、部活やめるってよ』(2012年)を観る。今日のゼミで取り上げられることになっている。私はすでに観ているが、封切り時に映画館で観たので、細部を思い出すために改めて観ておくことにした。 

 

以下に引用するのは、2012年9月11日(火)、大学の帰りに池袋の「シネ・リーブル」で吉田大八監督の『桐島、部活やめるってよ』を観たときの感想である(「フィールドノート」より)。

 「映画館では、たいてい真ん中よりも前の列の席に座るのだが、今日は一番後ろの列の席に座った。混んでいたからではなく、天井から降りてくる冷たい空気がきつかったので、席を替えたのだ。ブランケットも借りた。経緯は不本意ではあったが、いつものように前の方の席で視野をスクリーンでいっぱいにして観るのもいいが、映画館で他の観客と一緒に映画を観ているという共同性を意識しながら観るのは悪くないなと思った。それは映画館を出るときの感想だったので、たぶん今日観た作品の内容と無関係ではないだろう。

  『桐島、部活やめるってよ』は、とても技巧的で、とてもリアルで、そしてとても感動的な作品だった。(以下、内容に踏み込みます)

  地方の高校を舞台にした5日間(金曜から火曜まで)の出来事が描かれている。最初、スクリーンに「金曜日」と字幕が出たので、是枝裕和監督の『ワンダフルライフ』のような一週間の物語なのかと思ったら、次も「金曜日」で、その次も「金曜日」で、そのまた次も「金曜日」だった(もしかしてこのままずっと「金曜日」なのかと思ったら、さすがに5回目で「土曜日」になった)。「素直な」作りの作品ではないということが端的にわかるオープニングである。

  「金曜日」が4回というのは、誤解する人があるといけないので書くが、その間に3週間が経過しているということではない。4回の「金曜日」は同じ金曜日なのである。と同時に、同じ金曜日ではないのである。どういうことかというと、桐島という男子生徒がバレーボール部をやめるらしいという話が生徒たちの間に広がっていく過程が描かれているのだが、その過程が4回映し出されるのだ。ただし、その都度、別の生徒(たち)の視点から。「同じ一つの」出来事でも、語り手が異なると(誰の視点から観るかによって)別の物語になるというのは、文化人類学者のオスカー・ルイスによって「羅生門的手法」と命名されたインタビュー調査の技法のねらいだが、もちろんそのネーミングは黒沢明監督の『羅生門』に由来する。『桐島、部活やめるってよ』はこの「羅生門的手法」が駆使された重層的な群像劇なのである。

  選ばれた視点(生徒)は、「男子-女子」、「部活をやっているーやっていない(帰宅部)」、「運動部-文化部」、「先輩-後輩」、「キャプテン(中心)-補欠(周辺」、「成績がよい-わるい」、「異性にもてるーもてない」などのさまざなま二項対立的な軸から構成されている。高校という社会的空間を構成するこうした軸たちは、全国のどの高校にも普遍的に存在する軸であり、現役の高校生が観ても、かつての高校生(私もその一人である)が観ても、「わかる、わかる」というリアルな人間関係が、これもまたリアルな(実に見事にリアルな)会話によって再現されている。おそらく人間関係のリアルな心理の描写は原作の小説に由来するものだと思うが、リアルな会話(口調)のやりとりは脚本作りに参加した喜安浩平(劇団ナイロン100℃)のお手柄だろう。

  多元的な二項対立的な軸によって構成される高校という社会空間は、高度に抑圧的で、それ故に安定した秩序を保っているが、バレーボール部のキャプテンで、成績もよく、女子生徒にも人気のある、つまり秩序の頂点に存在する桐島という男子生徒が部活をやめる(らしい)という出来事を発端として、急に不安定な空間に変容する。しかも面白いのは、この桐島なる男子生徒はスクリーンに一度も登場しないのである(幻影あるいは人違いとして一度だけ登場するが顔は見えない)。いや、ケータイ電話の声としても、メールの文章としても登場しないのである(桐島の彼女や親友とも音信を絶っている)。つまり、社会空間の変容は主役の突然の降板よって始まり、主役不在のまま進行するのである。主役の不在は、準主役や脇役たちを動揺させるが、同時に、混乱の中で生き生きとした言動を引き出しもする。それが群像劇を魅力あるものにしている。

  物語のラストで、それまで物語の諸部分を構成していたさまざまなカテゴリーの生徒たちが校舎の屋上に集結して、「ホラーな」乱闘を繰り広げるのだが、それはバッグに流れる吹奏楽部の演奏するワグナーの楽曲さながらに、「交響的な」エンディングとなっている。これは原作の小説にはない場面で、吉田大八監督の大手柄である。「いい映画を観た」「映画らしい映画を観た」という思いが映画館を出る観客たちの間でたしかに共有されていた。 

  大学教師の癖で(授業で話すみたいに)あれこれ理屈を並べたが、一言でいうと、今年観た映画の中で一番好きな作品である。」 

映画を観終えてから、大学へ。

5限・6限はゼミ。5限は3・4年生合同セミで『桐島、部活やめるってよ』を素材にしたグループ発表。私の後ろの席で映画のラストシーンで感動してシクシク泣いている人がいた。感受性の強い子がいるものだと振り返ると4年生のMさんだった。何度見てもこのラストシーンで涙が出てくるのだそうだ。

来週のグループは是枝裕和監督の『そして父になる』(2013年)を取り上げる。

休み時間のスイーツは3年生のU君が用意してくれた。 

鹿児島名物のかるかんである。論系ゼミ1期生のキョウコさんが鹿児島の出身でときどきお土産でいただくが、お店によっていろいろなバリエーションがあるようだ。

6限は学年に分かれてのゼミ。私はいつものように3年生の方へ出る。拙著『日常生活の探究』をテキストにしたディスカッション。

8時過ぎに大学を出る。夕食は大手町の「屏南」(ピンナン)で。

ここではほぼ担担麺を食べている。

9時半、帰宅。

普段は授業は火木金の3日間なのだが、今週は水曜日にも授業があって、火水木金と授業4日連続でけっこう疲れた。

早めに12時半、就寝。


6月7日(木) 晴れ

2018-06-10 11:06:03 | Weblog

8時半、起床。

トースト、サラダ、牛乳、紅茶の朝食。

 昼前に家を出て、大学へ。

いつもは3限の授業(大学院の演習)を終えてから昼食をとるのだが、今日は3限の授業の前に食事をとる時間がありそうだったので、「たかはし」へ行く。

しかし、ランチタイムはやはり混んでいて、注文した刺身定食(ご飯軽め)が出てきたのは12時50分、3限の授業の10分前である。 

大急ぎで平らげる。しかし5分ほど遅刻。

3限は2時半に終わる。4限(14:45-16:15)は空き時間。開いている店は少なくなっても、やはりこの時間にゆっくり昼食をとるべきだった。多くの食堂は11時半から14時までがランチタイム(昼の営業時間)である。これがせめて15時までであれば、とてもありがたいと思う。傍らのテーブルでお店の方が食事をされていてもかまわない。中休みのないカフェなどはお店の方は客が少ない時間に食事をされているわけで(「カフェゴト―」ではしばしばそういう場面に遭遇する)、食堂もあの方式でやっていただけないだろうか。

5限は講義「日常生活の社会学」。

授業を終えて、6時半ごろ大学を出る。梅雨入りの翌日だったが、晴れの一日だった。

7時半過ぎに帰宅。

夕食はパプリカ、ズッキーニ、エリンギ、鶏肉の炒め(二人前です)。

卵豆腐、サラダ、柚子大根、味噌汁、ご飯。

デザートはメロン。

2時、就寝。