フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

12月28日(月) 晴れ

2015-12-29 17:38:52 | Weblog

8時、起床。

鱈子のお茶漬けとサラダの朝食。

今日も大掃除。

昼食は大掃除の女王(妻)と「phono kafe」に食べに行く。「phono kafe」は今日が年内最後の営業。

妻はこの後買い物に出るので、自転車に乗って行った。大原さんが「奥様は自転車に乗るというイメージがありませんでした」と言った。それはもしかしてセレブっぽいイメージということでしょうか?

私はおにぎりセット、妻はご飯セットを注文。

おからコンニャク竜田揚げ(もう一皿頼んだ)。

ほうれん草とキノコのゆず酢和え

テンペと白菜の葛あん

カリフラワーとブロッコリーのヨーグルトソース添え

ヤンコンのひじきソース和え

ごちそうさまでした。よいお年を。 

妻は自転車に乗って買物へ(=私の束の間の自由時間)。

西口の商店街の奥の方にある「オクムラ写真館」でマイナンバーカードに添付する写真を撮ってもらう。ご主人にこの写真館はいつからやっているのですがと尋ねたら、開業して60年ほど経っていますとのこと。ご主人が二代目のようである。

2枚で1500円也。いま日本中の写真館はマイナンバー特需ではないだろうか。

「テラス・ドルチェ」で一服しようとしたら、私が母の遺産相続の処理を依頼した会計事務所のKさんがちょうど出てくるところだった。ここで昼食をとられたようである。今年はお世話になりました。来年もよろしくお願いしますの挨拶を交わす。Kさんは私のブログをよく見てくださっているのだが、先日のゼミ合宿やゼミ論提出後の懇親会の様子を見ていたら、学生時代に戻りたくなったそうだ。「学生時代にもっと勉強しておくのでした・・・・」。はい、卒業生はみんなそう言います。

ブレンドを注文。私の後から入ってきて近くの席に座った男性がブルーマウンテンを注文した。ご主人が申し訳なさそうにブルーマウンテンはいま切らしておりましてと言った。男性は少し考えてマンデリンを注文した。これでマンデリンも切らしていたらまずいだろうなと思ったが、かしこまりましたとご主人が言ったので、安堵した。

昨日は曇りだったが、今日は晴れている。駅前もにぎわっている。

ドラッグストアで歯間ブラシを購入。

初詣はいつもここ。「紅白歌合戦」を観終わってから一家そろって行く。

「一方堂書林」(古本屋)をのぞいていく。

入口の左側の平台の上にはコミック雑誌の最新号が並んでいる。

入口の右側の平台の上には月刊のエロ本の類が置かれている。

神保町や早稲田や本郷の古本屋は古本屋の中ではエリートで、場末の古本屋というのはたいていこういうものである。

ちゃんとした古本は中の棚に並んでいる。

飯坂耕太郎『「芸術写真」とその時代』(筑摩書房、1986年)を購入。2500円→1800円。「芸術写真」とは明治の終わり頃から昭和の初め頃まで見られた絵画のような(絵画的効果を重視した)写真群の総称である。

自宅に戻る途中、向こうからやってくる妻と出会った。吹き出しを付ければ、「いつまでほっつき歩いているのよ。早く帰って掃除よ、掃除!」となるだろう。奥さま、その台詞はセレブにお似合いではありません。

アマゾンに注文していた本が届いた。

デボラ・チェンバース『友情化する社会ー断片化の中の新たな〈つながり〉』(岩波書店)

以前のブログで、私は諸富祥彦『孤独であるためのレッスン』(NHブックス)を「幸福の物語」のポストモダンバージョンの1つである「孤独である幸福」について考えるための参考書として紹介したが、私は本書を「幸福の物語」のもう一つのポストモダン・バージョンである「仲間のいる幸福」について考えるための参考書として読もうと思う。

訳者の一人、辻大介は「訳者あとがき」の中でこう述べている。「たとえば日本の家族社会学にとっては、家族を友人と類比的に位置づけ、家族を親密性の単位として/友人をケアの単位としてとらえなおす本書のような試みは、意外に新鮮な-しかし抵抗感のあるーものかもしれない。「友だち家族」ということばがあることからもわかるように、現象面では、家族の友情化は進みつつある。しかし、理念的・規範的な面では、家族が友人よりも重要で絶対的な拠りどころであることが、未だに暗黙の前提とされたちではないか。・・・(中略)・・・家族から、血縁であることや性的関係性や生活の共同性を取り除いていったとき、そこに残るものは何か。あるいは、地域共同体や職場を離れ、一切の利害関係がなくなったとき、それでもそこにいた相手とのつきあいがつづくとすれば、何がそうさせるのか。私たちはその何かを、友情とか親しさ(親密性)と呼ぶしかあるまい。その点で、「友情」とは、おそれくは私たちの社会性の原基をなすものに与えられた名辞でもある。なぜ彼・彼女とつきあうのかと問われて、私たちは必ずしも明確な理由を答えられるとは限らない。しかも、それは「愛」というほど大仰なものではなかったりもする。そうした漠然として「友情」的なものに、私たちの社会は大きく支えられれているのではないか。」(296-297頁)。 

夕方、名古屋から息子が帰ってきた。妻が買っておいたお菓子(ザクザク)でお茶。

夕食はラムチョップ。いつもは2本だが、今日は奮発して4本もある(息子は5本ですけどね)。

デザートは苺。