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フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

9月16日(日) 晴れ

2007-09-17 01:55:37 | Weblog
  午後、息子の大学の友人が二人遊びに来て、居間のTVにWiiを接続して野球ゲームに興じている。その喚声が書斎にまで聞こえてくる。まあ、それはよい。しかし、午後の書斎は西日が差し込んで暑いのである。普段であれば、居間のソファーで読書あるいは居間に隣接した和室で昼寝というパターンなのであるが、今日はそれができない。母が敬老会に出かけているので、一階の和室の畳の上に大の字になって、網戸から入ってくる風を心地よく感じていたら、母が友人のWさんを連れて戻ってきた。いよいよ居場所がなくなったので、JRの定期券を購入がてら散歩に出ることにした。
  蒲田-東京間の定期券は明日から3ヶ月で購入。私は夏休みや冬休み中は何らかの用事がない限り大学へは行かない。だから6ヶ月定期というのは購入したことがない。3ヶ月定期と1ヶ月定期の組み合わせでやりくりしている(定期券の空白の期間はスイカで現金清算)。こういう方法でいく場合、定期券を購入するタイミングに注意しなければならない。早すぎても遅すぎても無駄が生じる。明日から3ヶ月ということは、12月16日(日)まで有効ということである。有効期間が過ぎてから大学へ行く回数は少ないほどよろしい。12月の授業は当初の予定では19日まで(20日から22日までは補講期間)のはずだったのだが、今年度は金曜日の授業回数が他の曜日に比べて少ないというので、20日から22日の補講期間をなくして、それを正規の授業期間に振り向けるという措置が夏休みの前に決まった。なんで年度の途中で予定の変更を行なうのか(だったら最初からそういうスケジュールでやればいいものを)理解に苦しむが、おそらく文科省から授業回数(半期15回)をきちんと確保するようにとのお達しが来たのであろう。というわけで、今回は定期が切れてから冬休みに入るまで1週間あり、その間に私は授業で3日大学へ行くことになる。なお、大手町-早稲田間の地下鉄は定期券の割引率がJRよりも小さく、全然得ではないので、その都度スイカで支払っている。
  ルノアールで「清水幾太郎先生生誕百年記念文集」を読む。清水幾太郎研究の本筋からは外れたことで、「へぇ」と思ったことを2つあげると、一つは、清水は女子学生に非常に人気があったということ。清水は学習院大学政経学部政治学科の教員であったが、政治学科には女子学生は少なかった。しかし、清水は学習院短期大学(現在の学習院女子大学)でも授業をもっていた。

  「昭和二十八年、学習院短大国文科に第一期生として在学した時、清水先生は戸山が原の短大まで、社会学の講義においでになった。それが先生との最初の出会いであった。受講生は一番大きな教室でも入りきれないほど多かった。普段おしとやかな人が、先生の関心をひきたくて、講義中に奇声を上げたことが忘れられない。」(I.F.)

  「やがて研究室には短大から多くの女性たちが加わり、一転、華やかなムードに変わる。先生はご機嫌のようだったが、無骨な私には何とも面映く、ことさら過激な言葉を弄して彼女たちの顰蹙を買った。」(Y.E.)

  清水が平和運動家として脚光を浴びていたのは40歳台の半ばから50歳台の半ばにかけての頃で、60年安保のときはいまの私と同じ53歳であった。う~む、と思わず唸ってしまうが、いえ、別にうらやましくなんかありませんよ。ええ、ありませんとも。
  もう一つは、清水が自分の生原稿を教え子にあげることがしばしばあったこと。

  「清水先生のお引越しのお手伝いに伺った際に、私は、山のような先生の著作の原稿の束の中から、「社会心理学の原稿」をいただいた。先生は「蚕が糸を吐き出すように原稿を書く」とおっしゃっていたが、ほとんど訂正がない実にきれいな原稿であった。「フロイトは天才だと思う」という書き込みをした後に消してあったのを覚えている。」(I.F.)

  「あれは、私が社会人になったばかりの年、つまり昭和35年の5月頃だったと思う。職場に、先生から電話がかかってきた。「K君ですか、清水です」。「君、『関東大震災』欲しいって言ってたね。原稿が返ってきたんだけど、いま近くにいるから持って行ってげようか」。先生はそのとき、岩波書店から電話されたらし。私の職場は、そこから歩いて10分ばかりのところにある広告会社の博報堂。お会いして恐縮する私に、「じゃ、コーヒーご馳走になろうかな」と悪戯っぽい目をされた。・・・(中略)・・・頂戴した原稿には、推敲に次ぐ推敲の跡がびっしりと残されていた。どんな段階で加えられたのか、青インク、赤インクの吹き出しが随所に出てくる。その書き込みで、論文は一層引き立ち、なかみもぐんぐん変貌していた。ずっと後になってのことだが、その変貌過程を実際に辿ろうと、私は当時のワープロに懸命に打ち込んだものだ。しかし、いまでは残念ながら、そのワープロも、打ち込んでいたフロッピーも見当たらない。」(K.N.)

  訂正のほとんどない原稿と推敲に推敲を重ねた原稿、どちらが清水の生原稿としては普通でどちらが例外なのだろうか。私が思うに、前者は最終的に清書された原稿なのではなかろうか。しかし、どちらのケースも、清水の死後、娘の礼子から生原稿を返していただきたいという電話があって、それに従ったという後日談がついている。ちなみに私は手書きの原稿というのは卒業論文が最後である。それ以降(つまり大学院に入ってから)は、ほんの短い期間、和文タイプで書いたことがあるだけで、あとはすべてワープロないしパソコンを使って原稿は書いている。だから生原稿という概念は存在しない。ところでほとんど唯一の生原稿である卒論だが、しばらく前から行方不明になっている。誰かに貸したような気もするのだが、心当たりのある方、返して下さい。