トンデモ本の判断は、案外と難しい。
ちなみにトンデモ本とは、「著者が意図したものとは異なる視点から読んで楽しめるもの」とト学会では定義している。つまり著者がいかに真剣に書いたものであろうと、勘違いや盲信などにより常識からかけ離れすぎた本のことだ。笑い飛ばせるものでもあるが、はじめから著者が読者を笑わせるつもりのものはトンデモ本とは言わない。
要するに著者たちは大真面目であるにも関らず、普通の常識から判断すると大笑いするしかない奇論、暴論のことでもある。でも、恐ろしいことに、この手のトンデモ本はよく売れている。私も手にして読んでしまったことはある。
読んでいる最中は、そのおかしさに気がつかないことが多い。私にも身に覚えがあるから、よく分る。現在でこそ、トンデモ本だとの評価が定まってしまった「人麻呂の暗号」や「ジンギスカンの秘密」はたまた「ユダヤが解ると世界が解る」なんて、読んでいる最中は結構夢中だった。
あれ?でも、おかしいなと思うようになるには、しばしの時間が必要だった。実際、トンデモ本がトンデモ本であることが立証されるのには時間がかかる。矢追氏のUFO本や、五島氏のノセタラダマス本のように、誰でも分るトンデモ本ならともかく、宇野氏のユダヤ本や、藤村さんたちの古代朝鮮語本ともなると専門家による反論が出ないと、なかなかに真贋の判断はできない。
まあ、科学的に論証された反論本などを読んでみて、そこで初めてトンデモ本であることが分るのだが、批判された当人たちは、あくまで反論を認めないのが普通だ。ただひたすらに自説の正しさにしがみつくのがトンデモ本の特徴ですらある。
しかし、ウェーゲナーの大陸移動説のように生前はとんでもない奇論だとして誹謗されていたものが、死後になってその正しさが立証されたこともある。
ガリレオの地動説にせよ、あるいはダーウィンの進化論にせよ、その正しさが立証される前に感情的な誹謗にさらされて、科学的かつ客観的な論証がされて後、ようやく正しいとされたものもある。
だから、変だと思いつつも、簡単にトンデモ本だとの断を下せない心理もわかる。人は自ら信じたいものを信じてしまう。潜在的願望を他人から正しいと宣されてしまったら、無意識にも信じてしまう。願望の前には論理も論証も弱々しいのは、人の性だと言ってもいい。
私のみるところ、トンデモ本の著者のなかには、この人間の心理をついてベストセラーを連発する性悪な輩が少なくない。それでも性悪だと自覚していれば、少しの敬意と思いっきりの侮蔑を捧げてやる。困るのは妄信的な善意で同じことを繰り返す輩だ。このタイプが一番性質が悪い。
いずれにせよ、自分がかつて夢中になって読んだ本が、実はトンデモ本だと判明するのは、とても気恥ずかしい。根底にあるのは一種の活字信仰(活字にされた事実は真実だ)があるので、読書好きほど騙されやすい。
嫌な予想だが、私はこの先もトンデモ本に騙されると思う。騙されるのは仕方ないが、せめて後で笑い飛ばせるように、自分の無知を自覚するように務めよう。
私が知らないことなんて、きっと沢山ある。分っていると思い込んでいることだって、実は分っていないことだって、きっとある。だからこそ、多くを学び、数多の反省を繰り返す必要があるのだろう。
でも、それって苦しいぞ。だからこそ、笑い飛ばす余裕も必要なのだろうね。
ちなみにトンデモ本とは、「著者が意図したものとは異なる視点から読んで楽しめるもの」とト学会では定義している。つまり著者がいかに真剣に書いたものであろうと、勘違いや盲信などにより常識からかけ離れすぎた本のことだ。笑い飛ばせるものでもあるが、はじめから著者が読者を笑わせるつもりのものはトンデモ本とは言わない。
要するに著者たちは大真面目であるにも関らず、普通の常識から判断すると大笑いするしかない奇論、暴論のことでもある。でも、恐ろしいことに、この手のトンデモ本はよく売れている。私も手にして読んでしまったことはある。
読んでいる最中は、そのおかしさに気がつかないことが多い。私にも身に覚えがあるから、よく分る。現在でこそ、トンデモ本だとの評価が定まってしまった「人麻呂の暗号」や「ジンギスカンの秘密」はたまた「ユダヤが解ると世界が解る」なんて、読んでいる最中は結構夢中だった。
あれ?でも、おかしいなと思うようになるには、しばしの時間が必要だった。実際、トンデモ本がトンデモ本であることが立証されるのには時間がかかる。矢追氏のUFO本や、五島氏のノセタラダマス本のように、誰でも分るトンデモ本ならともかく、宇野氏のユダヤ本や、藤村さんたちの古代朝鮮語本ともなると専門家による反論が出ないと、なかなかに真贋の判断はできない。
まあ、科学的に論証された反論本などを読んでみて、そこで初めてトンデモ本であることが分るのだが、批判された当人たちは、あくまで反論を認めないのが普通だ。ただひたすらに自説の正しさにしがみつくのがトンデモ本の特徴ですらある。
しかし、ウェーゲナーの大陸移動説のように生前はとんでもない奇論だとして誹謗されていたものが、死後になってその正しさが立証されたこともある。
ガリレオの地動説にせよ、あるいはダーウィンの進化論にせよ、その正しさが立証される前に感情的な誹謗にさらされて、科学的かつ客観的な論証がされて後、ようやく正しいとされたものもある。
だから、変だと思いつつも、簡単にトンデモ本だとの断を下せない心理もわかる。人は自ら信じたいものを信じてしまう。潜在的願望を他人から正しいと宣されてしまったら、無意識にも信じてしまう。願望の前には論理も論証も弱々しいのは、人の性だと言ってもいい。
私のみるところ、トンデモ本の著者のなかには、この人間の心理をついてベストセラーを連発する性悪な輩が少なくない。それでも性悪だと自覚していれば、少しの敬意と思いっきりの侮蔑を捧げてやる。困るのは妄信的な善意で同じことを繰り返す輩だ。このタイプが一番性質が悪い。
いずれにせよ、自分がかつて夢中になって読んだ本が、実はトンデモ本だと判明するのは、とても気恥ずかしい。根底にあるのは一種の活字信仰(活字にされた事実は真実だ)があるので、読書好きほど騙されやすい。
嫌な予想だが、私はこの先もトンデモ本に騙されると思う。騙されるのは仕方ないが、せめて後で笑い飛ばせるように、自分の無知を自覚するように務めよう。
私が知らないことなんて、きっと沢山ある。分っていると思い込んでいることだって、実は分っていないことだって、きっとある。だからこそ、多くを学び、数多の反省を繰り返す必要があるのだろう。
でも、それって苦しいぞ。だからこそ、笑い飛ばす余裕も必要なのだろうね。
「ノストラダムス」と言えば、読んだのが中学生の頃で、本当に浮ュなってしまって、私の寿命もあと20数年か・・などと思った記憶があります。(笑)
たしかにこの手のトンデモ本の発行は後を絶たないですよね。実は昨日職場で、気の波動でガンを治すみたいな本が目について、どうしても人って、何かにすがりたいものなのだな・・と思ったばかりでした。
このレベルならともかく、科学的、資料的な証拠が出ないと判断できない様な内容のものは、一般読者には見分けられないですよね。
そもそもすでに確実だとされている事だって、例えば物理学的な定理だって、いつくつがえされるかなんて、わからないですものね。