強さって何だろうと思う。
少し極端な言い方だが、自分の意思を押し通す力。これこそが強さだと思う。
もちろん腕っ節の強さや、人を使いこなす力も強さだ。人を動かす力というならば美貌や妖艶さだって強さだと思う。もっといえば、弱々しく見せて他人の関心を惹き自分の希望を満たす遣り方だって、ある種の強さだ。
まあ、これはしたたかな強さと言うべきだと思うが、弱々しい涙や、寂しげな笑顔だって人を動かす。自分の欲望を満たすため、自らの力ではなく他人の力を使ってやることも、やはり強さだと思う。
子供の頃は単純で良かった。ただ腕っ節が強ければよかった。どんな能弁も拳骨一発でねじ伏せられた。しかし、成長するにつれ、他人の力を自らの力として行使できる輩が出てくる。これが一番の難敵だった。
何度か転校を繰り返した私にとって、一番やっかいなのは集団を使って戦ってくる奴らだった。なにせ当人が前面に出てこないので、喧嘩も徒労となることが多い。そもそも首謀者が誰なのかさえ不透明なことも少なくない。
一対一なら、如何に相手がデカかろうと、不意を狙って後ろからベルトで首絞めて引きずり回せば、大概勝つことが出来る。そう考えていた私にとって、誰がボスなのか分らないグループとの喧嘩が一番厄介だった。
しかし、注意深く観ていれば誰がボスなのか分る。放課後、帰宅時を狙って襲い鰍ゥり憂さを晴らしたまでは良かったが、そうなると今度は相手の親やらPTAやらが、しゃしゃり出て来る。
ついには学校の先生までもが前面に立ちはだかり、いつのまにやら私が悪者にされている。原因があるからこそ結果(喧嘩)があることが分らないバカな大人が多い。強烈な人間不信に陥った私がグレて、学校を飛び出すのに時間はかからなかった。
幸い親の転勤を期に引越して、新たな転校先では思いっきり猫を被った。これは楽だった。弱い自分でいることが、これほど便利だとは思わなかった。過去の失敗を噛み締めた私は、長いものには巻かれて、グループ内に身の置き場をつくることに傾唐オた。
グループで戦うのは一人で戦うよりも遥かに楽だった。だが、グループのなかで自分の意思を押し通すには、今までとは違うノウハウが必要だった。これを身に付けるのに時間がかかった。
これは単純に腕っ節が強いだけではダメだ。むしろ頭の良さが求められる。集団の中で自分の地位を保持するには、人間関係を円滑に保つノウハウが必要だった。それは気配りであったり、あるいはグチの聞き役であったりといろいろあるが、この集団の中で生きていくノウハウこそが、子供の頃に身をつけるべき最大の課題だと思う。
これは大人になっても変らない。いや、むしろ組織のなかに身を置くことの多い大人だからこそ、身につけておかねばならぬ大事なことだ。会社内部での派閥抗争や、飲み友達のなかでのトラブルでもそうだが、人間関係を円滑に保つノウハウこそが、生きていく上での最大の武器となりうる。
それは腕っ節の強さがものをいうプロレスの世界でも同じこと。50年代から70年代にかけて活躍したパット・パターソンは、まさに人間関係の達人であった。
一応、全米で活躍したプロレスラーだけに決して弱くはなかったと思う。ただ、どちらかといえば強者というより巧者であった。アマレスをベースとしたテクニシャンタイプのプロレスラーであったと思う。
私が実際に見たのは70年代であり、既にベテランの域に達しており、正直強そうには見えなかった。実際、試合の大半がタッグ・マッチであり、試合の攻防もほとんど記憶に残らない地味なレスラーだった。
だが、どんな荒れた試合であっても、決して大怪我をしないプロレスラーだった。まだ人種差別があからさまにあった70年代にあって黒人レスラーとも好んでタッグを組み、ドサ回り扱いであった日本巡業でも笑顔の絶えない愉快な男であった。誰からも尊重される稀有な人物であったと思う。
この人の真価は、むしろ引退後に出た。プロモーター(興業主)にはならず、コーディネーターとして活躍した。なにかトラブルがあると多くのプロレスラーや興業主たちがパターソンに相談した。
プロレス業界というのは、案外ヤクザな商売でトラブルは日常茶飯事だった。それだけにトラブルの相談相手として、パターソンは多くの人に頼られた。彼は人間関係における強者だった。
プロレスラーとしては、それほど名をなさなかったが、そこで築き上げた信頼が引退後の生活を充実させた。こんな男、滅多にいませんよ。引退後にこそ名を上げた稀有なプロレスラー、それがパット・パターソンでした。
少し極端な言い方だが、自分の意思を押し通す力。これこそが強さだと思う。
もちろん腕っ節の強さや、人を使いこなす力も強さだ。人を動かす力というならば美貌や妖艶さだって強さだと思う。もっといえば、弱々しく見せて他人の関心を惹き自分の希望を満たす遣り方だって、ある種の強さだ。
まあ、これはしたたかな強さと言うべきだと思うが、弱々しい涙や、寂しげな笑顔だって人を動かす。自分の欲望を満たすため、自らの力ではなく他人の力を使ってやることも、やはり強さだと思う。
子供の頃は単純で良かった。ただ腕っ節が強ければよかった。どんな能弁も拳骨一発でねじ伏せられた。しかし、成長するにつれ、他人の力を自らの力として行使できる輩が出てくる。これが一番の難敵だった。
何度か転校を繰り返した私にとって、一番やっかいなのは集団を使って戦ってくる奴らだった。なにせ当人が前面に出てこないので、喧嘩も徒労となることが多い。そもそも首謀者が誰なのかさえ不透明なことも少なくない。
一対一なら、如何に相手がデカかろうと、不意を狙って後ろからベルトで首絞めて引きずり回せば、大概勝つことが出来る。そう考えていた私にとって、誰がボスなのか分らないグループとの喧嘩が一番厄介だった。
しかし、注意深く観ていれば誰がボスなのか分る。放課後、帰宅時を狙って襲い鰍ゥり憂さを晴らしたまでは良かったが、そうなると今度は相手の親やらPTAやらが、しゃしゃり出て来る。
ついには学校の先生までもが前面に立ちはだかり、いつのまにやら私が悪者にされている。原因があるからこそ結果(喧嘩)があることが分らないバカな大人が多い。強烈な人間不信に陥った私がグレて、学校を飛び出すのに時間はかからなかった。
幸い親の転勤を期に引越して、新たな転校先では思いっきり猫を被った。これは楽だった。弱い自分でいることが、これほど便利だとは思わなかった。過去の失敗を噛み締めた私は、長いものには巻かれて、グループ内に身の置き場をつくることに傾唐オた。
グループで戦うのは一人で戦うよりも遥かに楽だった。だが、グループのなかで自分の意思を押し通すには、今までとは違うノウハウが必要だった。これを身に付けるのに時間がかかった。
これは単純に腕っ節が強いだけではダメだ。むしろ頭の良さが求められる。集団の中で自分の地位を保持するには、人間関係を円滑に保つノウハウが必要だった。それは気配りであったり、あるいはグチの聞き役であったりといろいろあるが、この集団の中で生きていくノウハウこそが、子供の頃に身をつけるべき最大の課題だと思う。
これは大人になっても変らない。いや、むしろ組織のなかに身を置くことの多い大人だからこそ、身につけておかねばならぬ大事なことだ。会社内部での派閥抗争や、飲み友達のなかでのトラブルでもそうだが、人間関係を円滑に保つノウハウこそが、生きていく上での最大の武器となりうる。
それは腕っ節の強さがものをいうプロレスの世界でも同じこと。50年代から70年代にかけて活躍したパット・パターソンは、まさに人間関係の達人であった。
一応、全米で活躍したプロレスラーだけに決して弱くはなかったと思う。ただ、どちらかといえば強者というより巧者であった。アマレスをベースとしたテクニシャンタイプのプロレスラーであったと思う。
私が実際に見たのは70年代であり、既にベテランの域に達しており、正直強そうには見えなかった。実際、試合の大半がタッグ・マッチであり、試合の攻防もほとんど記憶に残らない地味なレスラーだった。
だが、どんな荒れた試合であっても、決して大怪我をしないプロレスラーだった。まだ人種差別があからさまにあった70年代にあって黒人レスラーとも好んでタッグを組み、ドサ回り扱いであった日本巡業でも笑顔の絶えない愉快な男であった。誰からも尊重される稀有な人物であったと思う。
この人の真価は、むしろ引退後に出た。プロモーター(興業主)にはならず、コーディネーターとして活躍した。なにかトラブルがあると多くのプロレスラーや興業主たちがパターソンに相談した。
プロレス業界というのは、案外ヤクザな商売でトラブルは日常茶飯事だった。それだけにトラブルの相談相手として、パターソンは多くの人に頼られた。彼は人間関係における強者だった。
プロレスラーとしては、それほど名をなさなかったが、そこで築き上げた信頼が引退後の生活を充実させた。こんな男、滅多にいませんよ。引退後にこそ名を上げた稀有なプロレスラー、それがパット・パターソンでした。
ヌマンタさん、本当にプロレスに詳しいんですね~。プロレスの歴史の勉強になりますね、このシリーズ。なかなか貴重だと思いますよ。
パット・パターソンさんって、確かに顔つきが温厚で良い人そう。(笑)ブロンドの髪も良い感じです。