読書な日々

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「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」

2006年07月11日 | 作家ヤ行
米原万理『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』(角川書店、2001年)

絵本かなにかのタイトルのようなこの小説は、かつて日本共産党の幹部で国会議員もつとめた父親の米原昶(よねはら いたる)がプラハに赴任したときに経験したソビエト学校での交友関係をその後の大きな変化と絡ませて書いた中編小説集である。

このソビエト学校というもの自体のことが小説だけではよく分からないので、Wikipediaで検索してみたら、「米原万里」の項目で次のような分かりやすい説明があった。
「日本共産党常任幹部会員(当時)・衆議院議員米原昶(よねはら いたる)を父として東京都に生まれた。祖父は貴族院議員米原章三。1960年、小学校4年生のときに、父が日本共産党代表として「平和と社会主義の諸問題」編集委員に選任されチェコスロバキアのプラハに赴任したため、一家そろって渡欧することになる。 9歳から14歳まで少女時代の5年間、現地にあるソ連の外務省が直接経営する外国共産党幹部子弟専用のソビエト学校に通ってロシア語で授業を受けた。 チェコ語を選択せずソビエト学校を選択したのは、ロシア語ならば帰国後も続けられるという理由だった。ソビエト学校は、ほぼ50カ国の子どもたちが通い、教師はソ連本国から派遣され、教科書も本国から送られたものを用いる本格的なカリキュラムを組んでいたという。」

もちろんこの小説集に登場するのはこのソビエト学校に通っていた小学校高学年から中学くらいの子どもたちで、「リッツァの夢見た青空」ではギリシャから亡命してきたコミュニスト・パルティザン活動家の娘であるリッツァ。彼女は中学の頃は映画女優になるのが夢で、あまり勉強(特に理数系)が苦手だったのに、この父親がプラハの春にさいして反対の態度表明を行なったことから、一人プラハに残って勉強することになり、苦手の勉強を克服して医者になり、ドイツで結婚してギリシャや中欧からやって来た移民たちを中心にした医療活動をしている。

「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」はルーマニアの共産党幹部の子どものアーニャは生まれてからほとんど外国暮らしばかりで、素直な優しい子どもなのだが、まるで共産党のパンフレットが口からついて出てくるようなものの言い方をするので、みんなからからかわれている。ところが労働者の味方、労働者の血と労働であがなった○○というようなことを言っているわりには、かつての貴族のような生活をして、身の回りの世話をする家政婦夫婦を屋根裏部屋に住まわせているということになんら矛盾を感じていないことを、「私」は敏感に感じ取る。この矛盾は、社会主義諸国の崩壊、ルーマニアのチャウシェスク政権の崩壊後の祖国の混乱と労働者たちの悲惨さの増大を尻目に、普通のルーマニア人にはできないことなのに幹部の子弟ゆえに可能となったことなのだが、イギリスに渡ってイギリス人と結婚して裕福な暮らしをしていることに、なんの負い目も感じていないことにも、「私」によって見抜かれている。

この小説を読んでいろいろ考えるところがあった。米原自身が「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」のなかで指摘していることだが、こうした社会主義国の封建性―つまり共産党幹部がたんに貴族に置き換わっただけのような状態―への鋭い指摘である。日本ではずっと野党だからそういうことが見えてこないだけで、日本でも政権をとったら同じことになるのではないか。

そもそもコミュニズムってなんだろう、と思う。私はマルクス主義の先行思想はルソーにあると考えている。マルクスは人間の意志に関わらないものによって人間の意識は規定されると考えた。物質が意識を規定するというテーゼである。人間の意識や意志に関わらないなにかが人間を拘束する。それに似たことを言い出したのはルソーである。ルソーは人間の自由意志は人間をほかの存在から区別する唯一の指標だと言いつつ、この人間の意志を、個々の意志ではなく、総体として規定しているものがあり、それが神の意志だと考えた。個々の人間は自分の自由意志によって行動しているが、この自由意志そのものが、大きな枠組みからみれば神の思うように動いているのだというのがそれである。それはちょうど『エミール』で詳述された教育論の基本でもある。エミールはすべて自分の意志で行動していると思っているが、彼の自由意志そのものが家庭教師ジャン=ジャックが設定した枠組みによって意のままに操られている。このルソーのいう神の意志は強力なものではなくて、人間が耳を澄まさなければ聞こえなくなってしまう。それを強固なものにしたのがヘーゲルである。彼は物質も人間の歴史もすべて神の意志の展開したものであると考えた。人間社会の変化も神の意志にもとづく法則性をもって展開しているというのだ。この神の意志を生産力という物質的なものに置き換えたのがマルクスであろう。

だがこういうのって、ちょうどダーウィンの進化論、弱肉強食理論、獲得形質遺伝などのように、一見客観的で科学的な理論のように見えて、その実は時代の支配者階級のイデオロギーであるのと同じように、マルクス主義も時代のエピステーメなのではないかと思えてくる。そう思わせるのがこの米原万里の小説なのだ。私よりも一世代上の人たちは生産力至上主義のところがあった。生産力が上がればすべてが解決されるみたいは発想があった。生産力が低いから環境問題なんてものが起こるのであり、生産力を押さえて環境に配慮するなんてことは考えられないし、社会主義は生産のあり方を根本から国家が管理するのだから、公害なんかありえないというようなことも言われていたと思う。だが中国の現実がそんなたわごとは吹っ飛ばした。

いずれにしても米原万里の鋭い視点はけっして見過ごされるべきものではないと思う。他の小説も読んでみたい。

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