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読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

『walk in closet』

2017年06月04日 | 舞台芸術
横山拓也『walk in closet』(劇団大阪定期公演、2017年)

同性愛を家族にカミングアウトするという問題を主題にした作品。

冒頭から、記録的な豪雨で河が反乱し、道路が通行止めになってしまい、登場人物たちがみんな主役の政次の家に缶詰状態になって、逃げ場がないという設定が作り出されるのだが、これなんか実に上手い作りである。

登場人物は、政次、母・清美、隣人の椿本、政次がアルバイトをしているカフェの店長の平良と店員の梓のぶ代、さらに父・利弘とかつて政次が告発したことで体操教室を首になり父・利弘が就職などの世話をしてきた小西である。

政次がアルバイトをしているカフェの店長の平良がゲイだという噂があるという話から、政次のクローゼットにゲイのDVDがあったという母・清美の話から、さらに政次を好いている梓が政次に振られたと言ったり、そして平良に小西が政次をゲイの世界に引きずり込むなという発言などなどがあって、梓が勝手に政次はゲイだと口にしてしまう。

そのテンポの良い、大阪弁のやり取りは、小気味よい。一人ひとりの特徴が際立っていて、その特徴的な発言や会話のやり取りの結果、大団円に突っ込んでいく。普通は家族のあいだではこういう問題は触れずにおこうという風になるものだ。それでは芝居が回っていかないので、缶詰状態という設定が作られ、第三者が普通なら言わないでおくところを、口にしてしまう。

自称カウンセラーの椿本は、普通ならスルーすべきところを「その問題をほっておいたらあかんのんとちゃう」とか言って、話の流れを作者の都合のいい方向に導く役目をもっている。

缶ビールを飲んで滑舌が良くなった小西は、政次のせいで人生を狂わされたと思っているのか、政次に直接口出しをしないが、平良を責めて、話をそちらの方向に向けようとする。

政次に振られた梓、この娘もおもしろい。世間の常識的な言葉にツッコミをいれ、高い次元からものを言っているように見えて、じつは政次に振られた腹いせだったり。

平良の演技もいい。ゲイだからといって、やたらとオネエ風の仕草をしないところがいい。しかし、ちょっとしたところにその雰囲気を見せる。26才とはいえ、ゲイということで苦労してきた大人らしく、政次を気遣って、DVDの件を自分のせいだと引き受けたり。

小西は、酒が進むに連れて本性、というよりもこれまで腹の中にためて来たものを出す。

一番戸惑っているのが、母・清美と政次自身だ。政次は台詞にあったように、自分で自分が分からない。大西がその活気のない感じ、ぼんやりしたような表情でそれをよく表していた。

母・清美は、自分の腹を痛めた子にどう接したらいいのか分からない。ただでさえ男の子は20才ともなれば、自分からは完全に離れていくものだ。その上にゲイだと言われたら…。でもなんとか理解しようとして、「好きなようにしたらいい」と言えば、「好きなようにってなんや」と息子から突き放される。そういう心許なさを名取が好演していた。激しい動きや台詞はないが、心の中を繊細に表す演技だった。

新鮮な感じのする芝居だった。芝居っていいなと思う仕上がりだった。


「亀山法男~永六輔を歌う」

2017年05月30日 | 舞台芸術
「亀山法男~永六輔を歌う」(子ども劇場例会)

子ども劇場などといいながら、来ているのはジジババばかりの「ジジババ劇場化」している現状に、こういう催し物をすることになったのかどうか、委細は知らない。

とりあえず「永六輔を歌う」に惹かれて上さんと行ってみた。冒頭から演歌「影を慕いて」。そして裏声で歌うからという話しの流れから「エーデルワイス」。まったく一貫性のないプログラム。

いつになったら永六輔を歌ってくれるのかなと思っていると、いよいよ永六輔との出会いの話しになって、永六輔の歌のなかでも聞いたことがないようなマイナーな曲から。知っている曲といえば、「上を向いて歩こう」をジャズ風にアレンジ。すぐにまた関係ない曲に。

今日はだれやらの誕生日という話から、「ハピバースデー」の旋律をバッハ風に、モーツァルト風に、シューベルト風に…ドビュッシー風にと編曲して弾いていた。それはそれで面白かったけど、永六輔とどんな関係があるのか?


結局、永六輔の歌は二・三曲歌っただろうか。私の斜め前に座っていたおじいさんがチラシに書いてあった曲のリストにチェックを入れていたが、きっと終演後にクレームを付けに行ったはずだ。立派な心がけだ。

亀山法男って人、こうやって小規模な演奏会をあちこちでやっているのでしょうね。いつも歌っているから、声はいいし歌も上手い、ピアノも上手い、和声感覚に優れているから、いろいろ編曲できる。もう少し話術を磨いて、テーマをもって一つのリサイタルを組み立てたら、もっと人気出ると思うけどな。

それにしてもピアノって雑音にしか聞こえない。



『ラインの黄金』

2017年03月05日 | 舞台芸術
ワグナー『ラインの黄金』(びわ湖ホール)

びわ湖ホールのプロデュースオペラとしてワグナーの『ラインの黄金』を見てきた。「ニーベルングの指環」第四部のうちの序夜になる作品である。

ニーベルング族の小人のアルベリヒは「愛」を放棄したのと引き換えに、ラインの乙女たちが守るラインの黄金を奪い、魔の指輪を作って王となり、世界支配を狙っている。天上の神の長であるヴォータンは巨人族にヴァルハル城を作ってもらった代償として、妻フリッカの妹で愛と青春の女神のフライア(彼女が栽培するリンゴは神々にとて若さと活力の源である)を奪われることになる。

それに代わるものとして巨人族は黄金を要求したので、ヴォータンと火の神のローゲは地底に赴いて、アルベリヒを騙して天上に連れ去り、黄金をもってこさせ、さらにアルベリヒがもっていた金のスカーフと指輪を奪い取る。その時アルベリヒは指輪に呪いをかける。その結果、フライアを取り戻すために巨人族にわたした指輪のせいで巨人族は兄弟で喧嘩になり、兄が撲殺される。

まずラインの乙女たちと小人のアルベリヒのやり取りはライン川の水中で行われるという設定になっている。この舞台では、舞台前面に置かれたシルクスクリーンのようなものと舞台奥のスクリーンに映し出された水中の揺らめく中をラインの乙女たちが泳ぎ回る映像と、個々の乙女が歌うときに生身の役者を登場させることで、じつに見事に水中の雰囲気を出していた。私はこれを見た時点で完全にこの演出に感心させられた。

というのはびわ湖ホールが主催したワグナーセミナーにも私は参加していて、そこでこの箇所を過去の上演でどんなふうにやっていたかという話を聞いていたので、ずいぶんと興味を惹かれていたからだった。

この第一場が完全に成功していたので、私はあとは少々変なところがあっても(例えば、巨人族の演出など)、わりと作品世界に入ることができた。さらに、第三場で、ヴォータンとローゲが地底のアルベリヒのところに行った場面。ここでは何にでも変身することができる金のスカーフを自慢するアルベリヒが大蛇に変身した場面の演出がじつに見事だったので、ここでも感心した。

全体として、映画の『ロード・オブ・ザ・リング』の原作みたいな知識しかなかったが、休憩なしの2時間30分で上演されたこのオペラで、ワグナーって面白いなと思った。大阪の南から琵琶湖くんだりまで出かけただけの甲斐があった。来年は「ワルキューレ」だそうだから、楽しみにしておこう。

今回は、いろいろ迷った末(せっかくだから京都見物でもしようかとか、京都三条で昼食でもとろうとか)、梅田まで南海と地下鉄で行って、梅田で昼食をとった。「司」という和食屋さんで、カツオのたたきと和野菜の炊いた定食をいただいた。昼食は量を少な目にしているので、ちょうどよかった。

そしてJRの新快速で一気に大津へ。本当は膳所まで行って、そこで京阪に乗り換えて一駅戻るとびわ湖ホールに近いので、その予定だったが、大津についてみると、まだ時間はたくさんあるし、暖かそうなので、歩いて行ったが、正解だった。

終演後は、浜大津で一泊した。

『夜明け前のカチャーシー』

2016年11月14日 | 舞台芸術
『夜明け前のカチャーシー』(作・寺島アキ子、演出・熊本一、劇団大阪第79回本公演)

舞台は1972年、戦後27年で、まもなく本土復帰を迎えようとしている沖縄、ゴザ(今の那覇)。新里あやが営んでいるバー「アヤ」。彼女が戦中に17才で日本兵たちにレイプされて生まれた長男の平和、黒人米兵と結婚して生まれた混血児の洋子、渡嘉敷島から出てきた叔母のヤスとで暮らしている。

そこに基地反対闘争で火炎瓶を投げた罪で投獄されていた平和が戻ってくる。彼の友人たち、知念新一、那津子、金城、東京から来ている鈴木たちが集まり運動について議論する。自分の出自をはっきりさせたい平和は母親に問い詰め、父親が日高誠一郎だと知ると、本土に行ってしまう。

第二部はすでに本土復帰した沖縄で、日高誠一郎の弟が平和に会いにやってくる。そこへ平和も本土から戻ってくる。本土復帰を果たしても何も変わらない、逆に本土の人間が来て、その侮蔑的な言動で沖縄の人々の感情を逆なでする。出自の苦しみに自死しようとした平和に苦しみも悲しみも喜びも生きていればこそだと言って思いとどまらせるアヤの言葉がこの作品の希望と言える。

ヘリパッドの基地建設のためにヤンバルクイナの森を破壊するのを許せないと反対していた沖縄の人々に「土人」という言葉を投げつけた大阪府警の警官が問題になった。まだこんな言葉が生きているのか、しかも20才代の若者に、というのが私の最初の感想だった。反対運動をしている人たちだって死に物狂いでで警官たちに歯向かっていたのだろうから、体を張ったつぶしあいに大阪府警から派遣された警官だって腹が立つこともあっただろう。だが激怒して出た言葉が「土人」とは。

この44年前の芝居で、本土から来た客が、突然アヤから「今日は貸し切りになった」と言われて店を追い出されるとき捨て台詞のように「これだから沖縄のもんは…」と言った言葉が、いや言葉というよりも精神がまだ生きているとは。

以前の『臨海幻想』も古い作品なのにタイムリーな上演だったが、今回もこの事件が起きると予想して企画したわけではないのにタイムリーな上演になった。

今回は知り合いの名取由美子さんが主役を演じた。淡々とした態度の奥にあった悲惨な経験を最後に絞り出すように吐き出した演技がよかった。


桂米朝一門会

2016年10月29日 | 舞台芸術
桂米朝一門会(第38回市民寄席、ビッグ・アイ)

泉ヶ丘にあるビッグ・アイのホールで桂米朝一門会があった。去年も行った。去年は満員御礼だったが、今年はどういうわけかガラガラ。半分も入っていなかったのではないだろうか。どうしてなんだろう。

トップバッターは二乗という若手。おべんちゃらを言うことを教えてもらったが、まったくチグハグなおべんちゃらで話をぶち壊しにするという「子ぼめ」。二人目は佐ん吉というこれも若手。泥棒がある商売人の家に入ろうとするが、入り口の閂を下から手を入れて抜こうとしているところを主人に見つかり、手を縛り付けられて身動きができないうちに、側を通った商売人に財布を持っていかれるという話。

3人目が南天。何だったかな、けっこう笑いを取っていたことは覚えているんだけどね。そうそう、無趣味の隠居がお茶を始めることになるが、周りにお茶のことを知っている者がいないのをいいことに、緑のきな粉でお茶をたてるなど、無茶苦茶な作法で周囲の人をお茶に招き、さつまいもで作った変な茶菓子をみんな嫌って、隣の畑に投げ捨てていたという話。オチがない。

中入り前のトリが南天。さすがに米朝一門を背負って立つ人だ。まずまくらが面白い。身寄りのない子どもを引き取った夫婦に育てられたその子が成長してフレンチのシェフになり、最初のお客さんとしてその老夫婦に料理を出すという心温まる話。育ての父親は今では80歳になるのに、今日も自転車の荷台に紙芝居を載せて近くの公園に出かけた。どうしてこんなに元気なの?それは毎日、青汁を飲んでいるから。そう実はそれは青汁のコマーシャルだった。「私が久しぶりに流した涙はいったいなんだったんでんねん」と怒って、みんなを笑かせた。

本題は「つぼ算」。これはもう話自体が面白いので、大爆笑を取っていたが、私にはどうしても枝雀の姿がちらついて、南光さんには悪いけど、もう一つ楽しめなかった。

枝雀の「つぼ算」はこちら

中入り後は、塩鯛。大酒飲みの話。トリはざこばで、今年もちょっとしんみりするお話の「子はかすがい」。ざこばはこういう人情味のある話が好きみたい。そして上手い。

去年の一門会のことはこちら

落語人気は凋落気味なのかもしれない。米朝、枝雀、米團治などのビッグネームが亡くなって、コアな落語ファンならいざしらず、年に一回か二回程度落語会に行こうかというような人はみんな老齢化した、だんだんと足を運ばなくなっているのかも。


『ファウスト』

2016年10月16日 | 舞台芸術
『ファウスト』(グノー、関西二期会)

シャルル・グノーのオペラ『ファウスト』を観てきた。内容はゲーテの小説で有名なやつだ。老学者のファウストがメフィストフェレスに魂を売って「若さ」を取り戻し、グレートヒェンに恋して妊娠させるが、グレートヒェンはファウストに捨てられ嬰児殺しで投獄されて狂気し、ファウストは最後に悪魔に魂を奪われる寸前で救済されるという話だ。

しかしこのオペラ(1869年)にパリ・オペラ座で初演されてから、フランスでは3000回の上演を数えるという人気のオペラだが、私にはなんとも話の流れが分からないオペラだという印象ばかりが残った。

第一幕で、三つの大きな箱型のセットが置かれており、字幕には「ファウストの保護室」と書いてある。一つ目にファウストがいる。精神病院を思わせる。二つ目はガラス張りになっており、メフィストフェレスの部屋のよう(悪魔の世界をイメージしている)。3つめはファウストの部屋と同じ精神病院を思わせる病室でマルグリートがいる。たぶんマルグリートは最後にこうなるという姿を予告的に見せているつもりだろうが、そんな姿の彼女にファウストが一目惚れをするのも変だ。そもそもメフィストフェレスと悪魔の契約にサインする前は爺さんであるはずのファウストが若いから若さが欲しいという叫びがまったくリアリティーを持たない。完全に演出の間違いだと思う。

舞台美術が上にも書いたように、大きな箱型のセットを回転させて、抽象的な舞台美術として使ったり、部屋のように使ったりするのは、場面転換を容易にするための工夫なのだろうが、場面の違いにメリハリがつかないので、場面の華やかさから一転して悲惨な場面になるというような変化がまったく感じられず、例えば第三幕で冒頭でマルグリートが糸を紡ぎながらファウストに捨てられた思いを歌った後、ジベールに慰められて教会に祈りにでかけてそこでメフィストフェレスに出会い、地獄に引きずり込まれそうになるという場面がまったく恐ろしいものとして見えてこないし、感じられない。完全に演出の悪さだと思う。

いろんな演出がオペラにはありうるが、この作品に関してはリアリティーのある舞台美術を使うことが要請されると思う。なぜなら話自体が現実と夢想の間を行き来しているような内容であり、その違いを見せつけることで、幻想と現実のメリハリがつくと思うからだ。例えば第四幕でファウストが魔女の宴に参加する。それがまるで魔女の宴のように見えない。衣装のせいだ。どうして魔女が白いドレスを着ているのか理解できない。ファウストが嬰児殺しで投獄されて発狂しているマルグリートを連れ出そうとする。ここでも最初からマルグリートが舞台にいるので、ドッキリ観がまったくない。

上さんと一緒でなかったら4時間のオペラ、途中で帰っていたに違いない。初めてフランス語オペラを見て思った。モーツァルトって偉大だ。

『獏のゆりかご』

2016年06月11日 | 舞台芸術
劇団大阪『獏のゆりかご』(劇団大阪第78回本公演、2016年)

台本の作者は青木豪、演出は兵庫県立ピッコロ劇団の岡田力。劇団大阪の本公演とはいえ、演出を外部から招いている点で、ちょっと異色の作品といえる。当日もらったパンフレットの「ごあいさつ」にも「いつもの劇団大阪公演とは一味違った風合いの世界」と書かれている通り。

まずテンポがじつに早い。会話のやり取りがポンポン進む。けっして漫才のような掛け合いではないが、よく考えこまれたセリフのやり取りを、演者たちも小気味よく演じている。言葉と表情がそのまま一体化しているので、演者たちもセリフを完全に自分のものに消化しているのが分かる。

話が二転三転していくので先が読めない。要するに、本筋は動物園の副園長の菅原とバツイチで子持ちの岡田の恋愛問題なのだが、これに、若手の職員の小森とアルバイト職員の那須の恋愛がからみ、クレーマー立川がからみ、X-JAPANのよしきを意識している客の江藤が絡んで、複雑なあらすじを作り出している。

演者たちがその個性を際立たせる演技をしているので、じつにわかりやすい。決して話がこんがらがることもない。みんな演技がじつに上手いので、初めて見る演者は、この人ってこんな人なんやなと思い込んでしまいそう。

芝居の面白さを堪能させてくれる、良い作品だった。

『トスカ』

2016年03月28日 | 舞台芸術
『トスカ』(第30回伊丹市民オペラ定期公演)

5年前に第25回の定期公演で『アイーダ』を観てからちょっと久しぶりの伊丹市民オペラだ。今年は上さんと行った。

『トスカ』。プッチーニが1900年に作ったオペラで、舞台は1800年のローマで、元ローマ共和国総督アンジェロッティが脱獄し、画家のカヴァラドッシが彼を別荘に匿うが、捕まってしまう。そこへカヴァラドッシの恋人のトスカとトスカを愛する王党派の警視総監スカルピアがからんでくる。

カヴァラドッシは逮捕され、死刑の宣告を受ける。スカルピアはカヴァラドッシの命を助けたかったら、一夜を伴にしろとトスカに迫る。トスカはそれを受け入れると見せかけて、国外逃亡に必要な書類を書かせたあと、スカルピアを短剣で刺し殺す。

すぐにカヴァラドッシのもとに行き、事情を話して、銃殺は芝居だから、発砲されても動かないようにと言い含める。しかし芝居でもなんでもなくて、本当にカヴァラドッシは銃殺される。それを見たトスカも身を投げて死ぬという話しである。

最初からもうオーケストラも歌手もパワー満開の音楽で、疲れた疲れた。なんであんなに大声を張り上げて歌わないといけないのか。きっとものすごく広いホールとか屋外劇場で歌うことを前提として作られているのだろう。1000人規模の普通のホールではうるさくてたまらない。

客席からは盛んにブラヴォーとかブラヴァーとか声が飛んでいたが、そんなに素晴らしい出来とも思えなかった。歌手の問題よりも、トスカって主演の役柄があまり好きになれない。

伊丹は、前回同様、いい街だなと思った。今回は帰りにJR伊丹駅の近くにあるニトリによって買い物したり、晩ごはんを食べたりした。駅の反対側にはイヨンモールもできている。これから発展する街なんだろうと思う。

『アイーダ』の感想はこちら

『ラ・ボエーム』の感想はこちら

調べていたら、河内長野のマイタウンオペラでも観たことがあったようだが、まったく忘れていた。その時の感想はこちら

どれも酷評している。たぶんヴェルディだとかプッチーニだとはもう観に行かないと思う。あとはワグナーとかロッシーニを観てみたいな。


『マタイ受難曲』

2016年03月08日 | 舞台芸術
『マタイ受難曲』(河内長野ラブリーホール合唱団演奏会)

以前、アンサンブル・シュッツという大阪の宗教音楽を専門にやっている楽団の演奏と歌でこれを聞いたことがあるが、常日頃からバッハのコラールなどを教会で演奏している団体だけあった、じつに切れの良い、素晴らしい演奏だった。

単純に演奏時間だけでも3時間近い大作だけに、めったに演奏されることがない。東京でバッハ・コレギウム・ジャパンがやっていると聞いても、ちょっとそのためだけに上京するようなゆとりはないので、涙をのむしかない。

あれから20年以上もたって、いつもオペラを見に行くラブリーホールで『マタイ受難曲』をやるというので、早くからチケットを買って、待っていた。

最初の曲を聞いただけで、そのバスの重厚な響きに、バロック音楽やなと感慨に浸りながら、聴き始める。もうそれだけで鳥肌モノだ。そして、物語はすすみ、中間点あたり、いよいよイエスが捕まって、群衆の中にいたペテロが、この人はイエスの知り合いだと言われて、三度否認するという箇所のあとに出てくる二曲の有名な曲、一曲は左手のオーケストラで、二曲目は右手のオーケストラで演奏される。

それがすぎると、だんだんしんどくなってきて、座っているのもしんどい。20数年前ににはなんともなかったのに、3時間も座っていられないとは。やっと終わって、もう6時半くらいなので、例のケーズキッチンに直行して、ディナーにした。

当初は、そこでゆっくりビールでも飲みながらディナーをしようと思っていたのだが、しんどくて食事をするのがいっぱい。

暖かい夕闇のなかを上さんとゆっくり歩いて帰った。

桂米朝一門会

2015年12月18日 | 舞台芸術
桂米朝一門会(第37回市民寄席、ビッグ・アイ)

桂米朝一門会が堺市の市民寄席であったので上さんと行ってきた。若いころに子連れで一・二度行ったことがあるので、本当に久しぶりだ。堺市民会館が現在建て替え中ということで、泉ヶ丘にあるビッグ・アイでの公演となった。駅のすぐ前で便利。座席も指定席で、急がなくていいから、泉ヶ丘で食事をしてからのんびり行けた。

さて、一門会は、トップがまだ三年くらいの桂団次郎。汗をかきかきの話しで、やっぱまだ若いね。次が、桂しん吉。次は八光さんですので、すぐに終わりますからと言って、何度も「まだ終わりじゃないんですよ」で笑かせていた。

次が月亭八光。若いけど、さすがの親の七光か、自分の嫁をだしにして、夫婦喧嘩の古典落語に持って行った話しはなかなかのもの。ドカンドカンと笑いを取っていた。この後に出てくる桂ざこばはしんどいやろうなと思ったが、さすが伊達に年は取っていない。人情ものの「笠碁」というお話しで笑かせて、しんみりさせて前半のトリにふさわしい話しだった。

中入り後は、米朝の息子の米團治から。長い前説の後、突然、米朝が復活させたことで有名な「地獄八景…」をやり始めたので、ちょっと90分にもなる大作やるの、まだ後に桂南光がいてるで、と心配していたら、三途の川を渡った六郷の辻とかいうところで、往年の有名人の講演会やらコンサートやらがあるというところで、桂米朝が出ている寄席もあるので行ってみると米朝が米團治を見て、なんでお前がここにおるんや、まだ修行が足りん、ここに来るのは早い、と言ったというオチで、切り上げた。なかなか洒落たオチでした。

最後は桂南光。奈良の人はみんな早起きだという話しから、奈良は鹿が神の使いということで大事にされていて、鹿を殺すと人間が斬首刑になるため、みんな早起きをして、自分の家の前で鹿が死んでいたなんてことにならないように用心しているという話しへ、そして江戸時代に正直者の豆腐屋が犬と間違っておからを食べていた鹿を殺してしまったが、名奉行が無罪にしてやったという話しだった。

私が落語に興味をもったのは同世代の人から紹介されたからだったから、その頃の寄席は若い人が一杯だったのに、もう今では年寄りばかり(自分たちも含めて)。私たちのように昔のファンが定年退職してどっとやってきているのだろうなと思う。古典落語なんて若い人には興味ないのかね。

また行きたいと思わせるいい寄席だった。