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読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

『ちょっとはダラズに』

2014年01月31日 | 映画
NHK『ちょっとはダラズに』(NHKBS2、1月29日放送)

NHKのBSで鳥取放送局が制作した、米子を舞台にしたドラマ『ちょっとはダラズに』が1月29日に全国放送された。確か米子に行っているときに、ローカルのNHKの番組案内で予告しているのを見た。たまたま新聞のテレビ欄を見ていて、鳥取県米子市…とあるのに気づいて、録画して見た。番組紹介はこちら

少し前には関ジャニ∞の誰やらとマツコ・デラックスがメインキャスターをしている『朝まで…』(だったかな)とかいう番組で、鳥取県を目立たせようというのをやっていたりして、ちょっとは鳥取県にも全国の眼が向けられるようになっただろうか?あまりそんな気もしないが。

さて、このドラマは黒川智花演じる若い看護師が仕事をしながら、離婚して一人で娘を育てているが、まだ小学校に上がる前の子供はよく病気をして、勤務先の病院でのローテーションを狂わせて、同僚に迷惑をかけている。そうしたとき、鳥取県米子市にある米子大学病院(まぁこれは鳥取大学附属病院なんでしょうな)が院内で保育や病児保育をしているということで、看護師募集をしているのを知って、一大決心をして米子に移る。最初は、意欲だけが空回りして、同僚とも上手く行かないし、相変わらず娘は病気になる。しかし病児保育所の小児科医や彼女の受け入れれをしてくれた淀江看護師には、彼女が一人で仕事も育児も頑張ろうと無理をしていることが、娘に寂しさを感じさせ、お母さんをそばに引き寄せようとして病気になっているのではないかと感じるようになる。そこで、一緒に地蔵めぐりをしたり、寂れた商店街を復興しようとしている若者たちのところに行ったりして、もっと気楽に、遊ぶときには馬鹿になって、楽しもうということを彼女に感じさせていく。

主人公の看護師を演じた黒川智花ってあまり見たことのない女優さんだが、小児科医の古谷一行、商店街の竜雷太、そして黒川を受け入れる看護師の森昌子、娘役の小林星蘭、なんて豪華なキャストなんでしょうな。しかも森昌子や竜雷太が米子弁を上手に使ってくれている。森昌子がなかなかいい。素敵なドラマだった。

ただ、寂れた商店街、これは以前このブログでも紹介したことがあるが、どうにもならんでしょう。そもそも人がそちらに行かないのだから。昔は、徒歩や自転車の人が多かったから、なんでも米子駅に行く必要があったけど、今は車だから必要ないし、大型スーパー全盛で、郊外に車で行かなければ、まともな買い物はできない。私だって、たまに米子に行ったときに、商店街に行くとすれば、そこにあった今井書店に行くのが目的になるが、その今井書店がこの商店街を離れて、別の所に大きな店舗をもっているのだから、行く用事がなくなった。

このドラマでも商店街復興と称して、空き店舗を使ったフリーマーケットなどをやっている様子や、ダラズトライアスロンなどというまさにダラズな企画が映し出されているが、なんとも痛々しい。

地方の中小都市のいずれもが、こんな状態というわけではない。以前旅行で行った松山市や熊本市なんかは町の中心にある商店街がたいへんな賑わい様だった。こうした街の場合だって大型スーパーの店舗はやはり郊外にあるのだろうから、なぜあれほど町のど真ん中の商店街が賑わい続けているのか、調査でもしたらどうだろうか?フリーマーケットだの、ダラズトライアスロンだの、だれでも考えつくようなもので、再生できるほど、甘くはないと思う。

森昌子が歌う主題歌

メモ用紙 森昌子 Mori Masako

『風立ちぬ』

2013年07月27日 | 映画
宮崎駿『風立ちぬ』

昨日なんばの方に用事で出かけたついでに『風立ちぬ』を観てきた。まったく面白くなかった。

理由1.主人公堀越二郎は1903年生まれで、たぶんゼロ戦を完成させたのが1940年くらいだろうから、10歳くらいの少年時代から始まってゼロ戦までの30年くらいを描かねばならないために、展開の早いこと早いこと、十分に描き切らないうちに、次、次と話が飛んでいってしまう。これまでの宮崎作品には見られなかった作品構成の悪さがここにある。

理由2.取ってつけたような菜穂子との恋愛の描き方のまずさ。関東大震災の時の出会いからして、作りものめいているし、飛行機の設計者となってからは、毎日そのことしか頭にない二郎が、軽井沢で延々の一週間以上も休暇をとって滞在しているのもわざとらしい。二郎少年の品行方正ぶりもなんか作りものめいている。人間にどろどろしたところがまったくない人などいないだろうに。

理由3.時代が描かれていない。たしかに関東大震災があり、飛行機の注文は軍からのものであり、彼が作る飛行機は戦闘機だけというのは、堀越二郎が生きた時代を描いているかもしれない。だがこのような描き方は時代を描いているとは言えない。彼は時代を超越している。これまでの宮崎作品はそもそもがリアルではないから、みんな作りものとして見ている。だから、背景にある時代なんてものを考慮にする必要はなかった。だが、この作品は実在した人物を主人公にしたれっきとした歴史物である。時代の描き方があまりに一方的、主観的すぎると言ったほうがいいだろうか。まるで堀越二郎が見た夢のような映画と言うべきだろう。見たくないものはすべて捨象されている。

後は感想の羅列になるが、背景の絵も以前に比べて、ずいぶんと雑になってきたように思う。関東大震災のあの揺れの描写は、ただボニョの波の描写を「甍の波」に置き換えただけだろう。人物の描き方がもう類型的というか、信じられないくらいに雑というか、手抜きをしすぎるだろう。以前の宮崎吾朗作品のことでも書いたけど、どこかで見た人物、どこかで聞いた台詞、そんなのばっかりで、新鮮味もなければ、驚きもない。たしかにハラハラ・ドキドキも大笑いするところもないよとは聞いていた。それはそれでいい。しかし…もうやめよう。

宮崎駿も息子吾朗のレベルに落ちてしまったというのが私の感想。

yahoo映画ではたくさんの感想が寄せられているが、その中で私の気持ちに近いものがあったので、リンクを張っておく。こちら。


『コクリコ坂から』

2013年01月29日 | 映画
『コクリコ坂から』(宮崎吾朗監督、2011年)

たしか年末だか年明けだかにテレビでやっていた『コクリコ坂から』を録画してあったので、昨日になってやっと見た。

はっきり言って駄作。最初から最後までのっぺらーとした、山場もなければ落とし所もない、ワクワクドキドキもなければ、遊びもない。

どこかで見たことがある仕草、どこかで見たことがある場面、どこかで見たことがある展開、登場人物の性格も絵もどこかで見たことがあるものばかり。

突っ込みどころ満載で、上さんと二人で、ここ変だよね、ここ話がつながらない、ここ矛盾しているんじゃない、と突っ込みながら見ていた。

たとえば、冒頭で海が朝食に作った目玉焼きをフライパンから皿に移すシーンがある。普通の大きさのフライパンなのに、たったの一回でそこから同居人8人分くらいの目玉焼きをよそおっているなんてありえない。

海がカレーを作るために肉を買いに家を飛び出たところで、ばったり帰宅途中の風間俊と出くわす。この場面で海は道にでて、左に曲がったところで風間俊が向こうから自転車に乗ってやってくるのと出くわす。ところが俊は海を送ってやるといって自転車に乗せて坂を降りる。これでは俊は帰り道ではなくて、もと来た道を引き返すことになるのでは。

海たちが通っている港南学園の制服。女子が白い服ということは、これは夏服だろう。なのに男子はみんな冬服を着ている。

海を始め登場人物たちが良い人ばっかり。良妻賢母のお母さん、しっかりもののお父さん、高校生なのに下宿屋を一人で切り盛りさせられて文句ひとつ言わない海、ハンサムで優等生の風間俊や水口。逆に哲学研究会の男なんか紋切り型のぶ男。すべてが紋切り型。

宮崎吾朗はもう監督辞めたほうがいい。この人才能がないのだから。マスコミ受けを狙ったジブリのプロデューサーの鈴木敏夫に寄り切られた宮崎駿の親ばかもいい加減に目を覚ませ。

「超映画批評」というサイトに『コクリコ坂から』の批評が掲載されているが、これが私の言いたいことをほぼぴったり表してくれている。こちら

映画『武士の家計簿』

2013年01月14日 | 映画
『武士の家計簿』(森田芳光監督、2010年)

2日ほど前に森田芳光監督の『武士の家計簿』を見た。森田芳光監督といえば、最近流行りのお涙頂戴映画とか感動させる映画とかと一線を画する、どちらかと言えば、淡々と、あるいは粛々と事実をなぞっていくことで、その手法と描かれている出来事の異常さとのズレに、見るものの様々な反応を誘い出すことを得意とする監督だ。彼を有名にした『家族ゲーム』がまさにそれで、こうした手法はこの作品にはバッチリだったが、いつでもそれでうまくいくわけでもなく、『それから』とか『ウォホッホ探検隊』とかけっこう見ているが、私はどちらかと言えばあまり好きな監督ではない。

しかしこの『武士の家計簿』はまったく違和感なく見れた。彼の得意とする淡々とした描写が、『家族ゲーム』みたいに、猪山家の質素な生活を逆に浮き彫りにしてみせる効果があったし、もしこれがセカチュウみたいな「涙なしには見れない」的な作り方(最近こういうのが多いので辟易する)になっていたら、つまらない作ひんになっただろう。

最近原作を読んだばかりなので、よけい興味深かった。猪山家が足軽程度の低い身分から直接加賀藩当主のそばでお言葉をもらってそれを筆記するような重要な仕事を任されるような序列にまで立身出世する過程を描くことは難しいので、それがまったく無視されていたのも、脚本としてはよかった。主に描かれていた日常生活、とくに家産が没落しかねないほどの借金があることが分かって、直之が直々に指揮をとって、借金返済のために、家の中のめぼしいものを、オババ様を始め、両親のものも、自分たち夫婦のものも古道具屋や仕立物や家具屋に売り払う場面から入るという、私がつねづね言っている、映画はつかみが大事というのを、セオリーどおりにやっているところも好感が持てる。

作品を面白くしていた点はいくつかあるが、その一つを挙げると、これは原作になかったので、脚本家が考えたのか監督が思いついたのか、私は原作者の磯田が示唆したのではないかと思うのだが、直之の息子の成行が5歳(だと思うのだが)になってしばらくしてから、息子にそろばんや習字の手習いを始めさせ、さらにしばらくしてから、今度はその実践編として、家の支出(主に日常の野菜や魚や米など)を帳面につける役割を成行にさせたところだ。それを描くことで当時に日常生活の様子がけっこうリアルに描写されている。そして自分たちの今の身分はご先祖さまが少しづつ階段をのぼるようにして作り上げてきたものだ、今の自分達はご先祖さまあっての自分たちだということを分からせる。

磯田がBS歴史館で言っていた「元禄から昭和まではひとつづき」ということを森田芳光監督も念頭に置いて作っていたのだと思う。直之やその父が出勤する朝の送りの様子、直之と父が加賀藩の城に上がって、財務の仕事をしている職場の様子、帰ってきて仏壇に手を合わせる様子、家族で食事をする様子、そして成行の祝いに親戚一同が集まって食事をする様子などなど、羽織袴と刀という姿は違えども、昭和の社会となんら変わるところはないように描き出されていることからそれが分かる。

よい出来の映画だと思う。それに役者もよかった。主演の直之に堺雅人、妻役に仲間由紀恵、父役に中村雅俊、母役に松坂慶子など。

『恋するトマト』

2012年02月14日 | 映画
『恋するトマト』(大地康雄、2005年)

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NHKBSで『恋するトマト』を観た。テレビで渋い脇役を演じている大地康雄が企画・脚本・製作総指揮・主演と一人で作ったような(そんなわけないけど)映画作品だ。原作は小檜山博という人の『スコール』(集英社刊)ということらしい。

前半は土浦が舞台になって、農家の跡取り問題、フィリピン女性によるジャパゆきさんなどの問題が描かれているが、こうした問題はそれほど目新しい問題ではない。この映画の面白いところはやはり主人公の正男がフィリピン女性と結婚するために彼女の両親のところへ出かけて行ってからの話だろう。

実はその女性の両親(この女とぐるになっていた)のためにもっていった200万円を騙し取られ、日本に帰るに帰れなくなり、ホームレスになったところを、マニラで日本向にジャパゆきさんを送り込んだり、日本からきた買春目的の旅行者たちにフィリピン女性を斡旋する会社の社長に拾われ、そこで働くようになる。それから1年後にたまたま人を送っていった帰りに土浦によく似た農村地帯(ラグーナ)での稲刈り作業中の家族のなかに、マニラのレストランで見てちょっと気に入っていた女性(クリスティナ)と遭遇し、刈り取り作業を手伝い、それがすむと、フィリピンでは高価なトマト栽培を教えることになる。そして二人は恋仲になり、正男は意を決して、裏稼業をやめて、彼女を連れて日本に戻って農業をやりなおしたいと思うようになるのだが…。

トマト栽培のために堆肥作りから始めて、畝を作り、苗を育て、支柱を立てて…という日本の農家なら当たり前にやっていることが、フィリピンでは全く知られていないようで、驚きをもって迎えられる。彼らにしたら、まるで魔法でもかけたみたいに、立派なトマトができる。

私には、あらゆる労働が社会的に認められることがどんなに重要なことかということを、この映画は問うているように思える。社会的に認められるということは、なにも国家から認定を受けるとかそういうことではなくて、見ず知らずの女性が認めてくれて、嫁に来てくれるということも含めての意味だ。それは3kと呼ばれるような労働だってそうだろうし、社会の見方からは評価のたかい仕事であってもそうだろう。人から認められる、それが今の日本の欠けている。収入が高いかどうか、マスコミへの露出があるかどうか、そういうことだけが評価の基準になっている日本社会への強烈な批判がこの映画には込められている。

前半の画一的な描き方に批判もあるようだが、日本映画によくあるだらだらした映像ではなくて、テンポよくストーリーが展開していくので、あっという間に映画の中に引き込まれる。富田靖子やルビー・モレノの演技もうまいから、ストーリーを何も知らないで見ていた私は、最初は富田靖子とうまくいくのかな、次はルビー・モレノとうまくいくのかなと思い込んだくらいに自然な造りになっていた。まさかこんな展開になるとは。

原作の『スコール』はこちら





『サルトルとボーヴォワール』

2011年12月08日 | 映画
『サルトルとボーヴォワール 哲学と愛』

昨日、梅田スカイビルにある梅田ガーデンシネマに『サルトルとボーヴォワール』を見に行った。たまたまサービスデー(入場料が1000円)でほぼ満員。たいていは私くらいの世代の女性たちがたくさん来ていたが、なかには学生らしき人たちもいた。いまでもサルトルとかボーヴォワールなんて読む人がいるのだろうか?

私が学生の頃はサルトルとカミュといった実存主義人気の最後の時期で、例に漏れず私も Aujourd'hui maman est morte, ou peut-etre hier, je ne sais pas.を見て、これなら原文でも読めそうとカミュの『異邦人』を卒論で書いた口なのだ。とは言っても、ボーヴォワールは知り合いに『第二の性』のことを話している人がいたので、ちらっと見たことはあるが、まじめに読んだことはない。数年前に若桑みどりの本を読んでからちょっと興味をもったが、なかなかとっつきにくくて。その点ではサルトルだって同じことだけど。『存在と無』なんてとても読めない。『嘔吐』は読んだけど、面白くもなんともない。観念が先走った小説の典型みたいなものだ。

さて、映画の方は、時代の雰囲気というものを出すために必要なセッティングはできていた。というかそういうことは最近の映画では当たり前になっている。ただこの映画にとって最も重要な時代の雰囲気というのは、ボーヴォワールが必死になって抵抗した家父長的男性中心主義ではないだろうか。それをまず前面に押し出してボーヴォワールが戦う敵を画面に提示しておかないと、ボーヴォワールがあれほど必死になって何に抵抗しているのか観客に見えてこない。その点がこの映画の最大の欠点だと思う。しかも映画にとって最も重要な「つかみ」である冒頭の数分間にそれが見えてこない。ボーヴォワールが必死に抵抗している・闘っていることは分かるのだが、いったいなにに?下手をすると、たんに親に抵抗している反抗期の娘としか観客が見てくれないという、最悪の事態になりかねない。わずかに友人のローラが母親のいいなりにさせられて死んでしまうというエピソードを入れることでそれを提示しようとしているのかもしれないが、それはローラのことであって、シモーヌのことではない。

こういう実在した有名人を主人公にした映画の欠点は、有名なエピソードだけを並べてオシマイというところにあるのだが、この映画もそんな感じだった。カミュが出てきたり、ポール・ニザンが出てきたりしたが、べつにそっくりさん大会をしているわけではないので、特別な感慨はなかった。

『転々』

2011年07月24日 | 映画
『転々』(2007年)

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偶然、映画『転々』をJ-COMで見た。主演の三浦友和と同世代の人間として、悔しいけれど「いい役者になったな」と思う。妻となった山口百恵と共演した『伊豆の踊り子』あたりでは、ただの二枚目の役者にすぎなかったのに、この『転々』では、ときおりみせる表情がジャック・ニコルソンのようでもあり、また無邪気な渡辺徹のようでもあり、得体のしれない中年男を演じて、堂々とオダギリジョーと渡り合っていた。しかも肩から力の抜けた自然体として。

自然体といえば、オダギリジョーもそうで、まるで『時効警察』の雰囲気であった。これは共演のお馬鹿コンビの岩松了とふせえりが出ていただけではなく、また小泉今日子演じる麻紀子のスナックの名前が「スナック時効」であったばかりではない。というのは上さんがこの映画をちらっと見て、「あれ、これ『時効警察』?」と聞いたくらいに、雰囲気が同じなのだ。オダギリジョーは警察の制服を着ていなかったし、一緒に画面に写っていたのは三浦友和だけだったのに。やっぱり画面のもつ雰囲気ってあるんだね。そうそう、麻生久美子も警察の制服姿で友情出演していましたね。(後で調べて、監督の三木って人は『時効警察』の監督でもあったと分かった。)

それにしても東京の見せる顔つきも本当に面白い。二人は旅館のようなところで二泊するのだが、一泊目は飲み屋街の連れ込み宿のようなところだし、二泊目は外人旅行客が喜びそうな浴衣がでる旅館のようなところだし。広田レオナ扮する鏑木という女に出会ってしまい、彼女の絵を見に行っているあいだ、オダギリジョーが待っている公園は、ニョキニョキ林立する高層ビルのすぐそばにあって緑豊かな(というか紅葉がきれいな)林に囲まれていて、まるでニューヨークを舞台にした映画を見ているみたいかと思えば、鏑木の住んでいる文化住宅はまさに滅び行く日本固有の文化のように味わいがある(きっと製作者もこうした対比をわざと浮き彫りにしようとしているのだろう)。

しかし原作を読んでみないことには分からないが、福原が妻を殺したから自首するまで一緒に三日間を過ごしてくれという話のリアリティは別としても、映画では時折、福原のマンションのベッドに横たわる妻らしき女性が映しだされるだけで、福原の後悔の念とか慚愧の思いとか、あるいはついにやってやったという達成感とかがまったく表していないのはどういうことだろうか?まるで、妻を殺して自首するまでの三日間の猶予とか借金取りがこの福原だったという設定は、知らない者どうしが東京の街を三日間転々とする(というよりもまるで散歩しているようにしか、あるいは思い出の場所を訪ねあるいているようにしか見えない)ための口実にすぎないように見える。ただ映画ではその散歩が成功しているから、だれもそういうことを問題にしないだけのように思える。



『タイフーン』

2011年01月28日 | 映画
『タイフーン』(韓国映画、2006年)

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ケーブルテレビでやっていた。チャン・ドンゴンという俳優は、なんかのCMに出ていたが、どうも好きになれない俳優だったけれど、この映画での渾身の演技を見て、考えを変えた。あんなしょうもないCMに出て、イメージを悪くしたのは、かわいそうだなと思う。こんなすごい役者なのに。

話は、脱北者家族の一人であったチャン・ドンゴン演じるシン(チェ・ミョンシン)が、脱北したときに、韓国が彼らの受け入れを拒否したために、中国によって北朝鮮に連れ戻され、一緒に脱北した一族全員が殺され、シンと姉だけが命からがら逃げたが、もちろん逃げ延びた中国でも子どもだった二人は想像を絶するような辛い日々を耐えてきたことから、亡命を拒否した韓国にたいする恨みを募らせたシンが、海賊として手に入れたアメリカの衛生誘導装置とひきかえに、核汚染廃棄物を手に入れ、台風の暴風域でこれをばらまいて、韓国民を恐怖に落とし入れようとするのを察知した、特殊訓練を受けた海軍大尉カン・セジョンがこれを阻止しようとするという話。

いわば南北分断の悲劇を描いた映画ということになるのだが、金日成を暗殺するために韓国政府によって秘密裏に組織された暗殺団が、韓国政府の北朝鮮政策の変更によって、これまた秘密裏に消されるという、いわば韓国政府の政策変更によって起きる悲劇を描いた映画『シルミド』と同じ系列ということだ。

シンを捕まえるために姉がおとりにされて二人は再会するのだが、そこで回想として描かれる脱北失敗と生き延びた二人の過酷な日々のすごさがチャン・ドンゴン演じるシンがこれほどの悪人になったいわれを示すものとして提示されていて、まったく説得力があるものになっている。そういうものを生き延びてきた人間の屈折した雰囲気をチャン・ドンゴンがじつに見事に演じている。

とても日本人俳優には演じられないよな、と思いつつ見ていた。


『パリ20区僕たちのクラス』

2010年07月02日 | 映画
『パリ20区僕たちのクラス』(ローラン・カンテ監督、2008年)

以前読んだ『教室へ』という小説の映画化されたもの。2008年のカンヌ映画祭でパルムドール(最高賞)を受賞した。審査委員長のショーン・ペンがいたく感動した作品でも有名。

なにが興味深いかというと、パリ20区という移民の坩堝のような地区の中学校4年3組(フランスでは中学校が4年間で6年生から上に3年生まである。日本で言えば中学2年生といったところか)の担任で国語教師であるフランソワ(原作小説の作者でもある)と24人の生徒たちの日常の授業風景を「ありのまま」に描いたところ。

もちろん「ありのまま」ということはあり得ない。そもそも生徒役たちもまったく演技経験がない素人たちだとはいえ、1年にわたるワークショップで自然な演技を身につけた結果だし、描かれる授業や生徒たちの言動も決して作り物とは思えないし、最後に一つの方向性に観客を導くものではないけれども、自然発生的に生徒同士の喧嘩が起きたり、フランソワへの反発が起きているわけではないからだ。

にもかかわらず、周到に用意されたドラマではなくて、実際の授業風景をそのまま写し取ってきたように見えた、「ありのまま」の授業風景を映画にしたように見えたところが、ショーン・ペンをいたく感動させたのだろう。

それはそれとして、この映画を観ると、フランスの中学での教育がじつにあやうい状態にあるのが分る。教師たちはもう授業が終わるたびに怒りまくっているし、できれば、こんな中学ではなくて他の「もっと生徒の質のいい」学校に行きたいと思っているし、生徒たちはもう一触即発という雰囲気だし、まともに授業が成り立っているようには思えない。

ただそれがどんな理由で生じていることなのかは一口では言えないし、見た人によっていろいろ意見が分かれるだろう。私は、小説を読んだときも感じたように、学校というもの教師というものの強圧的で生徒たちを馬鹿にしたような態度に問題があるように思える。もちろんこれは個々の教師の問題ではなく、彼らにそのような態度を取らせている教育システムの問題、教育というものに対するフランス人の考え方(一般に子どもは矯正の対象だと信じられている―ルソーの『エミール』が根強い支持を得ているだろうに、この点ではフランス人の意識はあまり変わっていないように思う)が背景にあるからだ。

そして生徒たちの問題。たぶんその家庭環境からして勉強をすることにあまり意味を見出せない。もう中学くらいの年令で知性の働きがとまってしまったかのような、思考の柔軟性と対極の固くなってしまった思考を思わせる一部の生徒たちに教えることの困難。家で多少でも本を読むような環境にあれば、普通にできるような理解力がまったくない。その一番いい例は、途中で転向してきた(前の中学を放校になった)生徒が自己紹介をするというフランソワのクラスでの課題に「僕は○○が好きです」しか言えないという幼稚さ。

いろんな会議に父母代表とか生徒代表というのが出席するというのもフランス的システムとして面白い。生徒代表として出席していながら始終おしゃべりをしたり笑ったりしていたエスメラルダともう一人の女子が、授業中に、その会議で議題となっていた問題児のことを「もう成長の可能性はない」とフランソワが「侮辱した」と言ったことからクラス中が蜂の巣をつついたようになり、フランソワがその子たちに会議中の態度が「娼婦(ペタス)」みたいだったと言い返し、さらにそれに触発されて当の問題児が切れて、フランソワになにか侮辱的なことを言って教室を飛び出した。

女性生徒に「娼婦みたい」と言ったりしたら、これはもう日本ではただではすまないだろうが、たしかに同僚たちから本当に言ったのと聞かれたはしても、それを知った校長がとくに何もしない(問題児の処分を決める会議で後からこんなことがあったと言われてはまずいから予め報告書に書いておくように言っただけ)というのも、日本人から見ると理解できない。

数回の授業風景では不十分かもしれないが、たしかに教師フランソワが何とかして生徒たちのモチベーションを引き出そうとしていることは分るが、生徒の普通の発言(と私には思える)にたいしての彼の反応が考えられないほど挑発的だなと思うのは私だけなのだろうか?あれは当のフランソワも「挑発的」だとわかっているのだろうか?どうも私には彼はわかっていないように思うのだが。

『ドン・ジョヴァンニ』

2010年04月21日 | 映画
『ドン・ジョヴァンニ』(サウラ監督)

今週もテアトル梅田で映画を観た。今日は二つあるホールのうち広いほうだったので、座席の心配はいらなかった。というは、前回のことに懲りて、30分も前に着いたから、余裕で後ろのほうの席が取れた。

モーツァルトのオペラ『ドン・ジョヴァンニ』製作にまつわる作詩家のダ・ポンテを主人公にした映画で、イタリア語での作品で、モーツァルトとダ・ポンテはイタリア語、モーツァルトと妻のコンスタンツェはドイツ語という、申し分のない使い分けがされていた。フランス人を主人公にした映画なのに英語なんてというのは悲しすぎる。

昨年夏に『ドン・ジョヴァンニ』をカレッジ・オペラハウスで観る前に、アンソニー・ルーデル『モーツァルトのドン・ジョヴァンニ』というのを読んでいったのだが、それと同じようにダ・ポンテとモーツァルトの共同作業としてのオペラ製作ということが主題になっている。やはりオペラというものはこれまで作曲家だけに関心が向けられていたが、作詞家との共同作業であるわけで、もっと作詞家のモチベーションとかものの考え方などにも注意が向けられるべきだろうと思っているので、そういう方向に進みつつあるのかなと興味深い。

ただ、この映画ではダ・ポンテが師匠であるカサノヴァからドン・ジョヴァンニという主題を提案されたということになっているが、それはそれでいいとして、もう一つなぜドン・ジョヴァンニだったのか、またそれまでたくさん書かれてきた同類の作品とどう違うのかというところを丁寧に描いてくれるとよかったのだがと思うのは、ないものねだりだろうか。

それにしてもイタリア人というのは、聖と淫のぎりぎりのところで生きているという感じがする。あと一言で、あと指の一触れで淫に落ちてしまうというところで踏みとどまって聖に踏みとどまるか、そのままあと一言を言ってしまって落ちるところまで落ちるか。そういう綱渡りみたいな生き方に喜びを感じているようにも見えないのだけど、たぶん喜びを感じているのだろうな。日本人とか韓国人というような儒教的精神の強いところでは信じられないような生き方に見える。そういう綱渡り的な人間関係を当然だわなと思わせるほど男も女もきれいなのだから、仕方ないのかもしれない。

映画としては感動ものということではなかったが、面白いものを観たというところだろうか。