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読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

『文系と理系はなぜ別れたのか』

2019年03月01日 | 評論
隠岐さや香『文系と理系はなぜ別れたのか』(星海社新書、2018年)

フランスの科学史を専門に研究している人の学問論みたいなものである。古くは中世における大学の成立から解きはじめて、現代における文理融合とか学際的研究などの話にまで進んでいる。

この本の内容とはまったく無関係な話だが、私は小学生の頃から理科が好きだった。これは黒田くんという知り合いの影響なのだが、といってももともと理科が好きだったから、担任の教師が私と黒田くんを「理科リーダーズ養成プログラム」みたいな集まりに参加させたことで彼と仲良くなり、彼の影響を受けたのだろう。

私のほうはあまり本を読まない子どもであったので、せいぜい「偉い人シリーズ」のニュートンなんかを読む程度だったのだが、彼は両親とも教師の息子で、鍵っ子だから、好きなように本を買ってもらっていたみたいで、沢山の本を読んでいた。(ちなみに、土曜日の昼ごはん時によしもと新喜劇を見るという、私にとって衝撃的な文化を教えてくれたのも彼である。)残念ながら、彼は20才台に病気で早逝した。

彼の影響で天文に関することが好きになり、そういった関係の科学読み物のようなものを乱読するようになった。中学校では成績もよく(まぁ田舎の中学校だが、全県で行われる実力テストでも上位5位に入っていたのだから、まぁ自慢してもいいだろう)、将来は天文学を研究したいと思い、当然のことながら、高校で3年に上がる時に理系を選択した。

しかし理系の科目の成績がまったくふるわず、学年の途中で担任に文系に変更することを伝えた。それで大学は文学部に入ったのだが、基本的に理系が好きなのだ。

それで思うのだが、文系と理系という区分けにどれほどの意義があるのだろうかと疑問に思う。扱う概念のありようが違う、それと数学で定式化できない(近代経済学のように数式化可能な分野もあるようだが)などの相違があるにせよ、基本的なものはどちらでも変わらない。

研究にしても、よくテレビでやっているような、自然科学の研究者たちが研究ラボで地道に試験管にいろんな試薬を入れ替えとっかえして無数のケースを実験している姿は、人文系の研究者が自分の仮説の有効性を引き出すために、いろんな文献を読んでいくのと似ている。

『人口減少の社会の未来学』

2019年01月16日 | 評論
内田樹編『人口減少の社会の未来学』(文藝春秋、2018年)

編集者の良し悪しが本の出来具合を左右するという好例のような本であった。

内田樹の序論は本人も書いているとおり、出版社からこの本の企画を提案されて書いたもので、それがそのまま今回の本の執筆者に送られたという。もちろん内田樹は編集者ではないが、そのような役割を担っている。

誰に依頼するのか、どの程度まで執筆者の執筆内容を方向づけるかということは、それぞれの執筆者が書いてきた文章のレベル以前の問題で、編集者なら必ず検討して実行しなければならないものだろう。

だがこの本の好き勝手さには呆れる。池田清彦の「ホモ・サピエンス史から考える…」から隈研吾の「武士よさらば」まで、とても「人口減少の社会の未来学」というタイトルの下に置けるようなものとは思えない。

それぞれの執筆者がこれだけ好き勝手なことを書いているということは編集者が何も手を打たなかったからだろう。内田樹の文章は素晴らしい(彼の序論はいつもの内田風論理が全開)けど、彼には編集者としての資質はないようだ。あるいは編集者として何もしなかったか(たぶん何もしなかったのだろう)。

内田樹は、古武道家の甲野善紀との対談もそうだったが(こちらを参照)、他人と組んで作った本はまったく面白くない。一人で好き勝手なことを書いたものが一番興味深い。

この本で私が興味深く読んだのは、日本社会は「根拠のない楽観」だけにすがりついて、冷静にあらゆる可能性を考え、それぞれの可能性における対策を検討するというクールな態度ができない日本人を嘆いている内田樹の「序論」が一つ。

第二に、イギリスの現状を報告し、緊縮策の危険性(というか実効性の薄弱さ)を訴え、1930年代のアメリカの「ニューディール政策」が現代にも必要だとするブレイディみかこの「縮小社会は楽しくなんかない」。

第三に「若い女性に好まれない自治体は滅びる」で岡山県奈義町の子育て支援を例に挙げて、社会全体が子育て支援をするような仕組みと認知を作っていくこと、底辺層を社会に取り込んでいく様々な運動の大切さ―それが結局は社会の活気と活力を取り戻すことに繋がると主張する平田オリザ。

藻谷浩介の「日本の人口減少の実相と…」は、『里山資本主義』を読んでその斬新な切り口に関心したことがあったので、一番期待していたのだが、統計が表す事実から日本人の誤解を切り捨てようとする姿勢はいいものの、やたらと数字が多くて、辟易した。数字が事実に基づいているのなら、もっと特徴的な(例えば東京都と北海道と沖縄)くらいを比較するような手法でもよかったのではないかと思う。

しかし全体としては、「人口減少の社会の未来学」というタイトルにひかれて読んでみた人をがっかりさせる内容であることには変わりない。


『大阪弁ブンガク論』

2019年01月09日 | 評論
江弘毅『大阪弁ブンガク論』(ミシマ社、2018年)

こんなものがあるというのをどこで知ったのだっけ。たぶん新聞の書評欄だと思うのだけど、思い出せない。いずれにしても、ずいぶん待たされて、やっと私の手元に届いた。

大阪弁で書かれた小説についての批評であるが、それ以上に大阪文化論のようなものでもある。

大阪に住んで40年を超えるというのに、いまだに碌な大阪弁を喋れない私には、大阪弁を論じること自体が、なんか嫌なことであるのだが、私が論じるわけではないので、スラスラと読んだが、あちこちで気持ちが突っかかるのが感じられる。まぁそれをいちいち挙げてみてもつまらないので、簡単な感想だけ書いてみる。

この本で取り上げられている大阪弁ブンガクの一つが谷崎潤一郎の『細雪』だ。谷崎潤一郎はたしか芦屋あたりに住んでいたと思う。しかしウィキペディアで調べたら、案の定、生まれは東京で、関東大震災後に関西に転居して、居着いた人だ。だから生粋の関西弁は難しいだろうなと思う。しかし谷崎潤一郎の偉いところは、それを自覚して、関西の商人たちを描いた『細雪』をはじめとする小説では高木治江さんという女性に監修をやってもらったというからすごい。

私は山陰の田舎で生まれて高校までそこで過ごした。中学までは山間部で過ごし、高校から都市部に出て暮らした。だから、同じ山陰、同じ鳥取県西部と言っても、山間部と都市部で微妙に方言が違うのを感じた。

私が大学に入って大阪に出て来るときに、大阪弁を勉強しようと思って、谷崎潤一郎の『細雪』を読んだと書いたら、笑われるだろう。いったいいつの時代の大阪弁やねん、それに世界がぜんぜん違うやん、と。

だから、きっと大学に入って、クラスの連中と喋りだした頃は、へんな言葉使う奴やなと思われていただろう。

さて、この本で扱われている小説でもうひとつ私が読んだものは和田竜の『村上海賊の娘』である。これはこのブログでも書いた。私はそこで泉州の海賊たちとその泉州弁が異彩を放っていると驚嘆している。そして

「私は泉州に住んでいるけど、生まれも育ちも泉州ではないから、彼らの泉州弁には惚れ惚れする。それにしてもこの作者は生まれも育ちも泉州とは関係ないようなんだが、いったどこでこれほどの泉州弁を身につけたんだろう。」

と書いているが、これまたウィキペディアを調べると、和田竜は生まれこそ大阪だが、生後3ヶ月で広島に引っ越したとあり、泉州とは関係ないのだが、やはりこの本によれば、林英世という人に監修をしてもらったものだというから、なるほどとうなずく。

その他、山崎豊子の船場ものがブルディユーだとか内田樹なんかを引き合いに出して論じてあったりするのも興味深く読めた。

ここでは取り上げられていないけど、田辺聖子『ジョゼと虎と魚たち』も大阪弁が主人公の造形に大きな意味を持っている作品だと思う。こちら

『海翔ける白鳥・ヤマトタケルの景行朝』

2018年12月01日 | 評論
小林惠子『海翔ける白鳥・ヤマトタケルの景行朝』(現代思潮新社、2011年)

小林惠子の日本古代史シリーズ第二巻である。今回は四世紀が取り上げられている。崇神、垂仁、景行、成務、仲哀、応神がこの時期の天皇になる。

しかし記述されているのは、ほとんど中国の記述担っている。というのは、中国の史書でこの時期の日本(倭国)のことを記述しているものがほとんどないために、日本の支配者がどんなふうになっていたのかを知るためには、中国から半島にかけての状況を中国の史書を使って知るしかないというように説明されている。

そして上に挙げた天皇たちはみんな、半島の百済の支配者であることがほとんどで、中国の支配者たちの戦いの影響を受けて、戦争に負けて、列島にやってきて、列島の支配者になったり、そこで生まれ育ったが、中国や半島からの呼びかけに応じて、半島に出ていってそこのどれかの国の王になったりしている。

具体的に見ていこう。神武は高句麗の東川王と同一人物だし、懿徳は高句麗の西川王だ。通常欠史八代と呼ばれている時期の天皇は、すべて高句麗の劉氏系列の支配者である。天之日矛は日本にやってきた美川王で、彼は北九州を制圧したあと、大和に来て、崇神となる。

ここで劉氏系列の支配者は、半島で力を持つようになった慕容氏の系列に列島を奪われる。垂仁は慕容仁のことで、慕容儁ことヤマトタケルが景行天皇であるという。この慕容氏系列は成務、仲哀で終わり、その後神功皇后の時代になる。

武内宿禰とは百済の近仇首王のことで、この時期は西南部を神功と武内宿禰が、近畿地方は仲哀の息子の忍熊が支配していたという。応神も百済の王である。

登場人物がとても多いので、誰が誰やらわけが分からないのが本音だが、中国に史書からここまで読み取った著者の力に感服する。

『ヘンデルが駆け抜けた時代』

2018年10月28日 | 評論
三ヶ尻正『ヘンデルが駆け抜けた時代』(春秋社、2018年)

ヘンデルの音楽が政治と密接に関係している「機会音楽」であったことを提示した著作である。

この著者によれば、ヘンデルの時代には、政治がらみで書かれなかったような音楽、とくに歌詞のついた音楽、オペラ、オラトリオなどはないことになる。

ヘンデルがこうした音楽を取り組んだ最初は、スペイン継承戦争に揺れるイタリアで、フランス支持派とオーストリア支持派に揺れる政局において、親仏派の詩篇歌やオラトリオも、親墺派のオペラも作曲することであった。

その後、そうした技量を見込まれて、そしてもちろんヘンデル自身がその理念に共鳴したこともあって、イギリス国王になることが決まっていたハノーヴァー侯ゲオルクの私的なエージェントととしてイギリスに入り、音楽活動をした。

もちろん相手陣営にも入り込んで情報収集するには、フリーの立場にあると思わせなければならない。したがって、初めてイギリスに来たときにも、ゲオルクの宮廷楽長なのに勝手に休暇を取って来たとか、休暇が終わってもイギリスに滞在し続け、クビになったように見せかけている。

そしてカトリックの旧王朝系の国王を望むジャコバイト派の作品も上演するし、必要な時期にはハノーヴァー王朝のための作品も書いた。

このことを書いた本は、山田由美子の『原初バブルと《メサイア》伝説』(2009年)以来、二冊目だが、前者は研究書として、徹底して文献資料を明記して、主張の根拠を提示しているが、こちらは軽い読み物の形式であることもあり、はっきり言って、独断と偏見で書いているようにしか見えない。しかもほとんど山田由美子の本と主題が重なっているにもかかわらず、一切この本に言及しないというのは、どういうことだろうか?先行研究ををこれほど無視した本も珍しい。

自分が世界で初めてこんな主張をしたのだ、ここにこそ自分のオリジナリティーがある、と読者に思わせたいという欲求は研究者であれば、だれでも持っている。しかし先行研究があると分かっているのなら、それに目を通して、それと自分の研究の違いはどこにあるのか明記すべきだろう(それで自分のオリジナリティーが薄まるとしても)し、もし知らなかったのなら、研究者としてどうなんだろうかと疑問に思う。

山田由美子の『原初バブルと《メサイア》伝説』についての私のブログはこちら




『歌うギリシャ神話』

2018年10月24日 | 評論
彌勒忠史『歌うギリシャ神話』(アルテスパブリッシング、2017年)

「オペラ・歌曲がもっと楽しくなる教養講座」という副題が付いているように、とくにオペラの題材になるギリシャ神話の神々について解説したもの。

ただしオペラと言っても、ほとんどはバロック・オペラのことで、しかもここで取り上げられているのはイタリア・オペラばかりなので、イタリア・オペラでギリシャ神話を題材にしていたのは1660年くらいまでのこと。

それ以降は、ローマ帝国の歴史的な実在の人物が題材となっている。とくにメタスタージオが登場してからは、ほとんどのオペラが歴史的実在人物で、ギリシャ神話は使われなくなる。

ということはモンテヴェルディの『ポッペアの戴冠』とか『ウリッセの帰還』のようなものは別として、ほとんど今日では上演されないものばかりということだ。せいぜい、イギリスで1700年あたりまでギリシャ神話を題材にしたイタリア語オペラを書いていたヘンデルがあるくらいだ。

他方、フランス・オペラは1670年くらいにリュリによってオペラが創始されてから、ラモーやグルックにいたるまでのおよそ100年間ギリシャ神話だけを題材にしていた。したがって、この本が、イタリア・オペラだけではなくて、フランス・オペラも取り上げていたら、それこそ「もっと楽しくなる」と思うのだが。

内容的には確かに「教養講座」と言ってもいいくらいに、ためになる内容であった。取り上げられていたのは、ジョーヴェ(英:ジュピター、仏:ジュピテル)、エウロパ(ヨーロッパ、ウロープ)、アモーレ(キューピッド、アムール)、ヴェーネレ(ヴィーナス、ヴェニュス)、ミネルヴァ、オルフェオ、プルトーネ(プルート、プリュトン)、ネットゥーノ(ネプチューン)、ディアナ(ダイアナ、ディアーヌ)メルクリオ(マーキュリー、メルキュール)などなど。

それにしても、この著者の彌勒忠史って人、1968年生まれでまだ50才と若い(この手のものを書く人にしては、という意味で)のに、書いているダジャレとか、たとえ話が、なんかすごく古くて70才くらいの人かと思いながら読んでいたので、意外だった。

それは差し引いてもオペラに関心がある人やこれから勉強しようという人には必須の内容なので、一度読んでみるといい。


『「平穏死」のすすめ』

2018年10月10日 | 評論
石飛幸三『「平穏死」のすすめ』(講談社、2010年)

後期高齢者、というか、副題にもあるように、「口から食べられなくなった」寝たきりの高齢者の医療のあり方、それは取りも直さず人間の最後の看取りのあり方を問題にした本である。

朝日新聞の土曜版に終末期医療に携わっている人たちのエッセイが掲載されているが、そのなかにこの人の名前を見たので、読んでみた。

もともとは消化器外科の専門医で、時代の先端を行くような医療をしてきた人のようだ。だから医療は患者ととともに闘うものという意識を持っていたという。だが、自分自身も老人になって、トップランナーとしての立場から引退して、終末期医療に関わるようになったことで、日本の終末期医療のさまざまな問題が見えてきたという話である。

ここでの話はガンなどのケースは含まれない。著者が勤務する特別養護老人ホームの話で、たいていは認知症になっているケースだという。認知症になると嚥下能力が落ちる。誤飲から肺炎になる。ホームでは医療行為ができない(!)ので、病院に送る。病院で肺炎が収まると、ホームに戻ってくる。これが何回か繰り返されると、口から食べられなくなっているので、病院では胃ろうとか経鼻胃管を勧められる。どちらにしても、寝たきりの老人に必要な以上の栄養や水分が無理やり(○○カロリーの栄養が必要だという思い込みが医療関係者にあるらしい)入れられて、パンパンに膨れ上がった状態で亡くなる。

認知症で自分の意思を口にできないので、こんなことになってしまうらしい。そしてこれを拒否すれば、医者も看護師も、あとから栄養不良にして死なせたと殺人罪を咎められるのではないかという恐怖感から逃れられないのだという。

こうした異常な終末期医療に対して、著者が対置しているのは、同じホームの入居者の家族から聞いたという三宅島でのあり方である。三宅島ではもともと医者がいなかったので、老人が口から食べられなくなったら、水を欲しがるだけ与えるだけにするという。そうすると、数日後(あるいは数カ月後)には、やせ細って、静かに亡くなるという。それは見ていても安らかな死だという。

著者がこの本で繰り返し強調していることは、口から食べられなくなって、人生の終末を迎えている老人を胃ろうや経鼻胃管で無理やり生かせることはやめて、穏やかな死を迎えられるようにしてあげようという、だれでも納得がいくことである。

ところがそれが現在の医療制度ではできないというのだから、まったく恐れ入る。第一に医者のいないところで人が死んだら、たいへんなことになる。警察が入ってくるからだ。だから、自宅やホームで死を迎えることは、在宅医療の連携がうまくできている場合にしか不可能だ。

病院に入れられたら、そうした穏やかな死を迎えることは老衰の場合にはできないことは上にも書いた。最近はガンの場合には終末期医療をやっている病院が増えてきた。その実態がどうなっているのか詳しくは知らない。どうしてただの老衰の場合にも同じようにできないのだろうか?

結局、医者も身内も、一分一秒でも長生きさせなければ罪悪感を抱くことにある。ここを変えるためにはこうした医者自身からの問題提起が必要だ。

医療行為によって治せるものと、人間の行き着く先としての老衰をきちんと区別できるのは医者しかいないのだから、医者自身がこうした問題提起によって、終末期医療のあり方を厚労省に提案するようにしなければ、ここで挙げてあるような悲惨な死に方はいつまでも続くだろう。


『高松塚への道』

2018年09月12日 | 評論
網干善教『高松塚への道』(草思社、2007年)

女子群像などの壁画で有名な高松塚古墳の発掘調査をこの人が行ったのが1972年。私が大学に入ったのが1974年。

高松塚古墳の発掘で史学のこの分野(考古学?)がたいへんな人気分野になったという。たしかにあの頃史学科はすごく狭き門と言われていたような気がする。

その後もマルコ山古墳やキトラ古墳の壁画などを発掘調査した関西大学教授の網干善教がその生涯を口述したものをまとめて出版した本で、あたかも本人が講演会のよう場で語っているのをそのまま本にしたかのように読みやすい。

まぁ私は古墳などにはまったく興味がなかった人間なので、「へぇ」と思ったくらいで、それでどうこうすることはなかったが、周りには高松塚古墳の発見がきっかけになって、史学科に入り、発掘調査(早い話が土掘り)に日々を送っている知り合いもいた。

高松塚古墳発掘の話を読んでいると当時の雰囲気が伝わってきて、興味深い。


『ギリギリ合格への論文マニュアル』

2018年09月06日 | 評論
山内志朗『ギリギリ合格への論文マニュアル』(平凡社新書、2001年)

優れた論文でなくてよい、論文としてきちんとした体裁の整った論文を書いて、ギリギリ合格すればいいという趣旨で書かれた論文指南書である。

この人も参考文献の冒頭に書いているが、この本を書くために論文マニュアルを30冊くらい集めて読んだという。もっとあったが途中で買い揃えるのをやめたという。金の無駄遣いだと思ったのだろうか。

この人もこのような論文マニュアルをまったく読まずに論文を書いてきたと記しているが、私も同じである。論文を書くことが必要とされる仕事についているのに、どっかで書き方を習ったという記憶もまったくない。

職業に関係なくても、文学部を卒業するには卒論を書かねばならない。これはそのための指南書ということになっている。

よく知られているが、フランスのバカロレアにはどのセクションに進む場合でも必ず哲学の試験があって、これがかなり高度な抽象的認識を用いた論文執筆の科目になっている。5時間程度の時間が配分されている。

「知覚を訓練することは可能か」とか「芸術は現実認識を変えるか」というような、私でさえも、何を書いていいのか分からないような論題を論じなければならない。

もちろんここで肝要なのは論述が一定の形式に則っていなければならないということである。

ここで私がこのバカロレアの哲学試験のことに触れたのは、これは基本的に両者とも共通するものだと思うが、オリジナリティーなんてものはどうでもいい、肝心なのは論文の形式にもとづいて書くことだと考えるからである。

フランスでは、抽象的認識は15歳から17歳くらいになって初めて可能になるという人間の認識の発展のありようにもとづいた知見から、高校の最終学年になって教えることになっている。つまり哲学的思考の基礎はもちろんのこと、哲学論文の書き方を習得するために徹底的に訓練する。

論文を書くということは、主題の選定から始まって、論文の前提条件として問題設定(つまりこの主題について先人たちがどんなことを言っており、そうした議論の中に自分が設定した議論がどう位置づけられるのかを明らかにする)が、必要になる。というか、これがかなり大きな位置づけを占める。そのために、先人たちが書いてきたものを収集して読まなければならない。

さらに主題に決めた問題の一次資料を読みこなさねばならない、などなど。(まぁこっから後はこの本を読んでもらうとして…)

この論文マニュアルの著者は形式が内容を決めるというくらいに論文の形式(書式などを含めて)を遵守するようにと指導しているが、これは本当にそのとおりだと思う。

上のようにフランスでは学校教育で位置づけてしっかり教えるのに、日本の学校教育では何もない。どこでも教えてくれないし、だれも教えてくれない。いったいどうなっているのだろう。日本の学校教育って、労働基準法を教えないから、アルバイトしている学生はたくさんいるのに、労働者としての権利をなにも知らずに、違法状態が横行しているのと、まったく同じ。

一つの書式に従って決められた体裁で論文を書く、自分の労働者としての権利をしっかり認識した上で働く、こういう基本的なことがまったく教育できない日本って、本当に、この国に未来はないな。


『北杜夫 マンボウ文学読本』

2018年08月31日 | 評論
『北杜夫 マンボウ文学読本』(宝島社、2016年)

作家として、父親として、昆虫好きとして、医師として、躁うつ病、マンボウ・マブゼ共和国などなど、多面的な北杜夫の人生を紹介するというような本である。

暇なので冷房の効いた図書館をウロウロしていたら、こんなのを見つけた。出版年が2016年、いまだに人気があるのだろうか。

高校時代から大学1年生にかけて、作家を目指し、自作の小説を北杜夫に送って、ちょっとした感想と励ましの手紙をもらった私的には、たくさんの写真が載っているのが、ありがたい。

私が高校生の時に同好の友人たちと弊衣破帽風を撮る時に参考にした北杜夫の松本高校時代の写真―帽子をかぶり、肩にマントをかけた姿―も載っている。

私が自作小説を送ったのが昭和49年だから、北杜夫47歳の時、つまり油の乗っていた時期だったんだなと年譜を見ながら感慨にふける。

年譜を見ると、すでに東北大学の学生時代から頻繁に小説を懸賞などに応募したり、同人誌に参加して切磋琢磨していたことが分かる。本気で作家になるつもりなら、そこまでしなければならないのだろうが、私にはそんな根性はなかったようだ。

『幽霊』『夜と霧の隅で』『楡家の人びと』『白きたおやかな峰』『どくとるマンボウ青春記』などを持っていた(たぶん初版だったと思う)のに、どこへやったのだろうか。もったいないことをした。

じつは今年の夏には松本の松本高校記念館に行くつもりだったのに、ちょうどその日に台風が来て、キャンセルせざるをえなかった。松本へは何度も行っているのだが、そんなものがあるなんて知らなかったので、一度も行っていない。ぜひ行ってみたい。

この本はそういうわけでいろいろ楽しい本であったが、略年譜の冒頭の生まれた年が1972年(1927年が正しい)になっているとか、22歳のところの説明が「4月、2年生となり、松高に後輩が入学してくる。将棋、卓球、野球、ダンスなどに熱中する。」という部分は、19歳の松高時代の話である。私が気づいたミスはこの二箇所だが、大事なところなのでちょっと残念。