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読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

『暁の宇品』

2022年01月08日 | 評論
堀川惠子『暁の宇品』(講談社、2021年9

副題に「陸軍船舶司令官たちのヒロシマ」とある。文字通り陸軍が国外、つまり海の向こうの外国に侵略するために軍隊を送り込むためには、20世紀の前半には船舶輸送に頼るしかなかったことから、陸軍に船舶輸送全般を差配する司令部があったことを示している。

この本でも書いてあるが、船舶なのだから海軍が担当すればいいのではないかという疑問が誰しも浮かぶが、海軍と陸軍の来歴が藩閥政治によって薩摩と長州に分裂していたことから、そのような発想はなかったという。

それにそのそも最初の国外といっても朝鮮半島や中国であり、それほどの距離がなかったので、船舶輸送もそんな難しいことではなかったが、東南アジア全域を対象とした太平洋戦争では、船舶輸送の役割が重要であった。

その司令部が広島の宇品にあったことから、そこを拠点にした司令部の活動を詳細に紹介したのがこの本である。

ガダルカナル、ノモンハン、ミッドウェー、硫黄島、日本の軍隊の愚かしさをこれでもかというほど示した戦場は多くあって、それぞれに戦記、回想記、小説、論文、映画などで描かれてきた。それらにまた船舶輸送の分野が追加された、というのが読後の感想である。

資料の関係から、前半は昭和15年まで司令部のトップにいた田尻昌次、後半は篠原優という軍人を軸に描かれているが、この二人、とくに田尻は優れた軍人であったことを示すエピソードがいくつもあるが、もしそういう人の意見が軍隊内部で通っていたら、どうなっただろうか、という問いそのものが、ことは軍隊なので、虚しいというほかない。

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『著作権ハンドブック』

2021年11月15日 | 評論
宮武・大塚『著作権ハンドブック』(東京書籍、2021年)

学校教育においていろんな著作物をコピーして生徒や学生に配布したり、ウェブ教材に利用したりすることが多くなっている。とくに昨年からのコロナ禍で、遠隔授業が行なわれたりするようになって、そういう機会が多くなっているが、学校教育関係での著作権の関係はどうなっているのかをわかりやすく解説した本である。

著作権は、コピーなどの行為によって、著作権のあるものが売れなくなったり、内容が改ざんされたりすることを防ぐことを目的としている部分があるので、コピーをして生徒に配布したことによって、本来は人数分購入しなければならないものが、一部で済んだなんてことを考えれば、割とわかりやすい。

パソコン・ソフト関係でも、以前はマイクロソフト・オフィスというような、よく使われるソフトを使いまわしすることがあったが、最近では認証手続きによって、そういうことができなくなっている。しかし普通の書籍の場合には、そういう認証ができないので、いくらでもコピーができてしまうから、使用する側は気をつけなければならない。

2019年にSARTRASという団体ができて、教育現場では、一括で使用料金を支払うことで、いちいち申し込みをしなくても、一部をオンライン授業などに利用できるようになった。

知らないうちに著作権違反をしていたなんてことにならないために一度は読んでおくとか、手元に置いておくのがいいだろう。

『著作権ハンドブック :先生、勝手にコピーしちゃダメ』へはこちらをクリック


『ワーグナー』

2021年11月12日 | 評論
吉田真『ワーグナー』(音楽之友社、2005年9

ワーグナーの生涯をコンパクトにまとめた本で、ざっくりと理解できた。

この本を図書館でパラ見して借りることにしたのは、143頁に「ラインの娘たち」の遊泳場面を初演当時にどんなふうにしていたのかを描いたスケッチが載っていたからだ。

じつは琵琶湖ホールで『指輪』四部作を毎年一作ずつ見に行っていたとき、その事前学習の勉強会に参加したのだが、そこで、過去の上演で、「ラインの娘たち」の遊泳場面をどんなふうな演出にしていたのかということが、過去の映像付きで紹介されていて、面白かった。

初演ではコマのついた台車に鉄の棒が立てられ、その先に人を乗せる枠が出ているというもので、「ラインの娘たち」その上に腹ばいや仰向けになって歌うという「拷問」のようなものだったらしい。

その他、勉強会で初回されていたのは、舞台上に水槽を置いて、その中で泳がせたとかというのもあった。

私が見た2017年頃の上演ではシルクスクリーンを使って、泳いでいる映像をリアルに見せるというものだった。

ワーグナーが活躍したのは、ドイツが国家統一を成し遂げる時代であったわけで、あのようなドイツ民族の起源にさかのぼって、自分たちの民族的アイデンティティーを示すような芸術が必要とされていたのだろうなということがわかる。

『ニーベルングの指輪』四部作の感想は
『ラインの黄金』
『ワルキューレ』
『ジークフリート』
第四部の『神々の黄昏』はコロナで見れなかった。

リングしか見たことがないので、他のオペラも見てみたい。
『ワーグナー (作曲家・人と作品シリーズ)』へはこちらをクリック














『日本フォーク私的大全』

2021年11月04日 | 評論
なぎら健壱『日本フォーク私的大全』(ちくま文庫、1995年)

高石ともや、岡林信康、五つの赤い風船、高田渡、遠藤賢司、加川良、三上寛、斉藤哲夫、吉田拓郎、武蔵野タンポポ団、RCサクセション、泉谷しげる、もんたよしのり、友川かずき、井上陽水、なぎら健壱、この本で取り上げられている歌手・グループで聞いたことがあるのは、半分くらいだろうか。みんな懐かしいな。




高石ともや。かみさんと結婚してから一度堺市であったナターシャ・セブンのコンサートを聞きに行ったことがある。とにかく穏やかな感じの話し方、土着の庶民文化を現代に残そうとする音楽作りをする歌手だと思った。そのとおりのことがこの本にも書いてある。そんなふうに丸くなる前にの高石ともやはそうではなかったらしいが。しかし、今でも時々聞く「受験生ブルース」とか「赤いヤッケ…」なんかを聴いているかぎりでは、そんなとんがったプロテスト・ソングを歌うような人には思えない。

吉田拓郎。私が高校生の頃に「結婚しようよ」が流行って、あのさらりとした長髪、あまいマスクに憧れた。フォークジャンボリーでの伝説的な「人間なんて」とかは後から知ったことだが、これを読んでも、あの時代の熱気というは、もう別のところに向けられた感がある。




泉谷しげる。小学校・中学校と仲の良かった黒田くんが、大学生のときにやった小学校の同窓会で披露したのが、「春夏秋冬」となぎら健壱の「悲惨な戦い」だった。それを聴いて衝撃を受けたのだが、それは歌そのものにではなくて、あの黒田くんがこんなに上手にギターを弾きながら歌を歌えるとは、という衝撃だった。もちろんその後の黒田くんが同級生たちにモテモテだったのは言うまでもない。



もんたよしのり。私が大学院生の頃に吹田の出口町の寮みたいなところに住んでいたが、風呂がないので、近くの銭湯に通っていた。そこでいろんな流行歌を聞いたが、エンドレスのように流れていたのが、もんたよしのりのヒット曲。

井上陽水。今でもよく聴いているのが「氷の世界」などの初期のヒット曲。独特の歌詞、独特の音楽。独特の風貌。何度聴いても飽きない。







なぎら健壱。焼酎のコマーシャルでその風貌を知ったのだが、喋らせると止まらない人間関係の広さ、頭の中できちんと見取り図が出来ているフォークの世界の面白さ。今ではユーチューブなんかでも見れるので敷居が低くなったが、テレビでは見ることができない世界があるような気がする。

『日本フォーク私的大全 』(ちくま文庫)へはこちらをクリック



『「唱歌」という奇跡 十二の物語』

2021年10月31日 | 評論
安田寛『「唱歌」という奇跡 十二の物語』(文春新書、2003年)

明治時代の初期に、日本の教育現場や小学校の唱歌として教科書に取り入れられた「むすんでひらいて」「蛍の光」「ちょうちょ」「さくらさくら」「君が代」など十二の唱歌を取り上げて、どのような経緯で定着していったのかを調べた本で、なかなか興味深い。

東アジアの音楽、とくに日本で唱歌と呼ばれているような、初級学校での音楽教育に関わる音楽の普及は、キリスト教の伝道の使命をもった人々がミッション・スクールなどを通して、普及させようとした賛美歌との関係が大きいという。当然のことながら、そこでは歌詞がキリスト教に関わる内容になり、神を崇めることを主旨とするものとなる。

しかし日本では天皇主義による富国強兵を目指していたことから、そういう内容と政策が真っ向から対立することになり、独自の歌詞を作ろうとする教育政策が行なわれることになる。

ことはたんに唱歌・お遊戯歌の話ではない。この本の「はじめに」でも書かれているように、ことの本質は、「十九世紀にイギリスやアメリカのキリスト教伝道によってアジア太平洋海域近代国家は等しく讃美歌の影響を受けることになったが、その影響を克服して唱歌のようなものを作り出せるか否かは、近代化成功の重要な条件の一つにかかっていた。それはミッションに教育権を奪われることなく、近代教育制度を自前で確立できるかどうかということであった」(p. 4)というのである。

その点で、東アジアにおいて、これに成功できたのは、著者によれば、日本だけであったという。この本では、なぜ日本では唱歌が誕生することができたのかを探ることを目的としているという。

現在の日本人が当たり前のように思っている近代西洋音楽は、けっして普遍的なものではないということは、千葉優子の『ドレミを選んだ日本人』という優れた研究で明らかにされている

同じことがこの本でも書かれており、例えば早くにアメリカに渡って牧師になるべく勉強して、帰国して同志社を設立した新島襄も、渡米した時にすでに成人していたこともあって、どうしても詩吟のようになってしまって、西洋音楽を歌うことができないままであったという。

その意味からも幼児教育の段階から、西洋音楽を導入すること、それに集団的運動(お遊戯)を組み込み、近代軍事行動ができる身体を作ること、さらにその歌詞に天皇中心の国家主義を持ち込むことで、皇国の赤子を作ることが、明治政府の目指したものであった。そしてそれに成功した。

なんでも昔からあったものが普遍的なものだと思ってはいけないということだ。



『デジタル・ファシズム』

2021年10月17日 | 評論
堤未果『デジタル・ファシズム』(NHK出版新書、2021年)

これまで読んできた堤未果さんの著作は二つともアメリカの危機的状況を明らかにして、日本も数年遅れで同じ状況になるぞと警告していた。

『アメリカから<自由>が消える』(扶桑社新書、2010年)

『ルポ貧困大国アメリカ』(岩波新書、2008年)

そして今度は、「デジタル改革」がもたらす格差拡大、貧困層の増大、監視社会の到来、まるで小説『1984』のような自由な息もできないような社会の到来を予言し、警鐘を鳴らす著作になっている。

もちろんアメリカのことに詳しい堤未果さんのことなので、デジタル社会のもたらすアメリカの弊害(とくに教育の「スマート化」がもたらしている教育レベルの低下、落ちこぼれの増大、子供の知的レベルの低下などなどの弊害)を描き出している。

しかし怖いのは、それが今度の日本でのデジタル庁の創設による本格的なデジタル化によって、日本も数年遅れでアメリカのようになるというだけでなく、アメリカ資本によって資産も主権ももっていかれてしまう重大な問題を提起していることにある。

ずっとオリンピックの人件費問題でずっと言われていた竹中平蔵のパソナがコロナ禍で前年比数十倍だか数百倍だかの増益を挙げているという記事を読んだことがあるが、日本のデジタル化にも竹中平蔵が最初からずっと関わっていることも記されている。

あまりの恐ろしい未来に、呆然となっている自分がいるのだが、とにかく今度の衆議院選挙は、自民・公明・維新の候補者を落とさねばならない。

『デジタル・ファシズム 日本の資産と主権が消える (NHK出版新書)』はこちらをクリック


『誤読のイタリア』

2021年08月02日 | 評論
ディエゴ・マルティーナ『誤読のイタリア』(光文社新書、2021年)

コロナ禍で巣ごもり状態の私は、今年になってイタリア語を始めた。40年くらい前に『…のイタリア語』というような本を3冊も買っていたのに、挫折した。その頃は、他にやりたいこと、やらなければならないことがあって、二兎を追うということができない私は、イタリア語のほうを断念したのだと思う。




基本はさほど変わっていないのだからと、その本を引っ張り出して、やり始めたら、面白い。とりあえずその40年前の『…のイタリア語』をざっとやり終えて、それは会話を重視した本だったので、文法を一からやり直すべしと思い、『しっかり学ぶイタリア語(文法と練習問題)』という本を最後までやった。




しかしこの本は動詞の時制が近過去くらいまでしか重視してないので、未来とか条件法とか接続法とかは省略しすぎだった。そこで、『イタリア語文法 これが知りたかったII』を買った。これはちょうど未来形から最後まで、しかもとても詳しく(しつこすぎるというくらい)解説してあるし、練習問題もたっぷりあるし、とてもいい本だった。

それらが済んだら、さらにそこに出てくる例文や練習問題の文を日本語にしてワードに入力し、その和文をイタリア語にする練習をした。これでだいぶ語彙力も増えるかと思ったが、「寄る年波には勝てない」というかなかなか単語が頭に入らない。

さらに音声はすべてGoogle翻訳に入れると、音声を聞けるので、これで聞きながら、リピートするという練習をしている。

毎日二時間くらいの朝の日課になった。本当なら会話クラスかなんかに入って、ネイティブと会話をしてみたいものだが、まぁ先の楽しみにしておこう。

というようなわけで、『誤読のイタリア』という本を読んでみた。まぁ、日本人が持っている紋切り型のイタリア人像は「誤読」だよという内容の本。面白かったところをピックアップすると、

1.イタリア人は世界中どこに行ってもイタリア料理しか食べないらしい。それで世界中にイタリア料理が広がったのかな。

2.お母さんは絶対的存在だけど、それはマザコンとは違う。これは韓国の男性にもあるような気がするな。日本人はそのへんがだいぶ薄れてきたようだ。

3.人間関係は距離感がゼロだという。そして女性を大事にしろと子どものころから言われてきたので、女性にやさしい。それは未婚のときならいいのだが、結婚してからは、妻にとっては辛いのではないだろうか?とくに日本人の女性だとあんな距離感ゼロは恋人同士ならいいけど、普通の男女関係で距離感ゼロを見せられると、浮気を疑うのは当然だろう。日本人女性はイタリア人と結婚しない方がいいのでは。

軽くて面白かった。

『日本再生のための「プランB」』

2021年06月10日 | 評論
兪炳匡(ゆうへいきょう)『日本再生のための「プランB」』(集英社新書、2021年)

日本の指導者は(ずっと戦前から)プランBを持つことができない人たちだと私は思う。今のスカスカ政権がそう。

プランBを持つということは、これこれの状態になったらプランAからプランBに変えるということを意味する。そのために必要なことは、もしプランA・プランBの策定ができた上で、現状を客観的に認識するために現状分析を正確に行わなければならない。これが日本の指導者たちはできない。

たとえば、こういう状況になったら「緊急事態宣言」を出す・終了する、こういう状況になったら東京オリンピックが開催可能だとみなすことができる・できないに必要なのは、コロナ感染や医療逼迫の状況だが、そもそも世界標準のコロナ感染検査であるPCR検査がまともに行なわれていないので、実際、どれくらいの人が日本でコロナ感染をしているのかまったくわからない。オリンピックを前にして検査数が極端に抑え込まれているから、現在テレビなどで示されている数字なんか現状をまったく反映してない。まさに大本営発表にすぎない。

したがって、日本の感染者のうち英国変異株がどれくらい、いま世界で脅威の対象になっているインド変異株が何%くらいということがまったくわからない。したがって、インド変異株がちょうどオリンピックの頃に日本中を席巻して恐ろしいことになりかねないという認識が日本の指導者たちにはない。

だから何もしないで、安心・安全という主観的願望を呪文のごとくに唱えているだけ。はてはワクチン頼み。

つまり真実を隠し、そして指導者たち自身も真実を見ないで、大本営発表で、国民を騙して、戦争を継続させ、東アジアの人々や対戦国の人々だけでなく、日本人も戦闘員・非戦闘員の区別なく多くの犠牲者を出した。これと同じことを東京オリンピックでやろうとしている。

コロナはいずれ終息するだろう。だが、プランBをもっていれば、コロナの直接的な犠牲者も、また緊急事態宣言を出したことで苦しめられた人々の犠牲も減らすことが可能だったし、これからも可能なのに、それができなかった。

コロナ禍は(最近、武漢の研究所から流出したという説が取り沙汰されているが)天災だとしても、コロナ対策は人災だ。何よりも安倍政権とスカスカ政権がプランBを持っていなかったことが大きな原因であることは明らか。

この本は、コロナ禍という緊急時におけるプランBではなくて、平時の日本人の暮らしを豊かにするためのタイトル通り日本再生のためのプランBが提起されている。

簡単に言えば、多くの国々が目指す大企業中心の経済発展→庶民にもそのおこぼれがあるタイプのプランAではなくて(最近バイデン大統領がこれまでトリクルダウンが機能したことは一度もないとプランAは国民生活底上げの手法としては役に立たないと明言した)、地方再生、医療・福祉・教育分野にお金をかけることによって、国民の購買力を高め、日本経済を回していこうというプランBこそが必要だという内容である。

その前提として提示されている1990年ころから現在までの30年間で日本経済がどこまで没落してきたかを数字によって突きつけられると、日本経済ってそんなに酷い状況だったのかと驚くだろう。

まず現状を冷静に見るところから出発しなければならないから当然のことだが、そういう経済没落の原因には、男女不平等の問題や労働者の権利が守られていない問題、日本の主権がアメリカによって侵害されている問題など、これまであまり問題にされてこなかったことも指摘されている。

人材不足を言う前に、女性という人材が使われずに埋もれているという現状を改革すべきだろう。結婚したら仕事を辞めるとか、妊娠したら仕事ができなくなるだとか言って、女性をガラスの天井で閉じ込めてきた日本社会、外国人労働者を労働者として認めない日本社会を変えることから始めなければならない。当然いますぐにでもスカスカ政権は辞めてもらうしかない。

『日本再生のための「プランB」 医療経済学による所得倍増計画』についてはこちらをクリック


『安倍政権を笑い倒す』

2021年02月07日 | 評論
佐高信&松元ヒロ『安倍政権を笑い倒す』(角川新書、2015年)

図書館から借りてきたはいいが、安倍政権を罵倒し尽くすだけの本かなと思って、気が重たかったのだが、パラ見をしていたところ、笑いをめぐる夏目漱石と森鴎外の対比、太宰治と三島由紀夫の対比について話している章が面白かったので、最初から読み直してみたら、ただ好き勝手を言い合っている本ではなくて、まさに人生論を語り合っており、読み応えのある、いい本だった。

佐高信は別として、松元ヒロという人はあまり知らなかった、というかてっきりザ・ニュースペーパーのイチ員だと思っていたのだが、早くに独立して、ピン芸人として活躍している人だった。そんなことはどうでもいのだが、何よりも興味深く読んだのは、彼が独立してまだ自信がなかった頃に、立川談志から応援されて、自信を持ったという話しだ。

私も松元ヒロの奥さんと同じように談志って「わがままで、口が悪くて、横柄きわまりない人だというイメージ」をもっている。たいして面白くもないのに、自分は「天才」だと言っていると思っている。だが、松元ヒロによると、じつに腰が低くて、観客にも気配りをするような人だということで、彼の奥さんも談志と会ってから大好きになったという。(p.104)

まぁ私は実際に会ったわけでもなんでもないので、突然に考えを変えるわけではないが、へぇーと思ったのは確かだ。


そしてもうひとりがマルセ太郎を世に送り出すことになった永六輔の話し。これも「芸人魂」ばかりが先行して売れないままだったマルセ太郎の芸に惚れ込んだ永六輔が支援をして舞台を設定して大入り満員にしたという。まさにマルセ太郎にとっての恩人だったわけだ。

永六輔の語り口は独特なものがあって(と言っても、龍角散のCMでしか知らないのだが)、いちど生の講演を聞きたかったなと思う。残念なことだ。

ちょっとエピソードばかり書いてしまったが、芸論として読んでも、人生論として読んでも面白い、いい本だ。

『安倍政権を笑い倒す』 (角川新書)


『脱・筋トレ思考』

2021年02月06日 | 評論
平尾剛『脱・筋トレ思考』(ミシマ社、2019年)

スポーツの世界、とくに学校の部活におけるスポーツの弊害があちこちで出ていることは、誰でも知っている。

最悪なのは指導者による生徒への暴力、日大アメフト部であったような、指導者による危険な反則行為の指示など、これらの多くが勝利至上主義の結果であることが多い。

もう一つは指導者が指導の専門家ではないことから生じる精神主義的指導、それによって生徒に怪我をおわせるとか、最悪の場合には生徒の死が起きるということだ。

かつて戦後に貧しかった日本では、お金がかからないで子どもたちにスポーツをさせるのに、部活が効果的であった。場所や道具も学校のものを使用し、指導者も学校の教師が行うことで、安上がりにスポーツができた。

しかしもう時代はそんな時代ではない。それぞれのスポーツの特徴を学習して、そこで必要になる生理学、栄養学、筋肉や骨格などの医学、心理学などを学習して、相手のレベルに応じて適切な指導ができる指導者が求められている。それには国家資格なみの資格試験が必要である。

日本では経験者であるというだけで指導者になることができる。それが悪しき経験主義を生み、根性論や暴力の温床となっている。

これに対してフランスでは、学校での部活は一切なく、スポーツはすべて地域のクラブで行われる。そしてそこには国家資格を得た指導者がいる。フランスは非常にシステマティックな考え方をする国なので、指導者の国家資格を得るには、上にも書いたような多方面の分野の知識を持っていることが必要になる。

それでは根性論を捨てればいいのかと言えば、決してそうではないということを教えてくれるのがこの本だ。

多くのスポーツをやっている人や愛好家が筋トレを最高のもの、必須のものと思っているが、じつは筋トレだけでは、スポーツがうまくなることもないし、怪我をなくすこともできないことを教えてくれる。

もちろん初心者、ビギナーと、熟練のスポーツマンを同一に議論することはできない。指示待ち主義、筋トレ至上主義にたいする批判としてこれを読むことができる。

自らの経験を真摯に反省し、その試行錯誤のなかから生まれた考えを披瀝したこの本は、そういう意味で非常に意味のある内容をたくさん含んでいる。

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