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読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

『水道、再び公営化!』

2021年01月31日 | 評論
岸本聡子『水道、再び公営化!』(集英社新書、2020年)

人間が生きていく上で絶対に必要なものの一つである水を民営化から再び公営化することによって、すべての市民に水を安価に確実に提供するという自治体としての責任を問う本がこれである。

話の多くは民営化から再公営化に舵取りをしたヨーロッパの事例が書いてあるのだが、本の冒頭には2017年安倍内閣時代に行われた民営化法の成立に麻生副総理が大きく関わっていることが書かれている。

麻生副総理は世界では民営化の流れにあるなどと嘘を言って、多くの国では民営化されていると言っているが、実は多くの国で民営化かから再公営化の流れになっているという。当然のことながら、民営化してもいいことがなかったからだ。

そしてこの再公営化への潮目が変わったのが2010年で、麻生副総理が上の発言をして水メジャー会社を日本に誘致しようとしたのは、まさに2010年にフランスのパリの水道が再公営化されて水メジャーが大きな痛手を受けたので、その穴埋めを日本にさせようとしたのだということを、著者は示唆している。

パリ市の事例はこうだ。パリ市は1985年にシラクが市長の時に水道事業全体をヴェオリア社とスエズ社のニ社と25年間のコンセッション契約を結んで民営化した。この25年間で水道料金は265%も値上がりした(物価上昇率は70%)。財務報告書もずさんで、平均利益率は7%と報告されてきたが、それを確かめる方法はなかった。なぜなら水メジャー会社が示すデータを鵜呑みにするしかなかったからだ。

取水と送水はSAGEP社、配水と給水は右岸がヴェオリア社、左岸がスエズ社、料金徴収は両者が出資するGEI社が行った。しかしどの会社も水メジャー二社の子会社のようなもので、株の持ち合いが複雑に絡んで、財務は不透明になっていた。パリ市は、「企業の経営を監督できる」という条項があるからと安心していたが、まったく機能していなかったという。(p.41)

2001年に社会党のドラノエが市長になって、水道事業の問題を取り上げ10年の歳月をかけて、「オー・ド・パリ」という公営会社と作って、2010年に再公営化に成功した。その結果、自治体が公営事業として行うほうが、ずっと効率的であることが分かったという。しかも実際には利益率は15%もあったことがわかり、水メジャー二社が嘘を報告していたこともわかった。

公営会社「オー・ド・パリ」はメーターや水道料金徴収のITシステム構築などに多額の初期費用がかかったにもかかわらず、初年度から42億円もの経費節約を実現し、翌年には水道料金を8%も下げることができた。公営化によって、組織の簡略化や最適化が可能になる、株主配当や役員報酬の支払いが不要になる、収益を親会社に還元する必要がない、納税も不要などが大きな理由だという。(p.47-48)

水メジャー二社は契約終了によって大きな収入源をなくしたことは言うまでもない。それを埋めるためにその触手を今度は日本の水事業に伸ばしてきたのだ。その先導役となったのが麻生なのだ。なんという売国奴か!

なんでも、女壻が水メジャーの役員をしているという話だ。これが事実なら本当に許せない。

麻生って、今のコロナ問題でも再度の給付金をしないとあたかも自分の金でもあるかのようにうそぶくような政治家だ。

水道民営化のウラに…麻生財務相“身内に利益誘導”の怪情報

この本は最後に日本の現状を報告して、改正水道法が民営化へ地方自治体を動かすための様々なアメとムチを盛り込んでいることを危険な仕掛けとして注意を呼びかけている。民営化してもまた公営化すればいいではないかというような安易な民営化は、人材的にも財政的にも不可能になることを明記しておこう。こんな危険なものを、水という社会資本について、作り上げた安倍内閣は本当に売国奴だ。

とくに怖いのは、契約書である。ベルリンの例が書いてあるが、契約書は経営の秘密を理由に公開されなかったために、住民投票で過半数の賛成を取る必要があり、公開されて分かったことは、非常に複雑な所有形態が取られており、再公営化に必要な株の買取りをするために1560億円もの代金が必要になったという。(p.173)

水メジャーの代理人は巨大コンサルタント会社で、国際会計基準のプロで、企業の交渉アドバイザー業務もこなす百戦錬磨の相手に、企業法務のプロはいない日本の地方自治体が太刀打ちできるわけがない。再公営化をしようにも、その壁は目もくらむほど高い。

つまり水道民営化は絶対にしてはならないものであり、水道料金値下げなどという口当たりのいい言葉を選挙公約に使って当選しようとする候補者にはとくに要注意だ。

『水道、再び公営化! 欧州・水の闘いから日本が学ぶこと』 (集英社新書)へはこちらをクリック

<2月21日追加分>
ついに日本で初めての水道民営化が行なわれた。やっちゃいけないのに、宮城県人はこの本を知らなかったのかね。
こちら



『われらが<無意識>なる韓国』

2021年01月18日 | 評論
四方田犬彦『われらが<無意識>なる韓国』(作品社、2020年)

1979年と2000年代に韓国に長期滞在し、韓国のことや韓国映画のことに詳しい四方田犬彦による評論集である。

最初の半分くらいに収められた評論はごく最近のもので、後半になると古いものも含まれている。

日本人の韓国(人)への心情と韓国人の日本(人)への心情のすれ違いをはじめとして、四方田犬彦が体験したものを拠り所にしながら書いてあるので、説得力のあるものが多い。そして映画論も参考になる。

私が初めて韓国映画を見たのは1999年のキム・ジオンの『反則王』だった。韓国が通貨危機に陥り、国際通貨基金による大なたによって失業者が大量に生み出され、賃金切り下げによって銀行員など闇金の職員と変わらないような生活のなか、ソン・ガンホ演じる気弱な銀行員がプロレスに参加して、反則レスラーになるというもの。

コメディー受けを狙う映画でもこのようにリアルな社会を描きこんでいることに驚きをもったものだ。

朴正熙政権や全斗煥政権との戦い(光州事件など)を経て、自らの力で民主化を勝ち取ってきた韓国国民であればこそ、韓国映画には、日本と違って、タブーがないと思っているのだが、四方田犬彦のこの本を読むと、それでもナショナリズムには搦め捕られているようだ。

例えば「韓国映画の安易なナショナリズム」という記事で、『尹東柱の生涯』(2015年)とか『金子文子と朴烈』に見られるように、朝鮮統治時代の人間を描く場合に、朝鮮人は善玉で日本人は悪玉に描くというパターンから抜け出せていないという指摘をしている。具体的には、尹東柱が同時代の日本詩歌に深く影響を受けていたことなどは完全に無視されていることが挙げられている。

韓国の時代劇ドラマを見ていると、秀吉の朝鮮出兵を描く日本人武士の姿がとてもじゃないけど変という場合が多い。これだけ日韓の行き来があって、日本人で韓国ドラマに出ている人もいる(『朝鮮ガンマン』にでていた大谷亮平さん)くらいなのだから、考証を頼めばいいのにと思うのだけど、決まったパターンから抜け出ていない。

かと思うと、現代もののドラマでは、権力者が会食をするのはきまって高級な日本料理店だ。彼らが口にするのは刺し身や寿司などだ。フレンチやイタリアンというのは、財閥の御曹司が彼女と食事する場合で、権力者は日本料理だ。これなどは、意図的にしているのだろうか?それとも無意識にやっているのだろうか?

『われらが〈無意識〉なる韓国』へはこちらをクリック

『「意地悪」化する日本』

2021年01月06日 | 評論
内田樹&福島みずほ『「意地悪」化する日本』(岩波書店、2015年)

この本は、2015年の安全保障関連法案(=戦争法案)が議論されていた時期に行なわれた対談本。

当時の安倍首相や橋下大阪市長といった、言動の一貫性も論理も無視した「新しい」政治的言説を使うような政治家たちの登場が怒りをもって分析されているし、他方ではSEALDsといった、どこの政党や政治勢力とも結びつかないが、今の自民党政治に反対を表明し、野党頑張れと声援を送った、新しい若者たちの運動などが、共感をもって議論されている。

内田樹の対談本は、内田樹の対話相手がたいてい彼のリスペクトしている人というのが多いので、議論が噛み合っていないことが多いのだが、今回は逆で、福島みずほが内田をリスペクトしており、ぜひ対談したいと申し入れて実現したこともあってか、割と噛み合った議論をしている。

「おわりに」で内田樹も書いているように、内田樹自身は実践的なことは何もしていない、ある意味で政治については「書斎の思弁」家にすぎないが、福島みずほは長く国会議員として国政に携わってきた経験があり、内田樹が知らないことをたくさん紹介しながら議論しているので、内田樹もそれを拾ったり、敷衍したりして、議論しているので、面白い。

中でも興味深かったのは、アメリカと日本の従属関係の見方で、その11頁から12頁で、敗戦による日本の支配者の国家戦略としてアメリカの属国になって忠義を尽くしアメリカから「信頼できる同盟国」という承認を獲得することができれば、アメリカから「自立のお許し」が得られるかもしれない、その日までがんばって従属しようという選択をしたという。

まさにアメリカを支配者とする忠義国家になるという選択だ。つまり戦後日本の国家の有り様そのものが、まさに主君と家臣、天皇と国民といった戦前までの日本の支配構造を戦後にもアメリカと日本のあいだに作り出したということだ。

アメリカ論については大統領選をめぐって内田が年末に書いたものが公開されている。アメリカにおける自由と平等の捉え方をめぐる彼の論考は非常に面白いので、こちらにリンクを貼っておく

『「意地悪」化する日本』へはこちらをクリック


『アインシュタインの戦争』

2020年11月22日 | 評論
スタンレー『アインシュタインの戦争』(新潮社、2020年)

副題は「相対論はいかにしてナショナリズムに打ち克ち、世界に衝撃を与えたか」というもので、1905年にアインシュタインが発表した、いわゆる特殊相対性理論から、1915年に発表した一般相対性理論への、アインシュタインの格闘をあとづけ、それを大衆化するうえで大きな役割を果たしたイギリスの天文学者エディントンの仕事を詳細に記述している。

そしてもう一つの主題は第一世界大戦でドイツとその敵対国であったイギリス、フランスなどのヨーロッパ諸国で科学者たちを巻き込んだナショナリズムである。

一番有名なのは、ドイツのハーバーによる塩素ガス兵器の開発だろうが、第一世界大戦において科学者たちが、それまでの友好的な関係を捨てて、ナショナリズムに走って戦争に協力した。

著者によれば、一般相対性理論のような理論的な点ではごく少数の科学者しか理解し得ない理論が大衆的になるには、それが実際の実験や観察によって実証されることと、大衆化のための啓蒙(講演や著作などで)が必要になるが、アインシュタインの場合にも、もしエディントンによる日食観察や啓蒙活動がなかったら、相対論がこれほどまでに科学における革命などともてはやされることもなかっただろうという。

多くの科学者がナショナリズムに走った第一次世界大戦において、いろんな理由からナショナリズムにとらわれることがなかったエディントンが果たした役割は大きなものがある。この本の主題の一つはそこにあるので、彼の科学者としてのマイナス面は書いてないが、1930年代にインド出身のチャンドラセカールが、初めてブラックホールが存在することを理論的に指摘した時に、その指摘をまともに検討すること無く頭ごなしに否定したために、ブラックホールの研究が30年以上も遅れたというマイナス面はよく知られている。

『アインシュタインの戦争―相対論はいかにして国家主義に打ち克ったか―』へはこちらをクリック

『亡国の集団的自衛権』

2020年10月19日 | 評論
柳澤協二『亡国の集団的自衛権』(集英社新書、2015年)

防衛審議官、運用局長、防衛庁長官官房長、さらには内閣官房副長官を勤めた人による、安倍内閣の集団的自衛権批判の本。本当に集英社新書は骨のある本を次々と出している。立派だ!!

総理大臣は自衛隊の指揮権を持っている。どういう状況で、何を目的に、どういう方法によって、何を達成するのかというような具体的なことを念頭に置くこともなく、情緒に訴えるようなやり方で、アメリカの戦艦などが攻撃されたら、同盟国として座視しているわけにはいかないから、集団的自衛権をできるようにしたいというような発言をしてきたこと、そして集団的自衛権という重大かつ憲法違反になるようなことを国会で審議せずに閣議決定という形で通してしまったことを、まったく危険きわまりない行為だと批判している。

安倍が憲法違反の集団的自衛権に大きく逸脱した決定を行うにあたって論拠とする外国での日本人救出だとか「友達が殴られたとき」だとかは、情緒的に判断することではないという。第一に日本人救出には集団的自衛権は必要ないという。また「友達が殴られた」としてもアメリカは「殴り返す」ことを求めてはいないという。

集団的自衛権は、日本が想定しなければならないものが無限に拡大し、そのために無限の軍備拡張が必要になり、現実的ではないという。そもそも日本として世界のなかでどういう役割を果たすのかということを、国会で十分に議論することもなく閣議決定したことも、著者から批判されている。

この著者は、実際に自衛隊を動かすための指導的立場にあった人なので、普段私達がぼんやりとしか考えていないことを、私たちの盲点となっているような視点から、緻密に、論理だてて、なおかつ現実の政治や軍事的力関係などをもとに説明してくれるので、分かりやすい。

これまではこういう人が防衛官僚にいて、政治の暴走が抑えられてきていたのだが、安倍内閣になって、そういう歯止めが効かなくなっているということなのだろう。恐ろしいことだ。

先頃、中曽根康弘元首相の葬儀が国費で行なわれた。日本を「不沈空母」だと言って、アメリカに差し出した男の葬儀をなぜ国民の血税を使うのか!腹立たしい。

そうそう、中曽根康弘といえば、こんなツイッターの投稿を見つけた。美輪明宏って本当に立派な人だ。
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『リニア新幹線』

2020年10月02日 | 評論
橋山禮治郎『リニア新幹線』(集英社新書、2014年)

リニア新幹線の工事がすでに始まっているが、とくに静岡県の山奥での工事がえらいことになっているというネットのニュースを見て、そもそもリニア新幹線なんか必要なのかというところから知っておきたいと思い、この本を読んでみた。

結論から言えば、プロジェクトそのものがえらいことになっているという結論で、とてもじゃないが、今のうちに辞めるべきだということを提案している本だ。そもそもこの本が出たのが2014年なのに、6年もたった2020年でまったく軌道修正するような報道は見かけない。このまま突っ走るつもりなんだろうか。

それにしても、こんなプロジェクトはありえなという点ばかり指摘されている。

第1に、巨額に費用。現在でも9兆円になるという見通しだが、この本でも書かれているように、見通しどおりに行くプロジェクトはないという。しかも5年10年で完了するものではなくて、東京・名古屋でさえ27年開業と14年かかるし、大阪までの開業は45年と30年以上のプロジェクトなのだから、必ず予想できなかったことが生じて、費用が予想外に増えることは必至だが、そんなことは念頭にないらしい。

第2に、まったくペイしないプロジェクトだということで、これは当のJR東海のトップが断言しているというから、どうしてやるの!!という代物。赤字垂れ流しがわかっているようなプロジェクトに金を使うのなら、現行の新幹線の料金を値下げして、もっと利用者を増やすとか、老朽化が言われているインフラの整備にお金をかけて、今後も20年30年と使い続けることができるようにすればいいのに。

第3に、人体や環境への影響がまったくわかっていない。ものすごい強力強大な電磁波が生じるのだが、それが人体にどんな影響があるのかわかっていない。70%が地下トンネルを走るそうだが、トンネル工事がどんな影響を与えるのかもわかっていない。実際に運用し始めてから恐ろしい影響があることがわかったのでは遅いだろう。

第4に、70%が地下トンネルを走るのだが、地震大国の日本で地震が起きた場合、トンネル内で事故が起きた場合、システムに異常が生じた場合などの安全や避難などの想定や対策についてはJR東海が大丈夫だというだけで、何も検証が行なわれていないらしい。地上の線路での事故でさえも大変なことになるのに、道路のトンネル事故でも大変な救出作業になるのに、トンネル内で事故が起きたらという検証もしないで、大丈夫って、どんだけいい加減なんだ。

第5に、新幹線の5倍以上の電力を使用するらしいが、ただでさえ原発再稼働をさせないために電力消費量を抑えようとしている時代に、新幹線の5倍以上の電力って。

こんなプロジェクトは今すぐやめるべきだ。JR東海はそんなに儲かっているのなら、現行新幹線の料金の値下げやインフラの更新にお金を使ってほしい。政府もそういう方向で指導すべきではないのか。

最近でも2019年10月にリニア実験線の遮断器から火災が発生し、いまだにその火災で被害を被った作業員は面談さえもできない状態だという。そしてJR東海は「本人から詳細を聞けていない」という理由で、原因についての説明を行なっていないという。本人から聞けないのなら、一緒にいた人たちに聞けばいいはずだ。「本人から詳細を聞けていない」という理由で原因究明をしようともしないし、説明責任も果たそうとしないような会社にこんな危険なプロジェクトを続行させていはいけない。

この事故についてはこちら

『リニア新幹線 巨大プロジェクトの「真実」』 (集英社新書)へはこちらをクリック

『スノーデン監視大国日本を語る』

2020年09月30日 | 評論
自由人権協会監修『スノーデン監視大国日本を語る』(集英社新書、2018年)

集英社新書というのは社会問題を深くえぐるような骨のある本をたくさん出している。その一つがこの本で、2017年10月に行なわれた自由人権協会の70周年記念シンポジウムを収録したものだという。

最初に、NHKの最も良質な番組の二つ「NHKスペシャル」と「クローズアップ現代」の後者のクロ現を担当していた国谷裕子がスノーデンとテレビインタビューをしたあとに、数人の専門家による報告、最後に国谷によるまとめが載っている。

外国の専門家が日本における情報監視問題で一番危惧しているのは、政府にたいする歯止めがまったくかかっていないことである。本来ならジャーナリズムがそうした機能を果たすものだが、日本では日本記者クラブが菅官房長官(当時)の報道会見でもすでに提出された質問に応えるというやり方が慣例として行なわれ、それ以外の質問をすると無視されるというような事態に見られるように、まったくチェック機能を果たしていないことを指摘している。

ところがスノーデンが危惧するのは、2017年にアメリカ政府が日本政府にEKEYSCOREと呼ばれる新たな監視技術を秘密裏に提供し、不特定多数の国民のネットでの情報が収集されているのに、国民が何も知らされないし、チェックする機能がまったくないということだ。

従来から日本では警察組織が事あるごとに容疑者(この容疑者というのは重大な事件の容疑者だけでなく、一旦停止違反のような交通違反をした人も含めて)の情報を保管して蓄積しているが、これがどのような扱いを受けているのか(廃棄いされているのかされていないのかも含めて)まったく闇の中にあるということを少し前の朝日新聞でも報じていた。

そこに上記のような監視技術がアメリカから導入されて情報収集が加速され、共謀罪や特定秘密保護法などの安倍政権が強行採決した法律とともに、わけのわからないうちに運用されることがどれほど怖いことか、その当事者になってみないとわからないと思う。

とにかく私がこのブログで何度も書いているように、日本政府は国民を守る考えなどない。原発事故処理がそう、拉致被害者救済がそう。これらの当事者がいちように口にするのが、国なんか当てにできないという言葉だ。

何もしてくれないだけならいい。だが、私たちのプライベートな情報を勝手に収集し、勝手な名目で逮捕でもされたら、どうするのか。お上の言うことは絶対みたいな風潮が強いだけに、こうした警鐘を鳴らす活動をしている人たちがもっと増えてほしい。

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『除染と国家』

2020年09月24日 | 評論
日野行介『除染と国家』(集英社新書、2018年)

副題に「21世紀最悪の公共事業」とあるように、福島第一原発事故による周辺地域への大量の放射能汚染にたいして国が行なった除染作業やその後の対応を批判したジャーナリズム精神に満ちた一冊だ。

津波によって福島第一原発の炉心融解を起こし、そのせいで建屋が吹っ飛んで、大量の放射能が周辺地域に降り注いだ。

チェルノブイリの場合は、住民を追い出して、誰も住めない地域にして放置してあるだけだ。

福島の場合は住んでいた住民が多かったこともあるだろうし、「パニックを抑える」というような口実から、最小限の地域だけが避難区域に指定されて、この区域と周辺で放射線量が多い地区では、除染といって、表土をかき集めてフレコンバッグに詰め込み、空き地に山積みにしていくという作業を行なって、放射能の危険がなくなるかのような幻想をあたえる作業が行なわれた。

しかし今回の事故で放射能の多くは山林に降り注いだわけで、そこの放射能汚染されたものをかき集めること自体が不可能に近い。

作業員たちも、当たり前だが放射能に汚染される。放射線測定器で毎日測定しているらしいが、下請けになるといい加減な措置がなされているという体験者の証言。

そもそも表土をかき集めてフレコンバッグに入れたはいいが、そこから放射能が漏れていない保証はなにもない。何年も雨ざらしになっているうちにフレコンバッグが崩壊して中身が出てくることもある。

そしてそれを中間処置置き場なるところに移動するにも、気が遠くなるほどの車両が気が遠くなるほどの回数運ばなければ運搬できない。

それにそこに移動したから放射能がなくなるわけではない。ただ政府の言うところでは30年をめどに最終処分場に移動するための一時保管にすぎない。フレコンバッグの崩壊、大量の汚染された土壌の行き場所は不明。

この本で大きく取り上げられているのは、中間処置置き場に置かれたフレコンバッグの中身を堤防とか道路を作る際に使用してできるだけ減らそうとする政府の方針だ。汚染されていない土壌やコンクリートで覆えば放射線量は減るという口実のもとに二次使用を行おうとしているらしい。

政府、福島県、関係自治体が、早く放射能汚染はなかったことにしようとして、リミットとなる数値を弄って、自分たちの都合のいいように書き換える、会議での発言を改ざんする、情報公開をしないなどなど、森友学園問題、自衛隊日報問題などと同根の隠蔽主義がまかり通っていることをこの本は告発している。

そして、御用学者や官僚たちがみんな口にすることが、私たちが上手くやろうとしているのに、自分たちが決めた基準に従わず、1ミリシーベルトまで除染しろと要求する国民が愚かだという言葉であるという。国民の命と私有財産を守るのが国家の仕事だろうが!放射能汚染を綺麗サッパリ除染して、もとの状態に戻せと要求して何が悪い!

今回のコロナの対応といい、国家を信用していいことは何もない!

こういう告発をした著者のようなジャーナリズム精神を持った人がいることが、せめてもの救いだ。

『除染と国家 21世紀最悪の公共事業』 (集英社新書)へはこちらをクリック



『教育現場は困ってる』

2020年09月05日 | 評論
榎本博明『教育現場は困ってる』(平凡社新書、2020年)

文部科学省が舵取りをして始まっている実学志向の最近の教育が薄っぺらな大人を作ることにしかなっておらず、決して学力向上につながっていないことを指摘した、たいへん興味深い本だ。

受験勉強でも大学の授業でも、とにかく詰め込み教育の弊害が主張されて久しい。それへの反動からか、最近はアクティブ・ラーニングだとかキャリアデザインだとかといった、学生や生徒に主体的に授業に参加させようという試みが提唱され、実際に教育現場で行われている。

そういえば、大学の外国語の授業でも、ここ数年のあいだにアクティブ・ラーニングという言葉を聞くようになった。昨年の年度初めの説明会でも、英語の教員が、これから大学に入ってくる学生のほとんどが高校までにアクティブ・ラーニングの授業で育っているので、と言って、アクティブ・ラーニングを前提にした授業を行うように、と指示していたのを、これを読みながら思い出した。

フランス語の場合はすでにだいぶ前から「アクティブ・ラーニング」という言葉こそ使われなかったが、例えば日本語をまったく使用しない授業の組み立て方や、シチュエーションを明確にした上での表現の練習など、それっぽい授業が主流になっているように思われる。だから大学によって、古典的な、文法と読本という二本立ての授業の組み立て方の大学と、アクティブ・ラーニング的な表現を主体にした授業の組み立て方の大学に分かれているように思う。

だが、フランス語などはあれこれ言っても教養の外国語で、人生に必須なものではないからいいが、小中高の教育は人間形成にかかせない教育である。そこでどんな教育が行われるかどうかは、非常に大事な問題であり、もしこの本が指摘しているような人間が形成されるのなら、教育行政がまったく間違った方向に進んでいると言わざるを得ない。

私がとくに驚いたのはキャリアデザインとかいうもので、自分が今後どんなキャリアを進んでいくのか(いきたいのか)を5年先、10年先まで作らせるというものだ。そこに基準となるのは自分が好きなことを第一にして組みてていくということらしいが、多くの学生の場合自分の好きなことが見つからなくて、キャリアデザインを描くことができなくて、就職を止めてしまうとか、先に進めなくなってしまうということが起きているらしい。

それだけではなくて、彼らにはそもそも未来なんか自分で思い描いたとおりにはならないという意識はないから、自分が予定していたものと違う結果になったらまったくお手上げ状態になるらしい。彼らには与えられた場所やとりあえず決まった場所で努力をしてみるという発想にならない。

よく成功したアスリートや起業家などが「夢は叶う」というようなことを言ったり書いたりするのをよく見るが、これはこうしたキャリアデザインの流行に乗った発言なんだなと、これを読んでよくわかった。

現実には大多数の人は、どんな人生になるのかわからない。思い通りになったとしてもそれは意思の問題でも能力の問題でもない。そういうことを個人が勝手に思い描くならいざしらず、教育として教える、強制するというのは、本当に重要な問題だというのが著者の意見だ。

この本を読んでいると、今の教育行政の歪んだ方向性をいくら現場が指摘してもまったく変わらないという現状のようにあり、私にはそれはいくらPCR検査を増やせ、医療機関や医療関係者に厚い財政補償をと言っても、のれんに腕押しで、まったく何も変化しない今の厚生労働省の方針と同じだなと思えて、やりきれなくなる。

『教育現場は困ってる:薄っぺらな大人をつくる実学志向 』(平凡社新書)へはこちら



『小説的思考のススメ』

2020年08月26日 | 評論
阿部公彦『小説的思考のススメ』(東京大学出版会、2012年)

今年の春先に大学の英語入試にTOEFLとかTOEICなどを認めるのかどうかという問題でずいぶんと議論が起きていたが、そのときに反対派の論客としてよくツイッターなどで見かけた人で、てっきり英語の教員だと思っていたのに、日本文学の本?と驚いたのだが、経歴を見ると、やはり英語の教員のようだ。小説の読み方みたいなことでは、とくに言葉の一字一句を大事に読む取ることでは、英語でも日本語でも同じということなのだろう。

この本では古いほうでは夏目漱石の『明暗』から太宰、志賀直哉といったものから、現役の作家たちの一字一句が取り上げられて、それがどれほど作品全体の解釈に関係しているかを、やや牽強付会的に、敷衍して解説されている。

私が読んだことがある作品としては、漱石の『明暗』と太宰の『斜陽』くらいしかなかったのは残念だったが、よしもとばなな、絲山秋子、吉田修一、佐伯一麦などは、他の作品を読んでいたので、強行突破して読んでみたのだが、随所にそこまで読むか、という印象を持つような解説があって、興味深い内容だった。

とくに吉田修一の『悪人』は妻夫木聡主演の映画を見たことがあるので、その映画との対比も書かれているから、主人公と殺される女にとっての、言葉と物との関係の違いという解説は興味深かった。いちど小説の方を読んでみようという気になったくらいだ。

また読んだことがないけど、辻原登の「家族写真」というのもなにやら面白そうな短編だなと思った。一種の読書案内のような役割をこの評論が果たしているのもいい。

最後のおわりにで「日本の小説は宝の山」と書いているけど、たしかにそのとおりだと思う。日本人作家はいろんな仕掛けをして読者を飽きさせないように引っ張っていく技術に長けている。

『小説的思考のススメ』はこちら