仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

意味を生み出す言葉

2023年04月02日 | 浄土真宗とは?

私が執筆者無記名にて連載している本願寺新報社「大乗」2023.4月号が送られてきました。

以下転載します。

 

フオーカス 仏教ライフ

意味を生み出す言葉

 

愚かな私の存在があるゆえ

 

言葉が新しい意味が生み出すということがある。日本語の「イネ」「コメ」「ゴハン」は、英語でライス(rice)という。ライスがご飯と訳されるとき、食物としてのライスという新しい意味が生まれる。コメだと、穀物としてのライスだ。英語のbrotherもそうだ。英語では出生順に関係なく用いる。しかし兄弟という言葉は、兄か弟であるかという区別が付加される。これは「ご飯」という言葉が生まれる背景に、その言葉が生まれる環境があったことであり、兄弟も、兄であるか弟であるかを重要視する社会があったということでもある。仏は覚者のことだが、阿弥陀が誕生することによって、「摂取して捨てざれば阿弥陀と名づけたてまつる」(『浄土和讃』)という、すべてのいのちあるものを摂取するという法のはたらきが、この世に現れたということだ。それは阿弥陀という仏が生み出されなければならない現実、すなわち愚かな私の存在があったということだ。

言葉によって新しい意味が付加されることもある。特にみ教えという言葉は、価値観を逆転させるはたらきがある。命が終わることを「死」という。浄土真宗では、死は終わっていくことではなく生まれて往くことであると説き、「往生即成仏」の時だと示される。

 

仏に成る命を生きる

私が住職を務めいている寺の総代Sさんがご往生されたときのことだ。前立腺がんで入院して1年半、最期は病院の個室に入り、別れを告げてからの30日間、意識不明の状態だった。私は再々病院を訪ね、Sさんに触れながら20分くらい念仏を称えて過ごした。法蔵菩薩(阿弥陀仏の前身)が都見(隙間なく見ること)した国土の人天の姿の中には、こうした今まさに死に至るしかない人々が累々とあったにちがいない。その存在に対して「そのまま救う」というお慈悲を発動された。Sさんの自力無効の状況下が阿弥陀さまを親しく感じる好機となった。

往生の前日、正信偈をおつとし15分くらい念仏を称えた。帰り際、寝ているSさんに自然と手を合わせ頭が下がった。そこには無意味に終わっていく命ではなく、仏に成るいのちを生きているSさんの存在があった。

阿弥陀仏の願いとはたらきは、「南無阿弥陀仏」の名号として私の上に至り届いている。この「南無阿弥陀仏」を阿弥陀仏の願いとはたらきのたまものであることに開かれている人と、阿弥陀仏の願いに閉ざされている人では、経験していることがらが、まったく違っているとも言える。

阿弥陀仏のご本願を説いた『仏説無量寿経』下巻に、釈尊が、阿難に姿勢を正して合掌して阿弥陀仏を礼拝しなさいと告げる説示がある。阿難は、西に向かい大地に身を伏して阿弥陀仏を「拝ませてください」と念じる。

この言葉が終わるとすぐさま無量寿仏は大いなる光明を放ち、ひろくすべての仏がたの国々を照らしになった。‥‥すべてのものが等しく金色に輝いた

『浄土三部経(現代語版)一三八頁』

と、阿弥陀仏を念じた阿難尊者のうえに、光り輝く世界が開かれていったとある。これは南無阿弥陀仏の名号によって、新しく世界が意味づけられていったとも言える。浄土真宗の門徒は、いつでも、どこでも「南無阿弥陀仏」を通して、阿弥陀仏に触れていくことができる。それは阿弥陀仏の願いとはたらきに意味づけられた人生を歩むことでもある。親鸞聖人は、師の法然聖人より承った他力念仏のみ教えを「これ希有最勝の華文」(浄土真宗聖典473頁)と、人類最高の最も勝たれたみ教えであると仰せになっておられる。その最高み教えを、浄土真宗門徒だけで喜び、人々に伝えることを怠ることはあってはならない。

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