仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

「新しい領解文」(浄土真宗のみ教え)に対する声明(二)

2023年04月19日 | 正しい絶望のすすめ

「新しい領解文」(浄土真宗のみ教え)に対する声明(二)

 過日、勧学・司教有志の会は、このたび「ご消息」として発布された「新しい領解文(浄土真宗のみ教え)」(以下、「新しい領解文」)について、その文言全般を通じて、宗祖親鸞聖人のご法義に重大な誤解を生じかねないものであることを「声明(一)」において指摘した。
 この「新しい領解文」の文章表現について、石上智康総長の著書のなかに酷似する表現が多数見出されることは、すでに宗会等で指摘されているように周知の事実であるが、制定の経緯についても、宗会の質疑その他を聞く限り、極めて透明性を欠いている。
 そして総局の強引な方針によって、全国の僧侶・門信徒は困惑し、混乱は広がり続けている。ことに三月二九日から始まった親鸞聖人御誕生八五〇年・立教開宗八〇〇年慶讃法要では、「新しい領解文」の唱和が呼びかけられているが、それに対し不唱和、退席、あるいは従来の「領解文」を出言される方々もおられ、この様子はすでに報道されているところである。総局は記念すべき慶讃法要において、このような事態を招いておきながら何も対応することなく、さらに得度習礼・教師教修などでも「新しい領解文」を唱和させ、普及させようとしている。
 そのような状況の中で、とりわけ本有志の会が重大な問題と認識しているのが、このたびの慶讃法要をはじめ、本願寺及び宗派関連施設において、布教使の方々に対し「新しい領解文」「私たちのちかい」をもととして法話し、また唱和するように要請されていることである。
 本来、浄土真宗の法話とは、「聖教」のこころを取りつぐものである。宗祖の御誕生及び立教開宗を記念する法要であるならば、まず第一に立教開宗の基準となった根本聖典『教行信証』をはじめとする、宗祖の聖教に基づいて法話をせよと示すべきである。
 そもそも「新しい領解文」は、このたび「ご消息」として発布されたものである。本願寺教団においてご門主さまの「ご消息」が重要な位置づけを持つことは言うまでもない。しかしながら、蓮如上人より後の歴代宗主の「ご消息」については、たとえば戦時など時代状況に迎合して発せられた「ご消息」が聖教とされてきたことへの反省から、二〇〇八(平成二〇)年に施行された現宗制において、「聖教に準ずる」という位置づけから外されている。
 そして、聖教であるか否かということは、宗意安心上、きわめて大きな意味を持つゆえに、その区別は厳密にしておく必要がある。その意味でも聖教をさしおいて、「新しい領解文」をもととして法話することを要請すべきではない。まして「声明(一)」で述べたような全般に問題をかかえる文章であるかぎり、その文言をもとにした法話はなされてはならないのである。聖教を離れるならば、「伝える」も「伝わる」もあるまい。このような方針を課せられた現場の布教使の方々の苦渋は、察するに余りある。
 もとより「新しい領解文」は、名称そのものにも重大な問題を抱えている。制定にあたっては、「現代版〈領解文〉制定方法検討委員会」が設置され、勧学寮員から三名他が任ぜられ、その答申に基づいて制定されたと『宗報』二月号には記されている。ところが実は、当該委員会の答申には、現代版「領解文」の名称について、

現代版「領解文」という表現は、従来の『領解文』との混乱を招く表現であるので、新たな名称を検討すべきである。

と明記されていた。にもかかわらず、その約二ヶ月後、答申の主旨を全く無視する形で「新しい領解文」という名称で発布されたのである。
 しかし、この委員会が出した答申には、宗意安心上において重要な意味があるのである。歴史的に領解を出言するという儀礼は、蓮如上人が山科本願寺時代の報恩講において始められた「改悔」に起源する。その流れの中で、従来の「領解文」は、一七八七(天明七)年、第十七代法如宗主の時に、蓮如上人の真筆に基づくとされている文書をもとに、本願寺から証判本(正式な文書)として広布されたものである。以来、現在にいたるまで安心の鑑として敬重され、多くの寺院や家庭で、縁あるごとに僧俗ともに口に述べて法義を味わい、また確認してきたものである。現在の本願寺でも、最重要の法要である御正忌報恩講の「改悔批判」において、従来の「領解文」は用いられ、ご門主さまの代理(与奪)をつとめる勧学がその内容を説き述べ、安心の要を解説してきている。
 そのような歴史の中にあって「新しい領解文」なる名称を用いることは、聖教ではないという位置づけで発布されたものが、実質的に、聖教のように扱われることを意味している。しかもその内容たるや、すでに述べた通り、全般に重大な誤解を生ずるおそれがある。この名称を用いるならば、これをもとに改悔批判が行われ、安心の正否が裁断されてしまうという最も恐れるべき事態に繋がりかねない。なぜ、委員会の答申を無視して、「領解文」という名称が用いられたのであろうか。ありえない事態というほかはない。
 本願寺教団のほこりは、宗祖親鸞聖人の開かれた浄土真宗というみ教えが、「聖人一流」として受け継がれてきているところにこそある。今回、「新しい領解文」によってこれだけの混乱を引き起こしておりながら、なおそれを無視して普及を推進しようとする宗務行為は、もはや宗門の根幹を突き崩すものである。聖教に基づいて宗意安心を護ることこそが、ご門主さまを護ることであり、全国の門信徒のお念仏の日々を護ることである。現総局の歪んだあり方によってこのような状況が生まれていることに、我々は強い憤りと、深い悲しみを覚える。速やかに「新しい領解文」を取り下げ、一刻も早く聖教に基づく伝道に立ち戻るべきである
 最後に、この声明文は本願寺派の勧学・司教有志により発するものであるが、その「志」(こころざし)とは、ご法義を尊び、ご門主さまを大切に思う、愛山護法の志であることはいうまでもない。

合掌

二〇二三年 四月八日

浄土真宗本願寺派 勧学・司教有志の会
代表 深川 宣暢(勧学)
森田 眞円(勧学)
普賢 保之(勧学)
宇野 惠教(勧学)
内藤 昭文(司教)
安藤 光慈(司教)
楠  淳證(司教)
佐々木義英(司教)
東光 爾英(司教)
殿内  恒(司教)
武田  晋(司教)
藤丸  要(司教)
能仁 正顕(司教)
松尾 宣昭(司教)
福井 智行(司教)
井上 善幸(司教)
藤田 祥道(司教)
武田 一真(司教)
井上 見淳(司教)
他数名

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする