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仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

宮内庁御用たつのポーズ

2013年11月05日 | セレモニー
新聞(25.11.4)を開くと、高倉健をはじめとする5名の文化勲章受賞者の集合記念写真が掲載されています。私は心の中で「これが宮内庁御用達の姿勢だな」と確認しました。何のことかと言えば、集合写真に写っている人の足の開脚幅です。洋服でも着物でも、若干の違いはありますが、こぶし2つの開脚幅が写真のポーズです。

新春の天皇陛下ご一家の写真が公開されますが、こちらの写真の方がみ足の開脚幅は厳格、皆さま揃った開脚幅で、女性はしっかりとみ足を揃えておられます。なぜ写真撮影の足の開脚幅が気になるかと言えば、いつも気にしているからです。

43歳の折、本願寺ご門主(即如上人)の第4期組巡教随行講師を拝命し、4年間に16組の随行させていただきました。その時、決まってご門主を中心に関係者が集まっての記念撮影があります。いつもご門主は、布袍のつけての撮影の折は、足をそろえて臨まれます。そうすると隣に総務(重役)であっても、足を開いた姿勢でいると、不遜な感じを与えます。そのことをいつも意識しているので、私は、念仏奉仕団の集合写真でも、ご門主と撮影に臨むときは、足をそろえた姿勢を取ります。

洋服で足をそろえた姿勢になると、おおかた膝が割れて見苦しいのですが、布袍を付けていると、自然体でみえます。今度、意識して写真を見てください。

天皇陛下のご一家での集合写真は、よく見ますが、一般の人との、記念のかたぐるしい集合写真は、見た記憶がないので、ひょっとしたら常に敬い相対する方であるということから、天皇陛下と同列で立つということをしないのかも知れません。
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親の恩

2013年11月04日 | 日記
西方寺報恩講(25.11.3)も無事勤めました。ご法話はSご講師。いつもになく節談を多く挿入され、「意識して多く使った」とのことでした。ご法話の中で、松下幸之助さんの会社面接の話(下記)をされましたが、どうも出典は、次のところのようです。参考までに孫引きですが転載します。

 児童文学作家の花岡大学氏が、こんな話を紹介していました。
 大学卒業の青年が、入社のための面接試験を受けたときのことです。その席で社長から「君は今まで親の体を洗ってやったことがあるかね」と、聞かれました。それに対して「いいえ」と否定した青年でしたが、それでも採用される見込みがあったとみえて、社長は「すまないが、明日この時間にここへきてくれないか。しかし、ひとつ条件がある。それまでにぜひ親の体を洗ってきてほしいのだが、できるか」といいました。彼も「はい、なんでもないことです。やってきます」と答え、家へ帰っていきました。
 この青年の家は貧しく、父親はすでに亡くなっています。母親は呉服の行商で必死になって働き続け、この青年は大学を卒業できるまでになったのです。
 その日、彼が家に帰ると、行商に出掛けた母親はまだ帰っていませんでした。“帰ってきたら、どこを洗ってやろうか”と考えた青年は、外へ行って足を汚しているに違いないから、足を洗ってやろうと決め、たらいに水をくんで待ちました。
──そこへ母親が帰ってきたので「足を洗ってやろう」というと、元気な母親は「足ぐらい自分で洗うよ」という。そこで洗っていかねばならないわけを話すと「そんなら洗ってもらおうか」と納得して、青年のいうままに縁先に腰を下ろした。その足もとへたらいを持っていった青年は「さあ、ここへ足を入れて」というと、母親はいわれるままに足を入れた。
 青年は右手でその足を洗おうと思って、左手で母親の足を握った。だが握ると同時に青年は右手でよう洗わないで、両手で母親の足にすがりつくと声を上げて泣いた。握ってみて、母親の足がこんなに固い足になっていたのかということを初めて知ったからである。学生の時、毎月送ってくれる学資を「あたりまえ」のようにして使っていだけれど、あの金はお母さんがこんな固い足になって送ってくれていたのかということが、今初めて解ったのである(『PHP』四〇三号)──

●思いやりの心を生み出すもの
 今まで気づかなかった親の恩を、握っている固い足を通してはっきりと知った青年は泣かずにいられなかったのでしょう。恩を感じる素直な心が生まれたのです。翌日、いわれた通りの時間に会社に行った青年は、「恩の大切さを初めて知ることができました」と、うれしそうに社長にお礼を述べたということです。
 そして花岡氏は「親の“恩”にかぎらず、自分の暮らしが“あたりまえ”を超えたさまざまな“恩”に支えられて成り立っていることを“素直に”把持したとき、それはただちに、すみません、ありがとう。といった生きた言葉となって人間関係をパッとあかるくすることを、この青年の受けとった贈りものの感動的な話を通じでじっくりと考えてもらいたいと思うのである」と、話をしめくくっています。
 自分の暮らしに何ひとつ「あたりまえ」ということはなく、さまざまな恩に支えられ、生かされていることに気づいたとき、心はプラスに向かい、素直な感謝の念が生まれてくるといえます。
 感謝の心になることによって、心が広くなり、ゆとりもできます。そして、心が広くなり、ゆとりができることによって、相手の立場に立つことができ、思いやりの心がいっそう出てきます。さらに、自分のことをかえりみることも、よりよくできるのではないでしょうか。また、その積み重ねが、喜びをもって前向きに生きようとするエネルギーを生み出すことにもなるでしょう。
出典 広池学園出版部 編集発行 『ニューモラル選集⑥ 感謝の心で生きる』 pp.71-74
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布教使の心得

2013年11月03日 | セレモニー
本日(25.11.3)は当寺の報恩講。ご講師は滋賀県の鈴木善隆師、4年先の日程まで決まっている布教使で、元伝道院専任講師(布教を100日間合宿で学ぶ所)です。昨夜の会食の席は、布教使のマナーについて、懇切に教えていただきました。下記のその一端です。

報恩講の布教で、布教使が後門なら内陣を通って外陣へ行く場合は、黒衣に袴をつける。黒衣だけならば余間より、布袍であれば外陣からの入室です。…寺院へ宿泊したときの入浴のマナーは、石鹸に髪の毛がつくと取りにくい。その時は、その石鹸でお尻のあたりをこすると、毛髪は取れます…。

関東での説教は、切れ味を大切にする。たとえば先祖の数でも10代さかのぼると1024人、20代で1.048.576(累計2.097.150)、30代で10億7374万1824人などと、数を告げる。関西などでは、100万、10億人などとと話す。関西以南では、切れ味よりもあと味を大切にしています。あと味とは、最後にお寺に参ってよかったと思わせる説教です…(以上)

次回平成29年にお越しいただいたときは、近隣の住職たちと「布教使の心得」という学習会を持つことになりました。




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優生思想

2013年11月02日 | 日記
読売新聞朝刊(25.11.1)連載記事「揺れる命」②は、出生前診断をあつかっています。②では、ドイツの現状を紹介していました。
紙面には「かつてナチス政権下で、障害のある人への不妊手術の強制や安楽死などが行われたドイツでは、その反省から優生思想への懸念が根強く、生殖医療を巡っても慎重派と容認派のせめぎ合いが繰り返されてきた。」とありました。

記事を読みながら、7月に放送大学に耳にした、下記のことを思い出しました。

ラジオから「第二次世界大戦のときの、ナチスによるホロコースト(大量虐殺)は、人類史上もっとも大きな過ちのひとつであります。ナチズムは、決して「20世紀の狂気」ではなく 「20世紀の理性の結果」だったのです!…人間としての理想を強く打ち出すがゆえに、それに当てはまらない、と考える人々を差別し、排除していった。各国から強制的に連衡されたユダヤ人が約600万人のほかに、同性愛者、精神・身体障害者、重病者といった人々が、社会的な逸脱者の烙印を押され、合計で約500万人が殺された。精神疾患をもつ者や、身体的な障害をもつ者には、断種が行われた。(以上)

記事を見ながら気になったのは、実際にどれだけ犠牲者が出たかということです。ネット(http://homepage2.nifty.com/etoile/hansen/03eugenics.html)で見ると、

「第一次世界大戦後の1920年、法学者カール・ビンディング"Karl Binding" と精神科医アルフレート・ホッヘ"A. Hoche" は『生きるに値しない生命の抹消の解禁』という本の中で、「1.病気や負傷などで救済の見込みのない者、2.不治の白痴、3.重い病が原因で無意識状態に陥っているか快復してもその不幸に悩む者に対する安楽死」を求めているがこの当時はまだそこまで実施できる状況にはなかった。…… 安楽死計画はまさに第二次世界大戦と同日、秘密裏に開始された。作戦本部がシャルロッテンブルグ・ティアフルデン4番地に置かれたため、この計画は「T4作戦」と呼ばれた。
 1941年8月3日、グラフ・フォン・ガーレン司教は安楽死を批判し、後に逮捕されるが、T4作戦にも同月24日中止命令が出される。しかしこれも表向きに過ぎず、T4作戦は戦争末期まで続けられた。戦後のニュールンベルグ裁判によればT4作戦によって虐殺された人々の数は27万5千人とされている。」とあります。


他(http://blogs.yahoo.co.jp/pachinko_pride/44848103.html)にも、「歴史家らは、1933年以降のナチス政権下で、障害者安楽死計画のもとで殺害された身体・精神障害者の総数を20万人以上と見積もっている。近年では、同計画の下で虚弱体質の子ども数千人が殺害されたことも明らかになっている」ともあります。

“賢さへの憧れ”は、危険な思想を生み出す原因でもあります。「出生前診断」は、私たちの心の中に根ずく優生思想をどう克服していくかが問われているようです。
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父親の一言によって

2013年11月01日 | 日記
読売新聞(25.10.31朝刊)でよい話に出会いました。まずは新聞記事から。(以下転載)

薬物中毒を克服 歌手ライブに140人

 10代で薬物中毒に陥り、立ち直った経験を持つ歌手の杉山裕太郎さん(39)(さいたま市)の講演とライブが30日、松戸市民劇場で開かれた。約140人が聞き入った。
 杉山さんは、中学生時代にシンナーや万引きなどの非行に走り、高校中退や暴走族のリーダーを経て19歳の時、覚醒剤に手を出した。
 薬を打つ回数が増えて食減少。「このまま死ぬかも」と思った23歳の時、脳裏に一両親の顔が浮かび、実家に戻った。「仕事を探せ」と諭す父に「おめえらのせいでこうなったんや」と、薬を注射する姿を見せつけた。
 その時、父が「今まで何も知らなかった。おめえは大事な宝。立ち直るために何でも協力する」と号泣。「おれは愛されていた。今まで何やっていたんや」と思った。その後、2年かけて薬物中毒を克服。つらい時、たびたび音楽に励まされた経験から歌手になり、全国で歌とともに体験談を伝えている。(以下省略)


「ユウタ、お前はお父さんらの大事な息子だ! 一緒にがんばって、止められるように何でも協力する。お父さんたちが悪かった! お前がそんなに苦しんでいるとは知らなかった」と叫びながら、杉山さんを力いっぱい抱きしめ、泣いてくれたという。
 杉山さんは、ハッとして、世間体にしか興味がなく、自分への愛情などないと思っていた両親が、今、自分の悲惨な現実を目の当たりにして、自分のために泣いてくれている。その瞬間、杉山さんは、遠い幼年時代に両親から愛されていたことを思い出したと語っています。

そして、岐阜県にある朝日大学の法学部に入学、首席卒業。現在は、歌を歌い、親子関係を中心に、非行に走り覚せい剤におぼれていった自分のヒストリーを語っているそうです。

「父のその一言によって」というのが、阿弥陀さまの名号に通づるものがあり、記憶しておきます。
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