ゆるキャラの、人気投票発表がありました。ゆるキャラには、悪意も興味もありませんが、ふと“ゆるキャラの流行の理由”に思いが及びました。
分析するほど、現代社会をよく見ているわけではありませんが、格差社会や展望の見えない未来への、ぎすぎす感が、アットホームなゆるキャラを生み出しているようにも思われます。
しかし、ゆるキャラ流行の理由については、議論があるところでしょう。ゆるキャラ流行の背後に、現代の何を見ていくか。そこに、何者かを見出していくその人の現代に対する考えや価値観があります。
今朝、昭和56年録音の「宗教の時間」“鈴木大拙の日常生活”について、晩年(昭和41年7月12日死亡)、82歳の大拙に ニューヨークで出会って大拙が死ぬまで10数年間寄り添った岡村美穂子さんと、聖路加病院の日野原先生との対談を聴いて歩きました。
岡村美穂子さんは、14.5歳の折に、大拙師に出会った時のことを話されていました。
青年期の反抗期で、そうした悩みを抱えて、大拙師を訪ねた。師は涙を流して、岡村少女の手のひらを広げられて、美しい手ではありませんかと告げ、エマニュエル スウェーデンボルグのある12歳くらいの少女との話を紹介された。
少女はスウェーデンボルグに対して「神さま神さま、というけど、神さまは、どのような顔をしているのでしょうか。」と訊ねた。スウェーデンボルグは、少女を椅子に座らせ、ちょっと待ってなさいよと言う。カーテンを開いたらそこに神さまがいます、神さまの顔をよく見てごらんないさいといってカーテンを開く。そこには鏡があり、その鏡には少女の顔が写っていた。スウェーデンボルグは少女に「これが神様の顔です」と言った。(以上)
大拙師は、おそらく“あなたはかけがえのない存在である”ということを告げたかったのかも知れません。
ゆるキャラの話に続いて、この話を持ち出したのは、ゆるキャラ流行の上に何を見るかという点と、鏡に映った自分の顔の上に何を見出すかという共通点があるからです。この鏡の話、真宗だったら、鬼に合わせてあげようと、鏡を見せることもあります。自分の上に何を見出すか。それは仏教的に言えば「仏の眼に映っている私は何者か」ということでしょう。
分析するほど、現代社会をよく見ているわけではありませんが、格差社会や展望の見えない未来への、ぎすぎす感が、アットホームなゆるキャラを生み出しているようにも思われます。
しかし、ゆるキャラ流行の理由については、議論があるところでしょう。ゆるキャラ流行の背後に、現代の何を見ていくか。そこに、何者かを見出していくその人の現代に対する考えや価値観があります。
今朝、昭和56年録音の「宗教の時間」“鈴木大拙の日常生活”について、晩年(昭和41年7月12日死亡)、82歳の大拙に ニューヨークで出会って大拙が死ぬまで10数年間寄り添った岡村美穂子さんと、聖路加病院の日野原先生との対談を聴いて歩きました。
岡村美穂子さんは、14.5歳の折に、大拙師に出会った時のことを話されていました。
青年期の反抗期で、そうした悩みを抱えて、大拙師を訪ねた。師は涙を流して、岡村少女の手のひらを広げられて、美しい手ではありませんかと告げ、エマニュエル スウェーデンボルグのある12歳くらいの少女との話を紹介された。
少女はスウェーデンボルグに対して「神さま神さま、というけど、神さまは、どのような顔をしているのでしょうか。」と訊ねた。スウェーデンボルグは、少女を椅子に座らせ、ちょっと待ってなさいよと言う。カーテンを開いたらそこに神さまがいます、神さまの顔をよく見てごらんないさいといってカーテンを開く。そこには鏡があり、その鏡には少女の顔が写っていた。スウェーデンボルグは少女に「これが神様の顔です」と言った。(以上)
大拙師は、おそらく“あなたはかけがえのない存在である”ということを告げたかったのかも知れません。
ゆるキャラの話に続いて、この話を持ち出したのは、ゆるキャラ流行の上に何を見るかという点と、鏡に映った自分の顔の上に何を見出すかという共通点があるからです。この鏡の話、真宗だったら、鬼に合わせてあげようと、鏡を見せることもあります。自分の上に何を見出すか。それは仏教的に言えば「仏の眼に映っている私は何者か」ということでしょう。