仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

幸福の科学の愛は愛欲か?

2010年12月10日 | 日記
『週刊文春』(2010.12.17号)で、幸福の科学の「大川隆法「離婚トラブル」高輪署に駆け込んだ」というタイトル記事が掲載されていた。この教団のキーワードは「愛」です。自ら家庭のユートトピアを信者に語り、自身の家庭は崩壊している。こうした記事をみると、“やっぱり幸福の科学が大切にする愛とは愛欲なんだ”という結論となります。

話しが転回します。以前、“虐待やいじめ”について少しだけ言及し“つづく”としたことがあります。

虐待やいじめの原因について、ぼんやりとしたイメージとして“愛”ということを明らかんにすることが重要だという思いをもった。なぜならたとえば法然聖人は、9歳のとき、お父さんが争いの傷がもとで逝去された。その臨終にさいして子どもの勢至丸(法然聖人)に「私を殺そうとしたあの犯人を愛することのできる人間になれ」(意趣)と遺言された。その遺言を常に胸に奉じ修行して父が死んだ43歳のときに専修念仏に帰依しました。

親鸞聖人にしろ、法然聖人の門に帰依したキーワードは「凡夫の自分を愛する人間になる」ということです。

他人や自分を愛する。その愛とは何か。これが「自殺、虐待、いじめ」の渦巻く現代の日本にとって、とても大切なことのように思われます。

仏教で説く“愛”は、愛欲で迷いの一症状です。愛と憎しみは一体でひとつの感情の起伏そします。だから愛は縁によって憎しみに変貌することもあるのです。

孫引きですがエーリッヒ・フロム(ニューヨーク大学心理学者)は愛する力を「連帯と理解と尊敬と責任」であると語っています。愛欲には“尊敬と責任”はありません。愛欲は、どこまでに自分の思いと自分を優先する意識です。

ということは今の社会の中で足りないものは、この“尊敬”なのでしょう。物を人を縁を貴ぶ心、それが現代社会が意識して醸成しなければならない心なのだと思います。

いのちの尊厳。どのような状態のいのちであっても尊敬をもって見守り受け入れることのできる心、これが現代に真宗が存在意義を示すキーワードかもしれません。
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