昨11日(24.3.11)は、東日本大震災から一年、一日満杯のメモリアルデーといった感がありました。未明のNHKラジオ深夜便“明日へのことは”は、講演会「自然災害と日本人」と題して宗教学者の山折哲雄(H24.2.5多賀城市で収録)のお話、見事な言葉の運びで、一言一句変えることなく、そのまま製本できる内容でした。
そしてラジオもテレビも震災一色でした。といってもテレビを見たのは、大河ドラマ「平清盛」だけでした。ドラマは、西行の出家する場面で、一人に武士が信念のゆらぎの中での、1つの身の処し方を示す内容で、震災に通じるものがありました。
午前中の法事を終え、午後(1:30~3:30)は築地本願寺で中央仏教学院通信学生のお勤めの指導でした。受講生が、隣の建物で2時46分からはじまる「東日本大震災一周忌法要」でお焼香したいとのことです。これ幸いと、法要開始時剋に指導を中断して、法要初頭15分間参拝してお焼香、また帰って指導。学習会を終えた後、法要に参加すると、ちょうど輪番の挨拶、そしてその後の布教使によるご法話を聞くことができました。
さて震災一周年で思ったことは、震災災害を取り巻く“絆”とは何かということです。マスコミは“絆”と讃え、同時進行で、各地のガレキ搬入拒否を報道しています。
マスコミが讃えている“絆”報道を見ていると、自分は身は安全地帯に置いておいて、災害地で難民に寄り添う。その安全地帯ががれきの搬入で犯されそうになると、絆どころではない。そのような構図に映ります。
「自分は身は安全地帯に置いておいて、災害地で難民に寄り添う」ことが悪いと言っているのではありません。「寄り添うこと」と「搬入の拒否」を、完全に分離させて、「絆を大事にしている」といった甘い部分だけを垂れ流しのように放映している部分が気になります。
絆を求めて動く若者の行動を、どうとらえるかといった核心に迫る報道があってもいいだろう。というのは、昨日の築地本願寺での一周忌法要、満杯の参拝でしたが、若者のが姿が半分を占めていました。私はその若者の姿の上に「信念のゆらぎ」、もう少し具体的に言うと“常識ってなんだろう”“本当に大切なんのはなんだろう”といった本物探しの行動ではないかという思いを持ちました。
宗教者は、その道案内人となるべきだろう。
法要のご法話は、10分ほどでしたが、法話の中で、ある32歳の主婦が新聞に投稿した記事を紹介していました。ネットで調べたものを、そのまま紹介します。
『お母さんの悲しい気持ちを、全部もらってあげるよ』
「些細なことではあるが、納得できないことに不意に涙がでてしまった。 そんな私を見た4歳の長男が『お母さんの悲しい気持ちを、全部もらってあげるよ』と言った。慰めるでも励ますでもない、ただ寄り添って弱い私の心を小さな両手で受け止めようとするかのような言葉だった。悔し涙はいつしか感謝の涙に変わり、幾筋もほおを伝っては落ちた。 そして、思ったのだ。30年以上生きてきて私はこんなふうに人の痛みをまるごと受け入れようとしたことがあっただろうかと。 特に自分のこどもの、幼さゆえの小さな過ちに対して、まずしかることで正しさだけを押しつけていなかっただろうか。傷ついている子供の気持ちよりも自分の気持ちを優先させてはいなかっただろうか。 『お母さんは、あなたが悲しい時、あなたの悲しい気持ちをもらってないよね。ごめんね』と謝る私に『そんなことないよ』と言ってにこっと笑う息子。ただただ私を信じ切っているその顔に、許されていたのは、実は私だったんだと初めて気付いた。この日のことを忘れないでおこう、そう思った。」 (以上)
そして法話は、悲しみに寄り添うこのと大切さを話されたように記憶しています。
そしてラジオもテレビも震災一色でした。といってもテレビを見たのは、大河ドラマ「平清盛」だけでした。ドラマは、西行の出家する場面で、一人に武士が信念のゆらぎの中での、1つの身の処し方を示す内容で、震災に通じるものがありました。
午前中の法事を終え、午後(1:30~3:30)は築地本願寺で中央仏教学院通信学生のお勤めの指導でした。受講生が、隣の建物で2時46分からはじまる「東日本大震災一周忌法要」でお焼香したいとのことです。これ幸いと、法要開始時剋に指導を中断して、法要初頭15分間参拝してお焼香、また帰って指導。学習会を終えた後、法要に参加すると、ちょうど輪番の挨拶、そしてその後の布教使によるご法話を聞くことができました。
さて震災一周年で思ったことは、震災災害を取り巻く“絆”とは何かということです。マスコミは“絆”と讃え、同時進行で、各地のガレキ搬入拒否を報道しています。
マスコミが讃えている“絆”報道を見ていると、自分は身は安全地帯に置いておいて、災害地で難民に寄り添う。その安全地帯ががれきの搬入で犯されそうになると、絆どころではない。そのような構図に映ります。
「自分は身は安全地帯に置いておいて、災害地で難民に寄り添う」ことが悪いと言っているのではありません。「寄り添うこと」と「搬入の拒否」を、完全に分離させて、「絆を大事にしている」といった甘い部分だけを垂れ流しのように放映している部分が気になります。
絆を求めて動く若者の行動を、どうとらえるかといった核心に迫る報道があってもいいだろう。というのは、昨日の築地本願寺での一周忌法要、満杯の参拝でしたが、若者のが姿が半分を占めていました。私はその若者の姿の上に「信念のゆらぎ」、もう少し具体的に言うと“常識ってなんだろう”“本当に大切なんのはなんだろう”といった本物探しの行動ではないかという思いを持ちました。
宗教者は、その道案内人となるべきだろう。
法要のご法話は、10分ほどでしたが、法話の中で、ある32歳の主婦が新聞に投稿した記事を紹介していました。ネットで調べたものを、そのまま紹介します。
『お母さんの悲しい気持ちを、全部もらってあげるよ』
「些細なことではあるが、納得できないことに不意に涙がでてしまった。 そんな私を見た4歳の長男が『お母さんの悲しい気持ちを、全部もらってあげるよ』と言った。慰めるでも励ますでもない、ただ寄り添って弱い私の心を小さな両手で受け止めようとするかのような言葉だった。悔し涙はいつしか感謝の涙に変わり、幾筋もほおを伝っては落ちた。 そして、思ったのだ。30年以上生きてきて私はこんなふうに人の痛みをまるごと受け入れようとしたことがあっただろうかと。 特に自分のこどもの、幼さゆえの小さな過ちに対して、まずしかることで正しさだけを押しつけていなかっただろうか。傷ついている子供の気持ちよりも自分の気持ちを優先させてはいなかっただろうか。 『お母さんは、あなたが悲しい時、あなたの悲しい気持ちをもらってないよね。ごめんね』と謝る私に『そんなことないよ』と言ってにこっと笑う息子。ただただ私を信じ切っているその顔に、許されていたのは、実は私だったんだと初めて気付いた。この日のことを忘れないでおこう、そう思った。」 (以上)
そして法話は、悲しみに寄り添うこのと大切さを話されたように記憶しています。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます