先週の日曜日(24.3.4)、大河ドラマ平清盛を見ることができませんでした。
あらすじを見ると、「保延4年(1138年)、明子(演:加藤あい)が平清盛(演・松山ケンイチ)の長男・清太(後の平重盛)を生む。清盛の弟・家盛(演:大東駿介)もそれを祝っていた。」とあります。
この年から3年後、保延7年(1141年)・永治元年、平清盛24歳の時、今の岡山県稲岡である事件が起きています。それは法然聖人9歳の時です。法然聖人の父親が、土地争論に関連し、明石源内武者貞明に夜討をしかけられて殺害されてしまうのです。
その際の父の遺言によって仇討ちを断念します。
その部分を拙著『親鸞物語』から引いてみましょう。
「あれはそれがしが四十三才(一一七一)のときのことでありました。なんまんだぶ‥。その歳は、私が九歳のときに見罷った父の齢。争いで死んだ父はそれがしに、〝われを殺しにきたあの武者(むさ)を許せる人となれ〟との言葉を残して逝きました…。しかしその歳まで私は、憎しみと愛しさを越えた、ひろやかな心を体得することもなく、また正しい智慧を開くこともなく仏道を歩んでおりましたのじゃ。母の弟で叔父に当たる観覚房殿より仏道の手ほどきを受け、それから三十五年の春秋を重ねてまいりましたる…」
父親の遺言は、「敵を討つことなく生死解脱の道を求めよ」というものです。
清盛は54歳、外国との貿易を盛んにして、その結果、マラリヤで高熱をだし死んだといわれています。その部分も、拙著『親鸞物語』にも、少し触れています。
権勢を誇っていた平清盛は、源氏の勢いに巻き返しを図ろうとするさなかに命を落とした。治承五(一一八一)年閏二月四日、坂東追討の門出の日、夜半に発病して湯水も咽を通らなくなり、身体が火のついたような熱をもって悶絶して死んだ。ときに六十四歳であった。死に際して「仏事供養はすべからず、堂塔をも建つべからず。急ぎ討手を下し、頼朝が首を刎ねて我が墓前に置くべし」と言って恨みを残して死んだ。(以上)
かたや「敵を許せる人間となれ」、かたや「頼朝が首を刎ねて我が墓前に置くべし」です。二つの遺言をあげてみると、まさにこの世は輪廻によって成り立っていると思わずにはおれません。
あらすじを見ると、「保延4年(1138年)、明子(演:加藤あい)が平清盛(演・松山ケンイチ)の長男・清太(後の平重盛)を生む。清盛の弟・家盛(演:大東駿介)もそれを祝っていた。」とあります。
この年から3年後、保延7年(1141年)・永治元年、平清盛24歳の時、今の岡山県稲岡である事件が起きています。それは法然聖人9歳の時です。法然聖人の父親が、土地争論に関連し、明石源内武者貞明に夜討をしかけられて殺害されてしまうのです。
その際の父の遺言によって仇討ちを断念します。
その部分を拙著『親鸞物語』から引いてみましょう。
「あれはそれがしが四十三才(一一七一)のときのことでありました。なんまんだぶ‥。その歳は、私が九歳のときに見罷った父の齢。争いで死んだ父はそれがしに、〝われを殺しにきたあの武者(むさ)を許せる人となれ〟との言葉を残して逝きました…。しかしその歳まで私は、憎しみと愛しさを越えた、ひろやかな心を体得することもなく、また正しい智慧を開くこともなく仏道を歩んでおりましたのじゃ。母の弟で叔父に当たる観覚房殿より仏道の手ほどきを受け、それから三十五年の春秋を重ねてまいりましたる…」
父親の遺言は、「敵を討つことなく生死解脱の道を求めよ」というものです。
清盛は54歳、外国との貿易を盛んにして、その結果、マラリヤで高熱をだし死んだといわれています。その部分も、拙著『親鸞物語』にも、少し触れています。
権勢を誇っていた平清盛は、源氏の勢いに巻き返しを図ろうとするさなかに命を落とした。治承五(一一八一)年閏二月四日、坂東追討の門出の日、夜半に発病して湯水も咽を通らなくなり、身体が火のついたような熱をもって悶絶して死んだ。ときに六十四歳であった。死に際して「仏事供養はすべからず、堂塔をも建つべからず。急ぎ討手を下し、頼朝が首を刎ねて我が墓前に置くべし」と言って恨みを残して死んだ。(以上)
かたや「敵を許せる人間となれ」、かたや「頼朝が首を刎ねて我が墓前に置くべし」です。二つの遺言をあげてみると、まさにこの世は輪廻によって成り立っていると思わずにはおれません。
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