マルクス・ガブリエル「資本主義の本質」の続きです。
貨 幣
MG ここにひとつの問題があるとしましょう。資本主義は、それに対する解決策を示すことによって欲望が満たされると言うのです。しかし、何かを価値あるものと見なすことにも有効期限があるため、当然のことながらこうした解決策はそう長くは続きません。このことが意味するのは、本来そこには何もなかったわけですから、こうした方法で生み出された価値はすぐに消えてなくなるということです。消えてしまえば、あらゆるものが消えてなくなってしまうのです。ここには資本主義的エントロピーがあります。あらゆるものが構造の不明暸さのなかでたちまちのうちに消えてなくなります。そうした価値がすぐになくなってしまわないために、いまでは〔その価値が〕安定したものであるという印象をも売り出されなければなりません。現在私たちは、人類史のかなり早い段階で始まる単純な商品生産を超えた段階で〔商品を〕売っています。ひとつの商品を持ち、その商品にひとつのメタ価値を割り当てるという段階です。例えば〔そうしたメタ価値は〕貨幣というかたちを取っています。
ただそれは必ずしも貨幣である必要はなく、錯覚させるためにはほかの形式もあり得ますが、貨幣がやはりよく知られた度量単位です。いまや私たちは貨幣そのものを評価していて、貨幣はそれ自身がひとつの再帰的商品であって、貨幣のなかで商品の価値が貨幣の価値として示されています。
マルクスが同意するかどうかは彼と話さなければなりませんが、多くの貨幣理論家は、20ユーロ紙幣が実際には20ユーロの価値がないと信じているときに、まさに思い違いをしているのです。見てみろよ、この紙には20ユーロの価値になんてないぞ」と。一般的によく言われていますが、そんなことはないのです。
この紙そのものに価値があるのです。つまり、この紙、例えば紙幣、クレジットカードあるいはオンライン口座は純粋に架空のものではなく、まさに商品なのです。そうだからこそ貨幣はひとつメタ価値なのです。まずコカーコーラを欲して、次にコカ・コーラを売ってくれる相手を欲し、両者の欲望を満たすためにあるんぼが貨幣です。コカ・コーラを売りたい人も買いたい人も何かを欲しているわけです。つまり誰かが欲する貨幣とは、誰かが次するコカ・コーラと同じようにひとつの商品なのです。だからここでは再び誰かが欲する貨幣と誰かが欲する商品という二つのもののあいだのメタ的関係が作り上げられるわけです。貨幣はこの方法で安定的かものになります。商品しか持たなかったとしたら、それはすぐに消えてなくなってしまうでしょう。コカ・コーラを飲んで資本主義は崩壊です。だからメタ価値、商品を測るもうひとりの商品を生み出す必要があるのです。それが例えば貨幣です。
これは根本的構造です。すなわち、空っぽの欲望は構造を持つようになり、その構造は成長し、統一されていけばいくほど安定化していきます。しかしそうした構造は本来崩壊するものです。だから私は本質に関するヘーゲルのカテゴリーを使っています。有名ですが、ヘーゲルは本質について次のように言っています。「それは何もないところから何もないところへの運動であり、そのことによって自分自身に戻ってくる」。つまり私は、何かを債み上げないことで、絶えず何かについての印象を生み出しているわけです。何もない、何もないと言って私が中身のないジェスチャーを繰り返すことによって、それが何かであるかのような印象を生み出します。これはショーです。何もなかったところに何かを示し、中身のないジェスチャーをし、そのことによってそこに何かがあったかのような印象が生み出されます、これをどんどん増やしていけば、全体は構造を有することになります。それが資本主義の構造です。
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