「計画された偶発性理論」の基本は、仏教でいう従因至果・回因向果(因から果へ至る)の考え方なので、生き方の模索という点では結構ですが、苦しみの解決には不完全です。それは明日があるという前提の上に成立しているからです。仏教も従因至果を説きますが、浄土真宗は従果向因を重んじます。今という現実に立って過去にその原因を見出していく考え方です。
本来は、念仏の背後に如来の願いと行があるということを示すのですが、考え方そのものは、もっと普遍性があります。
私も20年前に、「偶発性理論」と似ている「偶然と必然」という話を書いたことがあります。
「偶然と必然」とはこんな話です。以下、拙著『仏さまの三十二相』より転載。
漬物といえば沢庵漬けです。沢庵は、沢庵和尚が発明されたとはご存知のとおり。なぜ、沢庵和尚の手柄になったかといえば、沢庵和尚が出るまでは、糠は漬物には使えなかった。江戸時代以前は、ご飯は玄米を食べていたので、糠は女性の白粉(おしろい)として用いられていた。それが江戸時代になると世のなかが平和になり、中国から殻臼(からうす)が入り普及して、白米を食べるようになる。白米を食べるので糠が豊富になった。それが三代将軍の頃。その糠に沢庵和尚が大根を漬けて、それが普及したとのこと。かくて、沢庵和尚は沢庵漬けの創始者の如く仏教以外の漬物の世界で有名となるに至ったのです。
国民が白米を食べ糠が豊富になる。その国には漬物の歴史があり、自ずから糠に大根を漬け、大根漬けが生まれる。これは歴史の必然のように思われます。
ところが、ちょうどその頃に生まれ合わせ、漬物に興味があった人が糠に大根を入れてみたら、うまい漬物ができた。これは偶然です。
この世のなかは、必然と偶然の織りなす絵巻物です。ところが私という意識は、歴史の必然には心が及ばず、偶然のできごとをすべてが自分の手柄のごとくに評価をします。自分を過大評価する慢心の持ち主の私を、阿弥陀如来は評価ではなく慈しみでご覧になったのです。(以上)
この「偶然と必然」の話は、偶然の出来事を自分の手柄とする慢心を、その偶然整った背後には必然があるという論法の中に、慢心のこだわりから解放させようと必然を持ち出しています。
どちらがという話ではなく、クランボルツ教授が“よりよいこだわりに至る方法”を提示しているのに対して、私の偶然と必然は、“今”という現実に立って、こだわりからの自由を問題としています。以上。
本来は、念仏の背後に如来の願いと行があるということを示すのですが、考え方そのものは、もっと普遍性があります。
私も20年前に、「偶発性理論」と似ている「偶然と必然」という話を書いたことがあります。
「偶然と必然」とはこんな話です。以下、拙著『仏さまの三十二相』より転載。
漬物といえば沢庵漬けです。沢庵は、沢庵和尚が発明されたとはご存知のとおり。なぜ、沢庵和尚の手柄になったかといえば、沢庵和尚が出るまでは、糠は漬物には使えなかった。江戸時代以前は、ご飯は玄米を食べていたので、糠は女性の白粉(おしろい)として用いられていた。それが江戸時代になると世のなかが平和になり、中国から殻臼(からうす)が入り普及して、白米を食べるようになる。白米を食べるので糠が豊富になった。それが三代将軍の頃。その糠に沢庵和尚が大根を漬けて、それが普及したとのこと。かくて、沢庵和尚は沢庵漬けの創始者の如く仏教以外の漬物の世界で有名となるに至ったのです。
国民が白米を食べ糠が豊富になる。その国には漬物の歴史があり、自ずから糠に大根を漬け、大根漬けが生まれる。これは歴史の必然のように思われます。
ところが、ちょうどその頃に生まれ合わせ、漬物に興味があった人が糠に大根を入れてみたら、うまい漬物ができた。これは偶然です。
この世のなかは、必然と偶然の織りなす絵巻物です。ところが私という意識は、歴史の必然には心が及ばず、偶然のできごとをすべてが自分の手柄のごとくに評価をします。自分を過大評価する慢心の持ち主の私を、阿弥陀如来は評価ではなく慈しみでご覧になったのです。(以上)
この「偶然と必然」の話は、偶然の出来事を自分の手柄とする慢心を、その偶然整った背後には必然があるという論法の中に、慢心のこだわりから解放させようと必然を持ち出しています。
どちらがという話ではなく、クランボルツ教授が“よりよいこだわりに至る方法”を提示しているのに対して、私の偶然と必然は、“今”という現実に立って、こだわりからの自由を問題としています。以上。