3日(25.12)の法話会、「生死も、“せいし”と“しょうじ”と読み方が違ってくると意味も違ってくる」と詳しくお話し下さいました。その話の中で「“利益”も“リエキ”と読むと、“もうけ、とく、利得”で、取っていくものであり、“リヤク”と読むと、賜るもの、授かるもので、賜るものだから“ご”もの字がつく」とありました。
ネットで「漢字が同じで読み方によって意味が異なる」で検索すると、こうした文字を多音字あるいは多言字というらしい。たとえば「悪」を「アク」と読めば「悪い」の意味で、「オ」と読めば「憎む」などの意味となる。
浄土真宗もそうした多音字があると思いますが、良く知られているのは「楽」でしょう。
楽 は、“たのしい”と読めば、苦しみがないことであり、“がく”(音楽)と読めば、音曲をそうずることです。 “ぎょう”とよめば、聖人は、『「楽」とはすなはちこれ欲なり、願なり、愛なり、悦なり、歓なり、喜なり、賀なり、慶なり』と深い意味を見出しておられます。
逆に同じ読み方でも、仏教と世間では、全く違う意味で用いられているのが宗教用語の宿命でしょう。たとえば「言語道断」は、「言いようのないほど間違っていること。もってのほか」ですが、正しくは「仏教語。真理は言語を越えて奥深いこと」を意味しています。
ちなみに“せいし”(生死)は「生きることと死ぬこと」(広辞苑)で、“しょうじ”は「生きることと死ぬことを繰り返すこと」(広辞苑)とりえい、仏教辞典には「迷いの世界」とあります。まさに「生死の苦海ほとりなし」は、この意味でしょう。
ネットで「漢字が同じで読み方によって意味が異なる」で検索すると、こうした文字を多音字あるいは多言字というらしい。たとえば「悪」を「アク」と読めば「悪い」の意味で、「オ」と読めば「憎む」などの意味となる。
浄土真宗もそうした多音字があると思いますが、良く知られているのは「楽」でしょう。
楽 は、“たのしい”と読めば、苦しみがないことであり、“がく”(音楽)と読めば、音曲をそうずることです。 “ぎょう”とよめば、聖人は、『「楽」とはすなはちこれ欲なり、願なり、愛なり、悦なり、歓なり、喜なり、賀なり、慶なり』と深い意味を見出しておられます。
逆に同じ読み方でも、仏教と世間では、全く違う意味で用いられているのが宗教用語の宿命でしょう。たとえば「言語道断」は、「言いようのないほど間違っていること。もってのほか」ですが、正しくは「仏教語。真理は言語を越えて奥深いこと」を意味しています。
ちなみに“せいし”(生死)は「生きることと死ぬこと」(広辞苑)で、“しょうじ”は「生きることと死ぬことを繰り返すこと」(広辞苑)とりえい、仏教辞典には「迷いの世界」とあります。まさに「生死の苦海ほとりなし」は、この意味でしょう。