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仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

現在志向バイアス

2025年07月25日 | 正しい絶望のすすめ
『世界は行動経済学でできている』(2025/2/27・橋本之克著)からの転載です。

「1年の計は元旦にあり」は、行動経済学的に誤りだった

立てた目標に挫折してしまう理由
「1年の計は元旦にあり」と言われますが、みなさんは年始に何か「今年の目標」を立てたでしょうか。

「今年中に10キロやせる」
「年間100万円貯金をする」
「資格試験合格を目指して勉強をする」

そんな目標の数々は、予定どおりに達成できましたか?

ちなみに私は、毎年年明けに「今年こそこれをやろう!」という目標を立てていますが、だいたい途中で挫折してしまい、ほとんど達成できたことがありません。
 詳しくは後述しますが、これには人間に共通の「習性」が関係しています。

例にあげた、健康や美容のためのダイエット、お金を貯めるための節約、試験に合するための勉強……。

 どれも現時点よりも先の利益を得るための行動ですよね。

 一方、目の前のお菓子を食べる、ネットで服を購入する、勉強のテキストを閉じてオンラインゲームをするなど、目標達成を妨げる誘惑の数々は、今この瞬問に手に入る利益です。
 私たちはしばしば、「将来手に入る利益」よりも。「目の前にある利益」を優先してしまいます。「やらなきやいけないのはわかっているけど、とりあえず後回しにして今はこれを楽しもう」と思ってしまいます。
 これを「現在志向バイアス」と言います。

「先送り」にまつわる一連の行動には、「現在志向バイアス」以外にも、さまざまな行動経済学の理論が当てはまります。

現状維持バイアス(315ページ)……変化を避けて現状を保とうとする心理。変わることによる損を避けようとする(例・今の仕事に不満はあるが転職の決断が できず、同じ会社に居続ける)。

決定麻痺(16ページ)……選択肢が多すぎて決断を先送りしたり、決断自体をやめ てしまったりすること(例・携帯電話の料金プランを見直したいが、プランやオプションが多すぎて、結局変えられない)。

・投影バイアス……(この状況が延々と続くと見込み、リスクを未然に防ぐ発想になり計画錯誤……計画の見通しがけいために達成できないこと(例・夏休みの始まりには宿題の計画を立てるが、拮局そのとおりに終わらずギリギリになる。

このように、「ついつい先送りしてしまう」という行動には、さまざまなバイアスが影響しているのです。

目の前の利益を優先したくなるのは「原始人」の名残?

「現在志向バイアス」とは、人が判断をする際に、未来よりも目先(現在)の利益を優先する傾向を指しています。
 目の前のおいしいお菓子を食べる「利益」と、そのお菓子を我慢して将来やせるという「利益」を比較すると、前者を優先してしまいます。
 前者の利益を受け取ってしまうと後者の利益を得られなくなるとわかっていても、目の前の利益を求めてしまうのです。
 その結果、口標を軽視したり、先送りにしたりしてしまいます。
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一貫性2

2025年07月25日 | 正しい絶望のすすめ
『世界は行動経済学でできている』(2025/2/27・橋本之克著)からの転載です。

私たちは「貫していない」からこそ「一貫性」を求める

「一貫性の原理」の背景には、無意識に-貫性のある言動をしようとする心理があります。
 脳科学者の中野仁子さんは、著書『新版人は、なぜ他人を許せないのか?』 (アスコム)の中で、「一貫性の原理」に関して次のように言及しています。

『一貫性の原理』というネーミングにも面白い事実が隠されています。この背景には、人間自身が本当は一貫していないという現実があるのです。だからこそ、『一貫性しているべきだ』という認知が働くことになったのです。
 私たちはそもそも一貫していないからこそ、「一貫していなくてはならない」という考えに縛られてしまうということですね。
 こうした考え方は、「人間は不合理な存在である」という行動経済学の考え方と通じるものがあるように思います。


「一貫性の原理」で相手に「お願いごと」を聞いてもらう

「一貫性の原理」を営業担当者がセールスで取り入れる例を紹介しましたが、普段の生活や人間関係にも活用することが可能です。
 本当のお願いをする前に、ほぼ確実に「イエス」と答えてくれる質問、お願いを積み重ねていくと、最終的には、こちらの要求を聞き入れてもらいやすくなります。
いきなりデートに誘っても、うまくいく可能性は低いかもしれませんが、次のような流れでお願いを受け入れてもらう状況が続けば、「良かったら今度食事でも……」という提案にもイエスを引き出しやすくなるでしょう(もちろん相手次第というところはありますが)。

・まずは共通の趣味を通して何か貸してほしいと頼む(本や漫画、ゲームなど)
     
・連絡するためにL‐NEなどを交換してほしいと頼む
     
・借りた本などが面白かったので感想を話したいと頼む

ちょっと応用すると、「悩みをしおらしく相談する」「頑張っている自分を演出する」という方法もあります。
営業でも、「自分だけでいいので話を聞いてはしい」の前に、「まだ新人で全然契約が取れていないんです。まずは練習が大事なので、どうか1分だけでも話をさせてください」と言うと、イエスを引き出せる確率が上がるでしょう。先はどのデートに至る要求で言えば、最近、あまり新しい本を読めていなくて、何か、すすめはありませんか?」などと切り出すと、相子の好きなものや興味も聞き出せるので、その先の小さな要求につなげやすくなると思います。

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一貫性の原理

2025年07月24日 | 正しい絶望のすすめ
『世界は行動経済学でできている』(2025/2/27・橋本之克著)からの転載です。


  • 小さな要求を受け入れると大きな要求を断りにくくなる

自分白身の行動、発言、態度、信念などについて、一貫していたいという心理は「一貫性の原理」と呼ばれます。
 人は、一貫性のある「ブレない自分でいたい」と思うものです。
 これは過去の自分と現在の自分の問に生まれる矛盾、そこから生まれる不快感やストレスを避けようとする無意識の行動です。その矛盾は「認知的不協和」(287ページ)であり、「一貫性の原理」による行動は「認知的不協和の解消」と共通点があります。
スタンフォード大学のジョナサン・フリードマンらは、2つの住民グループに「安全運転と書かれた大きな看板」を庭に立てさせてほしいとお願いしました。
グループ1 単純に、庭に看板を立てさせてもらいたいとお願いをする。
グループ2 まず”安全運転”の小さなステッカーを車の窓ガラスに貼らせてもらうお願いをし、その2週間後に庭に看板を立てさせてもらいたいとお願いをする。
 お願いを受け入れた割合は、いきなり本命の要求をされたグループーでは16・7%だったのに対して、まずは小さなステッカー、そのあとで本命の看板を要求されたグループは、76・O%にもなったのです。
 これには、一度承諾してしまったら、次のお願いも承諾しなければならないと考える、「一貫性の原理」が働いています。

一度顧客になると、顧客であり続けようとする意識が慟く
 小さな要求にイエスと言ったあとだと、大きな要求にもイエスと回答しやすくなることを利用した営業手法は、「フット・イン・ザ・ドア」と呼ばれています。この名称は、訪問販売でドアを開けてくれた相手仁対して、足を開き入れてドアを閉められないようにし、「1分でいいので、話だけでも聞いてください」と懇願する行為からきています。
 本当に1分話を聞くだけで終わるならいいのですが、売る側は、まず受け入れられやすいお願いを承諾してもらったうえで、徐々に要求の度合いを強めていくことを目論んでいます。
 また、一度「買う」という決断をした顧客は、そこに一貫性を持たせたいと考えるため、オプションなどの追加提案にも応じやすくなります。メインの契約ができた夕イミングで、「こんな付属商品もあるのですが……」と話をすると、格段に受け入れられやすくなるわけです。
このテクニックは、詐欺師たちもよく使っています。
 投資詐欺などでは、「まずは一万円から始めてみませんか?」などと少額の投資を持ちかけます。「まあ一万円なら、やってみるか」と相手が乗ってきたら、徐々に「もっと利益が出る商品があるんですが……」などと誘い、5万円、10万円……とどんどん金額を増やしていくのです。
 だまされる側には、二度受け入れてしまうと断りにくいという「一貫性の原理」が影響しています。
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赤光白光

2025年07月23日 | 正しい絶望のすすめ
本願寺新報一面の編集者コラム「赤光白光」、元旦とお盆号のみ執筆しています。8月I日号です。

 2 5 年ほど前、『hヒデide ありがとう!2000人のメメント・モリ』という本を出版した。X エックス JAPANのhide(松本秀人)さんについての書籍だ。1964年、横須賀市生まれ、ギタリスト。そのhide さんは1998年(平成10年)5月2日に逝去。5月7日、築地本願寺で葬儀が営まれた。5万人のファンが弔問に訪れ、当時大きなニュースとなった。葬儀の翌日も築地の本堂には若者たちがたたずんでいた。
▼その日から「hide 追悼ノート」が本堂に置かた。当初、2週間分のノートに記された言葉を分析してみた。若者は死後の世界を、どのような言葉でつづっているのかと思ったからだ。「そっちはどうだい」といった言葉が多い中、すべての人が記していたのが「ありがとう」。その次に多かったのが「いつまでも忘れません」といった言葉だった。
▼そらから半年後、ノートに記された内容がどう変わったのか、3冊のノートを調べてみた。その頃から「お元気ですか」という言葉が記されるようになった。そして、自分の近況が記されるようになった。
その時、本堂とは、亡き方と「お元気ですか」と対話することができる場所なのだと感じた。
▼亡き方との出会いの場は同時に、亡き方に見られている自分との出会いの場でもある。お盆は先祖の前にたたずむ時節でもある。それは先祖に見られている自分との出会いの時でもある。そして同時に、阿弥陀仏さまのまなざしの中にある自分と出会うことでもある。
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日本文化は絶滅するのか④

2025年07月05日 | 正しい絶望のすすめ
『日本文化は絶滅するのか』(新潮新書・2025/5/19・大嶋仁著)、先ず、著者が説く日本文化とは何か。以下転載します。

日本人ひとりひとりの情操

ふたたび西田幾多郎の哲学に戻ります。
彼のいう「無の場所」とか「絶対矛盾的自己同一」とかが深い宗教情操に発していることに気づいてはしいと思います。仏教とか神道とかいうよりも、自分自身を超えた「聖なるもの」を感じ取る感受性が、彼の哲学を成り立たせているのです。
 そのような感受性はどのようにして彼に宿ったのでしょうか。私にははっきりとはわかりませんが、おそらく幼少のときから彼にはそうした感受性が備っていただろうと思います。
 私の教育改革の第二案は、聖なるものへの感受性を幼少期から育てることです。それがないと、内省ということを知らない子どもばかりが育ちます。
 西田のように「矛盾」というものを自己のうちに引き受ける姿勢は、「これでいいのだろうか?自分は問違っていないか?」という内省の賜物です。そのような内省は、宗教的な「情操」なくして出てこないように思えます。晩年の『場所的論理と宗教的世界観』(一九四五年)が示しているように、西田哲学は、ある水準を超えて初めて見える宗教的な境地の表れなのです。
 私には、宗教的な感覚、あるいは宗教的感性が現代人には欠けている、というより皆無であるように思えます。例外はあるのですが、「宗教」そのものが一種のタブーになっているように思います。それはひとえに教育のせいで、人間にとって大事なことを疎かにし、試験の点数にしか興味を持たない教育をしているからです。日本文化かもう1度花ひらくには、この世界を「聖なるもの」と感じとる心を子どもたちに培わねばなりりません。
 「宗教教育をしろ」と言っているのではありません。「宗教」とはすでに出來上がった信仰体系であり、教義でもあるのですが、それとここでいう「情操」とは無関係のものです。
 言ってみれば、文明の最古から存在してきた人類の深い知性と情操、人類より高次の存在に対する崇敬の念、これを育ててほしいということです。
 「知性の発達は重視しないのか?」と問われれば、もちろん重視します。けれども、それは「宗教的な情操」が育成されてからの話です。脳科学の専門家が言うように、「情操」が育だないと理知も発達しません。日本の教育に欠けているのは、まさにこれです。
 人類がそのような感受性をもっていなかったとしたら、今ごろどうなっていたでしょう。これがあったおかけで欲望と行動に歯止めがかかってきたのだし、弱肉強食の毎日のなかでも、同類を憐れむことが時にはできたのです。人類が獣にならずにやってこられたのは、少なからずこの深い情操のおかけです。
 ところが、「近代」という時代はこの古来の「歯止め」を軽視するどころか、人類を不自由にするものと決めつけ、「権利に対する侵害」として弾劾するのです。近代社会は「自由」と「権利」を、「服従」と「義務」に優先させるため、人類から大切な「歯止め」を奪ってしまったのです。となると、倫理のない自由競争の社会となり、誰かが暴走しても、これを止める方法がないことになります。
 「法律があるじゃないか」というでしょうが、「法律」は人間がつくったもので、人智以上のものではありません。そのようなもので、発達してやまない人智を抑えられるでょうか?
 このように私か言うと、「お前の話は宗教家じみている」と批判する人がいるでしょう。「宗教」を避けたがる、あるいは拒否する心情はわからないではありませんが、この世の中、教育に関して「完全ニュートラル」はあり得ません。どのように「客観」を重んじているところでも、何かしらの価値観やイデオロギーは忍び込んでおり、それを全に排除することはできないし、第二教育の人本を決める政府にしても、一定の価値観に基づいて自らを支えているではありませんか。
 天皇制国家のイデオロギーを、「教育勅語」を通じて生徒に押しつけた戦前の教育を思い出してください。今の混迷の時代、古くから人類にある「情操」を育てることの何か悪いのでしょう。


 この大拙は、戦争に敗れて国民が悲嘆に暮れ、不安に嘆いている昭和一二年二九四六年)に、昭和天皇と皇后に向けて「仏教の大意」という講演を行なっています。彼なりの仏教理解をわかりやすく示したものですが、彼はそこで「大智」と「大悲」という二点にしぼって仏教を解説し、明治以来の日本がこの仏教をないがしろにしたことが一連の戦争を引き起こし、国民を悲惨に追いやったと熱烈に訴えているのです。
 そのときから八〇年近く経ったいま、これを読み返すと、「私がいたいことが書いてある」という思いがしてなりません。
 とはいえ、「仏教」に戻れというつもりはありません。先にも言ったように、既存の宗教に戻ることが「霊性」あるいは「精神性」を育てることにはなりません。日本人ひとりひとりが、「聖なるもの」への感受性を育てること、これが一番大切なのです。(完)
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