仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

現状維持バイアス

2024年04月13日 | 浄土真宗とは?

本願寺出版刊月刊誌『DAIJO』に2022年4月号から毎月、執筆者無記名のコラムに執筆しています。出版社から三か月は掲載しないでとのことで、期限切れから掲載しています。

24年12月号掲載文です。

現状維持バイアス

言葉には、人間の性質や情念、社会のあり様などを可視化するはたらきがある。三十数年前、幼稚園の講演会に児童精神科医の佐々木正美(1935~2017)先生をお招きしてお話を伺ったことがある。講演の中で、文化人類学者の我妻洋氏(1985年没)の話を引用しておられた。それは「他罰化」のことで、地球上、どのような民族であっても、経済的、物理的に豊かな地域や文化圏に住んでいる人間ほど、外罰性とか他罰性という感情を強くもつ。豊かさと外罰性、他罰性、貧しさと内罰、自己罰という感情は結びつきやすい。これは、人類としての特性だとのことだった。私はその話を伺って、自分の日常生活を振り返り他罰的な感受性を持っていることに「ほんと、ほんと」と頷くものがあった。言葉によって私の行動パターンが可視化されたということだ。 もう一つ例を引こう。私は毎朝、ウオーキングをしている。真冬の早朝は、布団から出にくい時もある。ある日のことだ。その日の寒さは厳しく「床から出たくない」という思いを持った。その時、前日、放送大学で耳にした「現状維持バイアス」の講義(『現代社会心理学特論』森津太子)を思い出した。その講義は、人は一〇万円得ることの喜びよりも、一〇万円を失うことの悔しさのほうが大きく、現状維持志向となりやすいとこことで、次のような内容だった。「実験参加者は三つのグループに分ける。第一の人たちにはマグカップが、第二の人たちにはチョコレートバーが与えられた。第三のグループには何も与えられなかった。その後、時間をおいて第一の人たちはチョコレートバーに交換する機会を、第二の人たちにはマグカップに交換する機会を、第三のグループにはマグカップとチョコレートバーの好きなほうを選べる機会を設けた。その結果、最初にマグカップを与えられた参加者の八九%、第二の人たち九〇%は品物の交換を希望しなかった。第三のグループが選んだのはマグカップとチョコレートバーがほぽ半々だった」。一度手にすると離したくないという心理が働くということだ。私は寒中の未明、床の中で講義を思い出し、現状維持バイアスの術中にある自分を思った。この現状維持バイアスを、経済の動向に組み入れたカーネマンは2002年にノーベル経済学賞を受賞している。これを「プロスペクト理論」といい人間の行動選択に関する理論で、同じ金額を得る場合と失う場合では、失うときの悲しみのほうが大きい。そのバイアスが、経済の意思決定に影響するという理論だ。これも言葉によって現実が可視化されたということだ。

話を元に戻そう。未明の寒さの中で、現状維持バイアスの講義を思い出したとき、この命が終わるとき、やはり「この生を手放したくない」という思いの中で、死を迎えるに違いないと思った。そして「なごりをしくおもへども、娑婆の縁尽きて、ちからなくしてをはるときに、かの土へはまいるべきなり」の『歎異抄』(浄土真宗聖典『註釈版』837-6)の言葉を回想し、なごり惜しという思いのままに、阿弥陀仏にゆだねて命を終えていくことのできるご本願の有り難さを思った。

浄土真宗のみ教えは、人間のもっている闇が可視化される教えでもある。「すべての人が救われる」とは、「すべての人が救われるみ教えでなければ、救われることがない存在である」ことが明かになることだ。『仏説無量寿経』には、阿弥陀仏の智慧と慈悲のはたらきを「威神極まりなし」(『註釈版聖典』11-9)「照耀極まりなし」((『註釈版聖典』33-12)と説かれている。それは、私の闇の深さと罪の重さが極まりがないからであり、阿弥陀仏の慈悲の深さとして、私の闇が認識されていくということでもある。

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オックスフォード英語辞典

2024年03月29日 | 浄土真宗とは?

本日(2024.3.29)の『産経新聞』に「オックスフォード英語辞典」という記事が掲載されていました。

 

【ロンドン=黒瀬悦成】オックスフォード英語辞典を出版する英オックスフォード大学出版局は28日までに、「katsu(カツ)」や「donburl(丼)」「karaage(唐揚げ)」といった日本語由来の言葉を辞典(電子版)に追加したことを明らかにした。

 英国で日本の食文化への関心が高まり、特に日本風のカレーライスにカツなどを乗せた「カツカレー」は大人気。英国での本格的なラーメンの浸透ぶりを反映し、豚の骨を何時間もかけて煮出したスープを意味する「tonkotsu (豚骨)」や、英国でもファンの多い宮崎駿監督のアニメ映画「千と千尋の神隠し」で主人公が食べたことで広く知られるようになった「onigiri(おにぎり)」も追加された。

 食べ物関連では「takoyakl(たこ焼き)」や「okonomiyakl(お好み焼き)」も入るなど、日本料理の人気ぶりが改めて裏付けられた

 日本のアニメ人気を背景に、「mangaka(漫画家)」や「tokusatsu(特撮)」も入った。陶器の修繕技法である「kintsugi(金継ぎ)」や絞り染めを意味する「shibori」も追加され、日本の伝統工芸への関心もうかがわせた。(以上)

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血脈相伝

2024年03月14日 | 浄土真宗とは?

昨13日、仏教婦人会総連盟の講師会で、覚信尼さま誕生800年にあたり、イベント等に関する議題が出ました。

覚信尼さまの功績は、本廟をつくりその留守職になったこと、『恵信尼文書』の起点となったこと。それと血脈相伝の基礎をつくったことなどが挙げられます。

会議の中で、以前『オックスフオード仏教辞典』の「親鸞」のなかに血脈相伝について表記されていたことをご紹介しました。

「親鸞」左右段落1頁のわたって記されているなかにある文言です。

「親鸞が興した宗派は創始者に遡(さかのぼ)る血統に権威を集中させている唯一の宗派である」

宗教界において開祖からの血脈相伝は東西本願寺は唯一の宗派で有るようです。

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社会的役割

2024年03月04日 | 浄土真宗とは?

本願寺出版刊月刊誌『DAIJO』に2022年4月号から毎月、執筆者無記名のコラムに執筆しています。出版社から三か月は掲載しないでとのことで、期限切れから掲載しています。

24年11月号掲載文です。

 

社会的役割

 

ある寓話がある。遠い異国の海辺に近い村では、丘の上の基地の砲台で、毎日、正午に号砲が鳴り、誰もがそれで時間を合わせるのが何百年もの慣わしになっていた。村にとって正午の号砲は、日の出や日の入りと同じく一つの自然現象で、午前と午後を区切る規則正しい出来事だった。一人の少年が、ふと疑問を抱いた。「あの大砲はいったいどうやってちょうど正午を知り、大砲を鳴せるのだろう?」。ある日、彼は丘を登り砲兵に尋ねた。「どうやって毎日ちょうど正午に号砲を鳴らしているんですか?」。砲兵はにっこり笑って、「隊長の命令さ。そのために隊長は一番正確な時計を身につけて、その時計の時間がいつもちゃんと合っているように管理しているんだ」と答えた。それを聞いた少年は隊長のところへ行ってみた。隊長は、精巧に作られ、正確に時を刻む時計を、誇らしげに見せた。「じゃあ、この時計はどうやって合わせるんですか?」。「週に一度、町まで散歩するときに、いつも必ず町の時計屋の前を通る。そのときショーウインドウに飾ってある立派な古い大時計に、この時計を合わせるんだ。町でも大勢の人が、この大時計を使って時間を合わせているんだよ」。
 次の日、少年は時計屋を訪れ、「ショーウインドウの大時計の時間は、どうやって合わせてるんですか?」と尋ねた。時計屋はこう応じた。「そりゃあ、このあたりの誰もが使ってきた一番確かな方法だよ。正午の号砲で合わせるのさ!」。

大砲と大時計。その時の常識にそった行動が、新しい常識を生み出し、常識が常に変化し続けていく。この寓話だと、いつの間にか、昼夜が逆転するということもありそうだ。

自分とは何者か。田中優子氏が『未来のための江戸学』に興味深いことを記されている。江戸時代、商人や武士は、同時にいくつもの名前を持つ傾向があった。仕事上で名乗る名、狂歌を詠むときの狂名、俳諧のときの俳名、絵画を描くときの雅号、文章の執筆に使う名前などである。アイデンティティは「自己同一性」と訳される。つまりは一貫性であり、他者との違いの認識である。多名とは無名、自己がないということは他者がいないということ。この価値観は、インドでは当たり前の感覚であり、これはアジア一般に共通していた可能性がある。江戸時代は、アイデンティティに価値を置かず、自己と他者を同時に考えられる文化、生命の関連と相互作用を感じ取る文化であったという。

人はその時代の常識によって人間性が色づけされる。近代に入り、1950年頃までは、社会で共有された価値観があり、その価値観に沿って行動すれば、周囲の人々から認められ、自分の行為の価値を確認できた。ところが近年は、価値観の多様化と共に、承認を得るための行動基準が見えないために承認不安が強くなっている。世間的な価値観に追従したり、自己責任という自分で決定しなければならない不安を生み出し、西洋的な個の確立がないままに自分探しをしていると言ったところが現代だ。

 常識は常に変わり続けている。であるならば、出来るか出来ないかではなく、どのように変わるべきなのかという一つの正しさを指し示すことも、本願寺派教団の社会的使命だろう。理想的な生き方。これは浄土真宗の信心の本質ではない。しかし教団である以上、社会的な役割を担っている。

宗教哲学者の西谷啓治(1900一1990)は、「現代には宗教がなく、宗教には現代がない」と説き、「仏教には社会倫理の問題が欠如している。…現代の人間の生活のもとに基本的な力として働いていることがなければならない」(『仏教について』法蔵館)と指摘している。生活の中で能動的に機能する信心のあり様を説くことが求められている。

 

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岩波 仏教辞典

2024年02月18日 | 浄土真宗とは?

刊行された『岩波 仏教辞典』(第三版)を図書館から借りてきました。

 

以下は、辞典の中にある「悪人正機」の表示です。

 

悪人正機

親鸞の言葉を記したとされる『歎異抄』の、「善人なをもちて往生をとぐ、いはんや悪人をや」という言葉に示される思想。人間はその本質において皆悪人であるがゆえに、自分を善人と思って「自力の作善に励むものよりは、悪人としての自己の本性を自覚して阿弥陀仏の本願他力にすなおに身をゆだねるものの方が、阿弥陀仏の救済の直接の対象であるとする思想である。

 かつては親鸞の思想の真髄とみなされたこともあったが、このような思想が親鸞自身の著作にみえないことから、今日では親鸞の中核的な思想と見ることは否定されている。親鸞においては、五逆や'謗法のような悪は,どこまでも厳しく否定されるべきものと見られている。

 また源智編『法然上人伝記』(醍醐本)にも近い思想が見られることから、もともとは法然に由来するとも言われる。なお顕密の高度な教行に堪えられない悪人を救済対象とする平安時代以来の〈悪人正機説〉に対して、衆生の本質を悪人とみる『歎異抄』の主張を〈悪人正因説〉と呼んで区別する説も提起されている。(以上)

 

「親鸞においては、五逆や謗法のような悪は,どこまでも厳しく否定されるべきものと見られている。」どのような意味か不明ですが、むしろ「五逆や謗法のような悪」を持つ身として阿弥陀仏の救いを喜ばれたのではないでしょうか。

 

「親鸞」も1173(承安3)~1162(弘長2)でした。本願寺派の太陽暦1163年は、まだまだ認知されていないようです。

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