仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

顔に取り憑かれた脳①

2024年09月18日 | 日記
6日早朝の深夜便「明日へのことば」は、大阪大学の中野珠美さんでした。顔の話で興味深かったので著書をもとめました。『顔に取り憑かれた脳』です。その本から転載です。

最近は、近赤外光カメラを使って、瞳孔の形状や角膜の反射光を計測することで、人がどこを見ているかを簡単に調べることができるようになりました。そこで、筆者らも映画やテレビ番組を見ているときの人々の視線を調べてみました。すると視聴者の視線は、登場人物を追いかげろように動いており、背後の風景にはまったくと言っていいほど向いていないのです。そして、やはり目と囗のあたりに視線は集中していました。これまでの研究を合わせると、見ている時間のおよそ6割は目を、2割は囗を見ることに費やしているようです。
 こんなにも人が目を好きこのんで見るのはなぜでしょうか。それは「目がものを言う」からです。ただそれはすべての霊長類が手にしかものではなく、人類の長い進化の歴史の中で獲得Λにりたものなのです。

「目」の進化
 人間の目がものを言うように進化した可能性を殼初に報告したのは、霊長類を研究する囗本人研究者たちです。彼らは、目の縦横比辛強膜(人でいう白目にあたる場所)の大きさをさまざまな霊長類で比較しました。すると、樹の上で生活している霊長類は目の形が円いのに対し(図1r2上)、地上で生活している霊長類は横に長く、強膜の露出面積が広いことがわかりました(図1-2中)。地上での生活は、敵や獲物がいないかを水平方向に幅広く見渡す必要があります。顔を動かすよりも、目だけ動かす方が使う予不ルギーは少なくて済むため、まぶたの割れ目が横長に広がり、水平方向の広い視野を見ることができるようにするためだったのだと考えられています。なかでも、人間の目は、断トツに横長で、強膜の露出面積も一番大きいのです(図1-2下)。
 さらに、強膜が白いのも重要な特徴です。チンパンジーなど、ほかにも白い強膜を持つ霊長類の個体の事例報告はあるものの、多くの霊長類は、強膜が肌の色に近い茶色です。そのため、黒目の位置がわからず、どこを見ているかが外からはわかりづらくなっています。そのおかげで、外敵や仲間からの不意打ちの攻撃を避けることができるのです。
 一方、人間は横長の白目を持つために、自分が今どこを見ているのかが他者に伝わりやすくかっています。そのおかげで、自分が関心を向けている対象に他者の目や注意を導くことができるようになりました。このように、人間の目は、外部から動きがわかりやすくなる方向に進化したために、社会的なシグナルの交信という新たな役割を持つようにだっ
たのです。つまり、私たちが他者の目ばかり見てしまう癖に、他の霊長類とまったく違う
適応戦略をとったことの表れと言えるのではないでしょうか。縄文時代の人々は集団で狩


、現代の私たちは脳の前頭部が大きく拡大したために額が前方に張り出し、その代
わり、目の上の骨の出っ張りはほとんどありません。ただし、眉毛だけは残り、平たくなった顔の中でかえって目立つようになりました。しかも、骨が引っ込んだおかけで、眉を動かすことも簡単にできるようになりました。眉毛の役割は、一般的には汗が目に入るのを防ぐためと考えられていますが、それだけでなく、内に抱えるさまざまな感情を外に表すことができるようにもなったのです。おまけに、眉毛の形が大によってさまざまなので、顔を見分ける際にも役に立ちます。このように、人の眉毛も、目と同様に進化を通じて社会的なシグナルを発信する機能を持つようになったのです。(つづく)
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「ふつう」という檻

2024年09月17日 | 現代の病理
『ルポ 「ふつう」という檻──発達障害から見える日本の実像』(2024/7/19・信濃毎日新聞社編集局著)からの転載です。

まえがきより
取材を始めると、学校や、障害がある子どもたちを放課後などに預かる放課後等デイサービスで、「良かれ」と思う指導が子どもたちを傷つける現実かおり、そうした「傷」は大人になってからもうずき続けていました。もちろん、すべての先生たちが子どもを傷つけているわけではありません。しかし、学校や社会が規定するものから外れてしまった大たちが発する痛切な「SOS」かおる。根っこに目を凝らすと、大大たちの意識の底にある「ふつう」が立ち現れてきました。
 深い森の中を歩くような取材が始まりました。
 「『ふつう』が呪縛になっている現実、『ふつう』とは何なのかを問い直す方向を模索しよう」
 「『ふつう』の側にいる集団、その仕組みや言葉を含む文化が、発達障害の増加を生み出しているのではないか」
 「彼ら彼女らの『生きづらさ』の物語を聴くことを通して、人の内面にある『ふつう』を揺さぶりたい」
 取材班は取材と議論を重ね、発達障害を切り囗に、人の意識や社会の仕組みを掘り込んでいく方向性を見定めていきました。
発達障害に分類される特性は、子どもの頃に現れるとされています。その後の生活や学びのために早期の発見・支援が必要とされ、多くの場合、その特性は乳幼児検診で保健師によって見いだされます。ただ、そこからつなぐべき医療の体制は脆弱です。義務教育に進む際も連携は十分とは言えず、特性に合った学びの場はとこにあるのか、多くの親子が「ふつう」と向き合って立ち尽くし、葛藤の中にありました。
 矛盾が詰まっていると痛感したのが、「インクルーシブ(包み込む)教育」をうたっているはずの学校現場でした。
 「インクルーシブ教育システム」の推進は2012年、中央教育審議会が打ち出しました。一方で、発達障害だと早期発見される子が増えるのに伴い、義務教育では通常学級から分かれた特別支援学級は増加の一途。特性が発見された子は、「ふつう」の子たちから分けられていくのです。国連は22年、日本の特別支援教育は「分離」教育だとして改善するよう勧告しました。分離の先にある学びの場には、「包み込む」理念とは懸け離れた現実がありました。(以上)

普通でないことに苦しんでいる方が多いいようです。
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「感動ポルノ」と向き合う 障害者像にひそむ差別と排除⑤

2024年09月16日 | 現代の病理
『「感動ポルノ」と向き合う 障害者像にひそむ差別と排除』(岩波ブックレット・2022/1/7・好井裕明著)からの転載です。

障害者を過剰に評価し、遠ざける穴--障害者はすべて優しく優れた存在なのか
 ドラマではよく、優しく優れた障害者の姿が描かれます。周囲への配慮も行き届き、他者への思いやりも深い姿を見て、私たちが、やはり障害という大変さを経験しているだけあって、他者の痛みや苦しみに共感できる力が深いな、人間的にも人格的にも優れたものを持っているなと思わず感動してしまうとき、私たちはどのような穴に落ちてしまう危うさの手前にいるのでしょうか。

 確かに障害は、それを経験したことのない人にとって、にわかには理解しがたいものだと思います。障害をもつことで、それまで想定もしなかったようなさまざまな困難や生きづらさと直面することも事実でしょう。そうした困難や生きづらさと向き合い、それを越えていくことで、そのような体験のない人々からは想像もつかないような他者への深いまなざしを得ることもあるだろうと思います。

 優しく優れた障害者の姿に感動し、彼らは障害を克服することで、すべて人間的に深く人格的にも高い存在となるのだと、もし私たちが思い込んでしまうとすれば、それは実際生きている多様な障害者の姿とは明らかに異なるものであり、障宍者を理解することの妨げとなるでしょう。
 またこうした思い込みを障害者当事者の視点から見直してみるとどうでしょうか。障害者は障害を克服することで素晴らしい人格を備えた優れた存在になるという信奉が強いられるとき、障害者は聖人君子たるべき、障害をもつ子は人々からの配慮に感謝する良い子たるべきといった力がはたらき、それは、周囲の視線を気にすることなく自由に好きに生きたいと考える障害者にとって確実な権力行使であり余計なお世話となるのです。
 差別とは、相手を自分よりもドに向けて貶め、白分の世界から遠ざける営みです。しかしそれだけが差別する営みではありません。相手を自分よりも高みに上げて、自分の世界から遠ざける営みもまた、相手から確実に距離をとり、自分と交信し交流できる機会を遮断してしまうという意味で相手を分け隔てるものだといえるのです。美しい障害者イメージや表象に素朴に感動してしまうとき、私たちは「障害者を高みに上げ、遠ざける」という穴へ思わず落ちてしまう危うさの手前にいるのです。(以上)
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「感動ポルノ」と向き合う 障害者像にひそむ差別と排除④

2024年09月15日 | 現代の病理
『「感動ポルノ」と向き合う 障害者像にひそむ差別と排除』(岩波ブックレット・2022/1/7・好井裕明著)からの転載です。


障害を個人化する穴―障害は個人のせいであり個人が克服すべきものなのか
 二つ目は、障害を克服し新たな能力を鍛えるのは、あくまで当事者個人だという前提です。
 一人で努力する姿は、私たちに感動を与えることは確かです。しかしその姿を素朴に承認し評価し、感動するなかで、個人が障害を負えば、それと対峙し克服するのも当の個人だという了解が私たちの常識で生き続けるのです。
 でも、はたして障害はすべて個人が引き受けるべきものなのでしょうか。
 日本でも障害者自立の思想が根づき、当事者の自立生活運動が確実に広がり、障害学の成果も蓄積され、もうかなりの時間がたっています。そこでは障害と社会、障害と文化の関係も深く見直されています。こうした障害者の自立をめぐる思想や研究成果の核心にあることが「障害の社会性」という見方です。
 障害の社会性とはいったい何を言っているのでしょうか。そこにはノーマライゼーションという社会変革の思想が息づいています。ノーマライズとは辞書で引けば、正常化するという意昧が出てきます。ただそれは個人としての人間を正常にすることではありません。社会を正常化することがノーマライゼーションの思想であり、めざす実践です。
 この発想で考えれば、いま私たちが暮らしている社会が正常な状態ではないということになります。障害を含め、さまざまな差異を持つ多様な人間があたりまえに暮らすことができていない現状があるとして、そうした社会の現状を誰でもが人間としてあたりまえに暮らせるよう、社会を変革することがノーマライゼーションなのです。

障害の社会性という見方。それは、安全でスムーズな移動を妨げられるといった物理的環境で障害者が体験する不便や不利益を変革していくことだけではありません。生活全般にわたる彼らが感じ体験する生きづらさの原因は、社会や私たちが生きている生活世界のありようこそが問題なのであって、障害者個人の障害が原因なのではない、という見方です。
 さらに言えば、「あたりまえの社会」を創造するために、障害者が体験する生きづらさを分析し、それを解消する社会的文化的な改善や新たな発想を生み出すぐにみは、障害をもつ人々にとってプラスになるだけではありません。たとえば段差を解消するスロープは障害者の移動にとってプラスですが、高齢者など他の多くの人にとってもプラスなのです。誰でもが利用しやすい空問づくりであるユニバーサルデザインという発想が象徴するように、結果として障害者たけでなくすべての人々にとってより生きやすくなる生活世界の創造へ繋がるのです。
 都心などの駅のエレベーターにはユニバーサルデザインを意図した表示があり、私たちがより生きやすい生活世界の創造はいま確実に進んでいます。しかし他方で、例示したコミックやドラマのように、障害を個人化し障害者の努力を過剰に評価する表象が生み出され続けることで、私たちが障害者の実社会で感じる生きづらさを当事者個人の問題へと勝手に矮小化させてしまう危うさが常に生き続けているのです。(つづく)
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「感動ポルノ」と向き合う 障害者像にひそむ差別と排除③

2024年09月13日 | 現代の病理
『「感動ポルノ」と向き合う 障害者像にひそむ差別と排除』(岩波ブックレット・2022/1/7・好井裕明著)からの転載です。

障害を無効化し無意味化する穴―障害は完全に否定すべきものなのか
 私はこうした感動をすべて否定するつもりはありません。そうではなく感動するあまり、コミックやドラマのなかに暗黙知として息づいている障害や障害者を了解する前提や了解の仕方に含まれているワナに、私たちが思わず知らず囚われてしまうことが問題だと感じるのです。
 その一つは、障害を無効化し無意味化しようとする、すなわち障害とは完全に否定すべきもの、消し去ってしまうべきものだという前提です。
 もちろん、ある能力を失わせた原因は障害そのものであり、能力が失われたことにいつまでも固執していても仕方がない。残っている他の能力を鍛え、新たな人生を創造すべきだというリハビリテーションの思想や治療は、障害者が生きていくうえで重要なものでしょう。
 そうであるとしても、障害それ自体は完全に否定し消し去るべきものなのでしょうか。
第二章でも述べていますが、中途障害を負ったアスリートがパラアスリートヘと変容する過程でもっとも重要な契機が「障害を受容すること」です。アスリートは、最初障害を負った身体をそうでなかった身体と比べ、否定的に捉え、嘆き苦悩します。しかしいくら苦悩しても身体はもとどおりになることはありません。嘆きや苦悩に満ちたさまざまな体験をするなかで、アスリートは、障害によって変貌した自らの身体と向き合わざるを得なくなるのです。これが今の自分であり、まずは今の自分を認めることからしか新たな人生は拓けてこない。そのように前向きに考え始めるとき、アスリートは自分の身体や精神を変革する新たな創造の契機として障害を受け入れ、障害があるという新たな自分の存在を丸ごと承認していくのです。その結果、完全に否定したり消し去ったりするのではなく、障害を自分の一部として受容したうえで、新たな他の能力を鍛えていくのです。
 また、障害者の自立生活運動において、ピア・カウンセリングという重要な実践があります。
それは先に自立生活している当事者がこれから自立しようとする障害者と向き合い語りあう営みです。この営みでも重要なポイントが、自分の障害を肯定的に認め直すということです。生まれつき障害をもつ当事者は、周囲から障害に対して否定的意味を投げかけられ続け、それを内面化してしまっている場合が多いのです。いわば否定性に呪縛されているのですが、あなたの障害はあなた自身を肯定する一部であって、決して否定的なものではない、と同輩の当事者が自らの体験をもとに語りかけ、相手を呪縛から解き放つ濃密なコミュニケシンヨンがそこにあるのです。
 今一度確認したい重要な点。それは、当事者は障害を否定し消し去りたいものとして理解しているのではなく、自分の身体、自分の存在の一部として障害を肯定し承認し受容しているという事実です。
 しかし、先にあげたコミックやドラマでは、障害を肯定し承認し受容する過程が丁寧に描かれることはありません。失望や苦悩から立ち上がる姿がことさら強調され、当事者が新たな能力を鍛える姿が価値づけられ、中心的に描かれているのです。
 リハビリに頑張り、残存能力を鍛える障害者の姿だけに感動してしまうとすれば、あまりにも感動が与える光が眩しく、私たちのまなざしから無効化し克服すべき対象として障害を考えるのではなく、自らの身体や生の一部として受容しそれとともにどう生きていくのかを考え実践する障害者の姿が消えてしまう危うさがあるのです。
 私たちのまなざしとは健常者中心社会にとって支配的な見方といえるのですが、そこで障害は否定すべきものであり少しでも早く克服すべきものだという見方が安定してしまうとすれば、障害自体が持つ意味や意義などを考える余裕がなくなり、私たちは障害を無効化することで当事者は障害を克服していくのだと思い込めるようになるのです。
 こうした思い込みは障害をもつ当事者にとって確実に生きづらさを強いる権力行使となります。障害も多様であるように障害者もさまざまです。障害を克服したいと頑張る人もいれば、障害と折り合いをつけ自分なりの人生を生きようとする人もいます。多様な障害者の人生をある思い込みから勝手に価値づけ庠列づけるとすれば、それはまさに大きなお世話ではないでしょうか。(つづく)
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