仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

ことばが変われば社会が変わる①

2024年10月02日 | 日記
『ことばが変われば社会が変わる』(ちくまプリマー新書463・2024/7/10・中村桃子著)、頭の部分だけ目見ましたが興味深い内容です。

一九八〇年代まで日本には「セクハラ」ということばはなかった。
 「セクハラ」ということばがなかったから、セクハラはなかったのだろうか。そう考える人はほとんどいないだろう。むしろ、「セクハラ」ということばが広く使われるようになった結果、セクハラが目に見えるようになったのではないか。
 「セクハラ」の例は、ことばには、社会の見方を変化させる力があることを教えてくれる。社会の見方が変われば、社会は変化する。新しいことばが、社会を変化させたのだ。
(中略)
もうひとつは、「社会構築論」とも呼べる考え方だ。この考え方を唱えたのが、哲学ミッシェル・フーコーだ。第一章でも見るように、フーコーは、ことばは単に社会の変化を反映しているのではなく、ことばで語ることによって、その語っている現象が社会的に重要な概念になると指摘した。この、「言語」が「社会」を「構築」するという指摘は、物事の見方が百八十度変わることを意味する「コペルニクス的転回」になぞらえて、「言語論的転回」とも呼ばれる。
 「セクハラ」の例で言えば、人々が「セクハラ」ということばを使い始めたことで、それまで長いおいた放置されてきた行為が、被害者を苫しめる犯罪として社会的に重要な概念になった。
 社会構築論は、ことばと社会は別々なのではなく、両者は密接に関係しており、社会変化がことばの変化をうながすと同時に、ことばの変化も社会変化をうながすという形で、両者の変化がお互いに影響を与えて、ことばと社会が一緒に変化していくと考える。(つづく)
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生きづらさ

2024年10月01日 | 浄土真宗とは?
本願寺発行の月刊「大乗」10月号が送られてきました。今年の4月~連載している「なるほど仏教ライフ」10月号の執筆原稿の転載です。

「生きづらさ」を感じる人が多いという。この「生きづらさ」という表現は、1990年代後から徐々に新聞紙面上での登場回数を増やし、2000年代後半に大幅に増加して今日に至っているという。令和6年版 厚生労働白書でも、―人々が「生きづらさ」や孤独・孤立を感じざるをえない状況を生む社会へと変化してきたーと指摘されています。「生きづらさ」の内容と原因は、色々と説かれていますが、一つに、インターネットの普及等によって「思い通りになる」という万能感が増長し、逆に「思い通りにならない」現実が「生きづらさ」として実感されることがあるようです。
日常生活の行動や感情の起伏の多くは、無意識のうちに行われています。たとえば「目の前に髪の毛が落ちていたら、なぜ汚いと思うのだろうか」、『身体と境界の人類学』(浮ケ谷幸代著)によると、髪や爪は本来、頭部にあり手の先にあるものです。それが本体から切り離されて、違った形態で目にさらされると、あるべきところにないことから、人に不安や落ち着きのなさを抱かせる。身体から離れた身体の一部、あるべきところにないものとして、「汚い」「気持ち悪い」「居心地悪い」「不安」という思いをもつとあります。本を読みながら「なるほど」と思ったことです。私たちは、無意識の中にある「普通」に支配されています。
無意識下にあるものを意識化する。これは心理学をはじめ、さまざまな分野で研究されていることです。これは浄土真宗においても言えます。無意識下にある普通の一つに、人は思い通りになったことの中に喜びや安心を見いだすことがあります。欲望というギラギラしたものではなく、当たり前の普通のことです。しかしその普通が私を苦しめるのです。
以前、終末期にあるKさんという女性とお会いしたことがあります。Kさんは、手術後の胃がん再発で治療を断念して、訪問ケアを受けておられました。ご自宅にお伺いすると、一方的に子どものときからのことを取りとめもなく語られました。それは、いまの惨めな現実の原因はどこにあるのかといった回想をされているようで、家庭や人間関係のなかに生じている不幸の原因は自分にあったという後悔と、では自分はどうすれば素直な自分になれるのか。諦め切れない悔しさ、やり直せたらやり直したいという思い。こんな思いや後悔を持ちながら死んでいかなければならない不安を語られたあと、私を見つめ「「なぜ、わたしはこんなに苦しまなければならないのか」という問を投げかけてこられました。私は率直に「それはあなたの欲が深いからです」と言いました。それから十分くらい会話をしていたら、突然「わたしはなぜこんなに欲が深いのか」と大きなため息をつかれたのです。
その後、担当の医師からいただいたメールには、「Kさんは、ご家族に看取られて亡くなりました。心の葛藤は最後まで続いていましたが、次第に険しさ、厳しさは和らいでいきました。特に西原様のお話のなかで安心する部分があり、明らかにある種の変化が感じられました」と記されていました。
Kさんを苦しめていたものは、「思い通りになったことのなかに安心する」という無意識の感情であったようです。その無意識の中にある私が明らかになるとき、その苦しみを違う視点で捉えないすことができるようです。
私の中にある最も見えにくいことは「煩悩を具足せる凡夫人」(浄土真宗聖典『註釈版』550項)であるということです。阿弥陀仏の摂収不捨の救いを領受するということは、凡夫である私が可視化されることであり、その凡夫の私を仏と同質の存在と見てくださる阿弥陀仏の智慧と慈悲に開かれて行くことでもあります。
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体調不良

2024年09月29日 | 日記
26日、富山泊、21時頃より身体に蕁麻疹ができ、27に病院で処方箋を頂き.服用していますが28、本日と寛解となっていません。25日は、午前中は、彼岸の法話出向、午後は電話相談と、少し疲れはあったものの、それが原因というほどでもありません。昨日、9月に入って受診した健康診断の結果が届きました。、血液検査で、大方のアレルギー反応の結果が記されていて、スギ花粉とヨモギにチョックが入っていたでの、26日夕食で食べたカニは蕁麻疹の原因ではなさそうです。10月に入ると、一日の築地の会議、委員はズーム参加ですが、私は委員長を仰せつかっているので築地へ行きます。4日は。本願寺の会議、これも現地に出向です。

26日朝、喉が痛く、熱ぎみであったのが、サインであったのかも知れません。
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「死にたい」と言われたら ――自殺の心理学⑤

2024年09月26日 | 現代の病理
『「死にたい」と言われたら ――自殺の心理学』(2023/6/8・末木 新著)からの転載です。

 第一に、男性は女性に比べて自殺潜在能力、つまり、自己の身体に対してダメージを与える力が高く、より致死的な方法で自殺企図を行います。そのため、自殺死亡は男性の方が多くなります。一方で、女性の方はなかなか致死的な方法で自殺企図ができないため、自殺未遂(自殺企図の結果、助かったケース)が男性よりも多くなります。一般に男性の方が自殺潜在能力が高いのは、生まれ持った素囚もあるでしょうし、培った環境の力(例一暴力に慣れ親しし可能性)が高いこもあると思われます。
 第二に、男性は女性に比べて所属感の減弱を経験する可能性が高く、孤独になりがちです。あなたの周囲の人を見てみましょう。男性と女性、どちらが友人が多そうでしょうか。言うまでもなく、女性の方が平均的に見ては対人関係のスキルが高く、充実しています。中高生の女子のグループを見ていると、人間関係が複雑で大変そうだなと思いますが、そのような経験を経ることによって、女性は男性に比べて高い対人関係スキルを得て、さまざまなところに対人関係を忤っていくことができるようになります。これが、女性の方が男性よりも自殺率が低い大きな要因です。
 たとえば、離婚や死別は遺された人の自殺の確率を高めますが、その影響には性差があり、男性の方がより強い影響を受けます。夫の持っている対人関係は元々少なく、妻の影響力は大きなものです。一方、妻の持つ対人関係は夫よりも多いため、夫がいなくなることの影響はそれほど大きくありません。そのため、離婚や死別の悪影響は、男性の側により大きなものとして現れるというわけです。一応、これらを経験した女性の自殺率も多少は上がるので、妻にとって自分は重要じゃないんだと落ち込んだ男性の皆さんは安心してください。私も含めて、男性側は、こうした点を考慮し、妻のことをより大切にすべきでしょう。それが自分自身のためなのですから。
 話がややそれたので戻しますが、第三に負担感の知覚についでです。男女共同参画が目指される社会にはなってきていますが、「男は稼いでなんぼ」とか「男は人前で泣くべきではない」といったジェンダー規範は根強いものがあります。そのため、何か困ったことがあった時にも、自殺や精神障害に関するスティグマを男性の方はより強く感じ、相談行動は強力に抑制されます。「いのちの電話」などの社会に問かれた匿名の相談の場であっても、その利用者は圧倒的に女性の方が多いものであり、男性の方はスティグマを内面化して相談をしないため、ますます自分で抱え込むという対処しかできなくなります。そして、それでうまくいかなければ(多くの場合、ちゃんと働いてなければ)、自分は社会のお荷物だと一人で負担感の知覚を感じる状態が続くことになります。(以上)
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「死にたい」と言われたら ――自殺の心理学④

2024年09月25日 | 正しい絶望のすすめ
『「死にたい」と言われたら ――自殺の心理学』(2023/6/8・末木 新著)からの転載です。

 理論を使って世界を眺め、理解する
 学術的な理論というものは便利なもので、こうした考え方を知っていると、世界の複雑な現象が理解しやすくなります。」つ、具体的な例を挙げながら、自殺に関する事象・傾向を理論を使って見通してみたいと思います。
 皆さんは、どのような人の自殺率が高いと思っているでしょうか。国や地域によって多少のバラツキや傾向の違いはありますが、共通点も多々あります。男性の自殺率は女性の自殺率よりも通常は2~3倍程度高く、これは、歴史的に見ても地域的に見ても普遍性のあることです。自殺というのは子どもに多いものだと勘違いしている人も多くいますが、通常子どもの自殺というのは極めて少なく(だからこそ、ニュースなどで取り上げられることか多いわけですが)、大人の方が自殺率は高くなります。つまり、中高年男性が最も自殺率の高い人々ということになります。
 ではなぜ、男性の自殺率は女性のそれよりも高いのでしょうか。この問いに対して、「男性の方が生きづらい世の中だから」とか、「男は仕事が大変でストレスが多い」とかそのように考える人は多くいますが、これは十分な答えではなく、少なくとも、ここまでに説明した理論や危険囚子の話を理解しているとはいえません。現状の日本社会では、確かにまだまだ一家の稼ぎ手は男性であることが多く、そのストレスやプレッシャーは大きなものでしょうが、たとえば、平均的に見ると、女性の方が男性よりも抑うつ度は高いものですから、必ずしも男性ばかりがつらいわけではありません。
 それでは、自殺の対人関係理論を使って、この現象に説明を与えてみましょう。男性の自殺率が高くなる理由は、自殺潜在能力、所属感の減弱、負担感の知覚の三つの観点から説明することができます。(つづく)
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