『ことばが変われば社会が変わる』(ちくまプリマー新書463・2024/7/10・中村桃子著)、頭の部分だけ目見ましたが興味深い内容です。
一九八〇年代まで日本には「セクハラ」ということばはなかった。
「セクハラ」ということばがなかったから、セクハラはなかったのだろうか。そう考える人はほとんどいないだろう。むしろ、「セクハラ」ということばが広く使われるようになった結果、セクハラが目に見えるようになったのではないか。
「セクハラ」の例は、ことばには、社会の見方を変化させる力があることを教えてくれる。社会の見方が変われば、社会は変化する。新しいことばが、社会を変化させたのだ。
(中略)
もうひとつは、「社会構築論」とも呼べる考え方だ。この考え方を唱えたのが、哲学ミッシェル・フーコーだ。第一章でも見るように、フーコーは、ことばは単に社会の変化を反映しているのではなく、ことばで語ることによって、その語っている現象が社会的に重要な概念になると指摘した。この、「言語」が「社会」を「構築」するという指摘は、物事の見方が百八十度変わることを意味する「コペルニクス的転回」になぞらえて、「言語論的転回」とも呼ばれる。
「セクハラ」の例で言えば、人々が「セクハラ」ということばを使い始めたことで、それまで長いおいた放置されてきた行為が、被害者を苫しめる犯罪として社会的に重要な概念になった。
社会構築論は、ことばと社会は別々なのではなく、両者は密接に関係しており、社会変化がことばの変化をうながすと同時に、ことばの変化も社会変化をうながすという形で、両者の変化がお互いに影響を与えて、ことばと社会が一緒に変化していくと考える。(つづく)
一九八〇年代まで日本には「セクハラ」ということばはなかった。
「セクハラ」ということばがなかったから、セクハラはなかったのだろうか。そう考える人はほとんどいないだろう。むしろ、「セクハラ」ということばが広く使われるようになった結果、セクハラが目に見えるようになったのではないか。
「セクハラ」の例は、ことばには、社会の見方を変化させる力があることを教えてくれる。社会の見方が変われば、社会は変化する。新しいことばが、社会を変化させたのだ。
(中略)
もうひとつは、「社会構築論」とも呼べる考え方だ。この考え方を唱えたのが、哲学ミッシェル・フーコーだ。第一章でも見るように、フーコーは、ことばは単に社会の変化を反映しているのではなく、ことばで語ることによって、その語っている現象が社会的に重要な概念になると指摘した。この、「言語」が「社会」を「構築」するという指摘は、物事の見方が百八十度変わることを意味する「コペルニクス的転回」になぞらえて、「言語論的転回」とも呼ばれる。
「セクハラ」の例で言えば、人々が「セクハラ」ということばを使い始めたことで、それまで長いおいた放置されてきた行為が、被害者を苫しめる犯罪として社会的に重要な概念になった。
社会構築論は、ことばと社会は別々なのではなく、両者は密接に関係しており、社会変化がことばの変化をうながすと同時に、ことばの変化も社会変化をうながすという形で、両者の変化がお互いに影響を与えて、ことばと社会が一緒に変化していくと考える。(つづく)