いのしし くん。

政治、経済から音楽全般の評論
ultimate one in the cos-mos

時代の流浪。 wandering of era

2021-12-02 20:11:55 | 日記
 (1)中学3年の男子生徒が知り合いの同男子生徒を教室から廊下に呼び出して刺殺するというショッキングな事件が起きた。いつものように学校側は犯行者の男子生徒に特別な問題意識、生徒との認識は察知しておらずに、多感でむずかしい年頃の子どもに対する理解、対応ができていない変わらない教育現場の欠かんがあきらかになった。

 (2)教室から廊下に呼び出して刺殺するという「やり方」はまず子どもの感性、感覚では考えられない行動で、誤解を恐れずにいうならば見せしめのヤクザの世界の論理だ。かっての子ども社会はけんかの決着は学校の裏側とか河川敷とか山の中とか人目のつかないところに呼び出してのというのが通例だったが、今日的子ども社会は学校内での異常行動による決着が目につく。

 (3)子どもの「本性」が時代とともに変わってきていることを示すもので、直情型、激情型、劇場型で自分の「心」を収められずに結果、決着を急ぐ傾向がある。「心」のキャパが狭くなって子どもとしての余裕が入り込めずに、行動に直結する短絡性だ。

 子どもの「本性」が180度ぐらい変化してきている子ども社会に教育現場、教委、親でさえ「変化」をよく理解できずに適切な対応ができずにいることが、いつまでも学校から「いじめ」、「疎外」、「不登校」がなくならない要因だ。

 (4)「学校の裏側」決着時代はそれでも闘いにフェアーな流儀があって、「力」と「力」の勝負であり「対等性」が守られていた。力と力の決着なので「カタ」がつけば妙にスッキリとしてわだかまりのない「心」の余裕、広さがあった。

 ある意味「大人」の感性がみられて、学校側、教育現場もそういう子ども社会の「大人」の感性に助けられてきたところがある。
 今日的子ども社会は準備した圧倒的な「力」の優位の武装化で相手に大きな打撃を与える固執観、優越感だ。

 (5)子ども社会が大きく変化してきているのに学校現場が変われないのは、義務教育という観念だ。義務教育というのもすごい呼び方で、学校、教育現場の教育目線がもちろん固定観念的な目線で有無を言わせぬ「大人」からの強制性がある。

 しかし対象は知識欲が強く、高く、渇き、吸収、多感で率直、一直線の子どもたちであり、学校教育の目的はこういう子どもたちに知識のおもしろさ、広さを伝え、教え、取り組む、活用する楽しさを与えなければならないが、「義務教育」観ではこうあるべきという固定観念が強く働いている。

 (6)今日的子ども社会には学校教育以外に知識、感性、変化を直接感じる媒体が発達して多様にあり、悩み、苦しみ、さまよい、子どもたちが時系列的に流浪(wandering)する時代の変化がある。これに戸惑う学校、教委、親の「三位一体」の連携体制が必要だ。

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