私のなべ四器(規矩準縄)

今、自分の周りで起きていること。ご近所のトマソンもそんなに、気にしてない。深めにかぶった帽子で、年内不定休営業中。

八幡の踏み切りあと

2008-05-26 18:38:23 | ひとり独り言
東海道新幹線の高架橋と同じ様に、東海道本線も高架になり、ここが大渋滞をして、難儀をした事など遥か昔のことのようだ。この時間では、いつ、渡れるか分からず、タクシーも乗車拒否をした事がある。
渋滞している車の横を、ゆっくり歩きながら、電停に向っていた頃を思い出す。いつの頃だろうか、寄り道を覚えたのは?思い出せない。(笑)

ここと同じ様に、国一と昭和通りの交差点(静岡商工会議所会館の西側付近)に「ほうたい橋」(漢字を忘れてしまいました)があって、この橋は在来線を跨ぐためのもので、高さを稼ぐために豚のしっぽの様にくるりと回っていた。そして新幹線ができる時に、切り取られ歩道橋のように長いスロープができ、そこに車が渋滞していたのだが、古い橋で、いつ崩壊するか冷や冷やだった。それも、在来線の高架化と共に無くなり、今は建物が建っていて、思い出すものは何もない。
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10 コメント

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いらっしゃいませ (なべ)
2011-10-14 05:54:40
八幡の踏切が高架になる前は、東静岡駅が貨車だけの駅だったので、機関車の入れ替えで八幡の踏切は開かずの踏切に成って居ました。特に夕方にそれが行われた時は大混雑でした。

踏切番の人が居て手動で遮断機(ワイヤーで上げ下げをする)を操作するのですが、余りにも渋滞が繋がると警報機が鳴って居ても遮断機を少し上げてくれました。人と車数台を通したりして、人間味あふれる踏切でした。
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今頃コメントを・・・ (yuki)
2011-10-13 14:18:21
こんにちは、初めまして。
八幡の踏切を調べていてたどり着きました。
今更ですが、ご覧頂けるか分かりませんがコメントを残させていただきます。

八幡の踏切の側で生まれ、育ちました。
母曰く「アンタが泣くと、良くここに連れて行って電車を見せたものよ」とのこと。
ただ、私には記憶が無い様なのです。

昨日母と話しをしておりましたら、うっすらと踏み切りの記憶があることに気がつき。
少しでも記憶を辿り寄せたいと探しておりました。
母の記憶が正しければ、35年か36年前くらいに架橋になったようです。
徒歩の人用の橋もあったのよ、車は通れなかったけれど。
と言われて、その橋がうっすらと記憶にあるような気がするのですが
思い出せず気持ち悪い状態でさまよっております(笑)

では、足跡代わりのコメントで失礼いたしました。
ありがとうございました。
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ありがとうございます (なべ)
2008-05-28 11:57:58
これで、江尻から安倍川までは行けそうです。
ありがとうございます。
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旧東海道 (あおい君)
2008-05-28 11:08:33
>伝馬町通りは、旧東海道ですよね。
そうですね。
下記サイトでおおむねルートが分かると思います。
http://www.c-walk.com/tokaido/mapwalk/mapw-10.html
柚木地下道のところでJR電車区により分断されてしまっています。
旧東海道は、現在の感覚で言うと、曲金方面へ迂回しているような感じを受けるのですが、かつて谷津山はもっと南まで張り出していて、この山を避けて旧東海道が走っていたようです。
昔の東海道線は、この谷津山を切通しのような形で抜けていたらしいです。
静鉄電車も開業当時は旧東海道沿いに走っていて、現在のような春日町~柚木を直線で抜けるようになったのは、静清国道が開業してからのようです。
余談ながら、旧道沿いの曲金あたりの小字を「狐ヶ崎」と言い、歴史的に有名な「狐ヶ崎」というのは、このあたりだという説が有力のようです。(このあたりを歩くと、「狐ヶ崎荘」などと言うアパートなどが散見される。)
また、静鉄狐ヶ崎駅は駅を開業する際、単にこの沿線のおもしろそうな地名を選んで付けただけのようです。
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旧東海道 (なべ)
2008-05-28 09:30:13
>旧上八幡町(現・葵区伝馬町23番地付近)が起点だと思われます

伝馬町通りは、旧東海道ですよね。
伝馬町の通りを、東に向い国道一号線を渡ってから、柚木の地下道あたりでもう一度、国道一号線を渡り、静鉄の線路横を通っている道になるのでしょうか。
ご存知ならば、教えてください。
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古い地図 (なべ)
2008-05-28 08:28:01
>東洋モスリン線?の
通っていた所が、所々面影が残っていますよね

先日、県立中央図書館で「静岡、清水附近明細地図」をみつけ、眺めていたら見た事のない路線(東洋モスリン線)が載っていました。
不思議に思っていたので、すっきりしました。
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苦悩街道を行く (あおい君)
2008-05-27 17:23:28
久能街道の駿府側の起点は、旧上八幡町(現・葵区伝馬町23番地付近)が起点だと思われます。
上八幡町から南へ行くと国道とJR線でさえぎられ、さらにその先は街区の形状が変わってしまっています。
「八幡一丁目3番」あたりから市立商業前までは比較的昔のままの形状で残っていますね。
市立商業のあたりは、戦前、軍需工場建設のため完全になくなってしまっていますが、その先の「富士見台三丁目1番」あたりから先はたどることができますね。
有東地区のくねくね道は、たしかに狭隘で苦悩な道なのですが、その昔は片側に小川が流れていて(現在は暗渠)もっと狭かったです。
まあ、一方通行なので気を付けて歩けばなんとか・・・(と言っても責任は持てません。ちなみに、ボクは数年間この道を歩いて通勤したことがあります。←謎)

東洋モスリン線は、八幡踏切よりももう少し南側を通っていたと思います。
http://www008.upp.so-net.ne.jp/yuchan/SIZU_REPORT3.htm
(このサイトの地図からも旧八幡踏切の位置は、今よりも西へ100mほどのところだったことが分ります。)
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八幡の踏切 (IYA)
2008-05-27 10:37:42
この踏切を通っていた東洋モスリン線?の
通っていた所が、所々面影が残っていますよね。
以前、友人と歩いた事があります。

静岡側の旧久能街道も調査したいとおもいますが
カネボウ通りからSBS通りまでの区間は狭くて
車が多くて、とても歩くのは危険ですよね
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宝台橋 (なべ)
2008-05-27 04:33:31
>そばにできた橋だから宝台橋

「宝」は思い出したのですが、台が思い出せず、平仮名にしてしまいました。ループになって居た事は、古い地図で知り、どうして遠回りをするのかと、当時は不思議に思っていました。(清水の住人)ありがとうございます。

旧静岡市にの会社に就職して最初の違和感は、南幹線の事を静岡の住人はカネボウ通りと呼ぶ事でした。今は、「カネボウ」が無くなって、その言葉さえ消えてきましたが、何十年もすると「鐘紡通り」を探せなどと、ふるさと研究が始まるかも知れません。(笑)

○○の近くにあったからと、その名が残るのは、いい事のように思えます。


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ほうたいばし (あおい君)
2008-05-26 22:48:37
宝台院(ほうだいいん)のそばにできた橋だから宝台橋なので、本当は「ほうだいばし」なのでしょうが、本当は「りんざいじ」が正しいのに「りんさいじ」と言うがごとく、市民はみな「ほうたいばし」と言うのですね。
これもいっしゅの音便化なのでしょうか(笑)
ちなみに、今も近くのバス停は「宝台橋」で、ローマ字で「HOTAIBASHI」と書いてあります。
それから、ボクの幼いころはこの橋はまっつぐ(江戸風の静岡穏便)馬渕方面に伸びていました。
新幹線ができたときに、新幹線の高架橋に抵触するためループ橋にされたのでした。
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