現地時間の2/16からいよいよ始まったミネソタ州セントポールのオードウェイ・センター・フォー・ザ・パフォーミング・アーツの「A Chorus Line」、劇場のサイトで、「忘れられないオーディション」と題した、出演者と監督へのインタビュー紹介しています。(写真は、シーラを演じる、Michael君〔マイケル・グルーバー〕のお友達のピラーさんです。)
パイオニア・プレスによるインタビューを、劇場のサイトで紹介していますので、拙い訳ですが、ご紹介させていただきますね。サイトの記事は、
こちらからどうぞ。
コーラスラインのユニークなところの1つは、これが、実際の俳優達の語った話に基づいた、ブロードウェイのショーのダンサー・オーディションに関するミュージカルだということだ。
このショーが作り始められた当初の1974年に、かつてはダンサーで、監督と振付をしていたマイケル・ベネット氏(ミュージカル部門で2つのトニー賞を獲得した)が、知り合いの俳優達を集めて、それぞれの人生について、ダンスを始めたきっかけやダンサーとしての目標等を語らせ、長い時間をかけて録音した。
そして、それらのストーリーが、オーディションでダンサーにそれぞれの人生を語らせるという「コーラスライン」になった。ベネット氏のテープセッションに参加したダンサー達の何人かは、この作品に出演して、セッションで語った自分自身の姿を演じたのだ。
ベネット氏のセッションと同様に、我々も、オードウェイで上演されるコーラスラインの出演者の何人かに、彼らの忘れられないオーディションについて聞いてみた。以下が、彼らの物語である。掲載の関係上、長さを編集している。

ピラー・ミルホーレンさん(辛辣なベテランダンサーのシーラ役)
ディズニーのターザンがステージ化された時の二次審査で、「飛べ」って言われたんです。私は、ジェーンのカバーとアンサンブル、それとゴリラもやらなくちゃいけなかったんですよね。
演技・振付チームは、オーディションの中に、飛ぶためのワークショップを設けたんですけど、それが、ピーターパンやウェンディみたいな楽しい飛び方じゃなくって、腰のところにケーブルが取り付けられて、私は、まず床の上で類人猿を即興で演じ、それから壁の足場に上って「キーキー」と鳴いてみせ、壁を離れて、上手のほうへスウィングし、足場にうまく着地する。それを、もう2回繰り返し、それから、彼らが私を下ろしてくれるまで、まるで振り子にくくりつけられたゴリラのように、行ったり来たりさせられ、その間中、ゴリラを演じてなくちゃいけなかったんです。
幸いなことに高所は特に苦手ではなかったけど、自分の番になって、上手から下手へ振り回されているうちに、私の身体がゆっくりと上下に回り始めました。できるだけ大声でキーキー叫びながら身体をひっかいて見せ、「仕事をもらうために、こんなことをしなくちゃいけないのなんて、ショービジネス界だけよね」って思っていました。結局、受からなかったんですけどね。

トニー・ビューリングさん(ラリー役。ダンスキャプテンで、アシスタント・ディレクター)
トニー賞を受賞した振付師のジェリー・ミッチェル氏のコーラスラインが、この作品への、私の初めて出演だったんですが、当時、私は、22才でした。その前年に、彼が参加していたウェストサイドストーリーのオーディションも受けていて、二度目の再審査の時、彼が、私を隅の方へ連れて行って、「君のダンスは好きだけど、君はやせ過ぎてる」と言われて、結局、使ってもらえなかったんです。
コーラスラインのオーディションの時に、またやせ過ぎが理由で落とされるんじゃないかと思って、詰め物をして、オーディションを受けたんですよ。かなり厚手のスウェットスーツを着て、肩パッドとレッグウォーマーを身につけました。
もちろん、我々は、オープニングのコンビネーションを、1日中、何度も踊らなくちゃならず、とても暑くて、汗だくになって、もう死ぬんじゃないかと思いましたよ!でも、無事にマークの役を得ることができました。そのショーは、ブロードウェイのオリジナルカンパニーでジュディ・ターナーを演じたトリッシュ・ガーランドさんが監督と演出をしたんです。
マークの衣装は、タンクトップとジャズパンツだけなんで、やせっぽちの上にウソをついたと言われてクビにされるんじゃないかと心配でした。最初の衣装合わせに行くと、彼女もそこに来ていました。私がタンクトップで進み出ると、彼女が、「ジーザス・クライスト!彼に、スウェットシャツを用意して!」って叫んだんですよ。
おかげで、それからの9ヶ月間、ショーの初めから終わりまでスウェットシャツを着たまま、暑い思いをして汗だくになりながら演じることになりました!

ジョナサン・ダルさん(フランク役 ドン・グレゴリー・ラリーの代役)
この前に参加していた作品は、抽象的な物語を語るようなスタイルのカンパニーの作品だったんです。オーディションの時、事前に送られてきた2つの詩のどちらかを解釈してくるように言われました。1つは、領土に関する人間の本能についてのもので、もう一つは、チェスを我々の行動に例えたものでした。
オーディション会場に着いてみたら、すでに大勢の俳優がたくさんの原稿を用意してきてて、遅々として進まない状態で、ちょっと驚いてしまいました。実際にチェス盤を持ち込んで、文字通り動きを再現しようとしている連中もいました。私は、自分の解釈を詳しく説明するのはやめて、ただ動物的な影響が多少あるとだけ言ったんです。それと、ちょっとした羽ばたきとガーガー声を。
私は、合格しました。そして、その後のパーティで、みんなで輪になって座って飲んでいた時、監督が私に言ったんです。カンパニーは、オーディションで、こんな俳優が来たら、いちかばちか取ってみようと考えていて、それが「誰か、鳥のマネをする人だったんだよ。そう決めておいて、よかったよ。」

ケイティ・ハンさん(ビビ役。「At the Ballet」で全てが美しいと歌う。)
けっこう最近受けたオーディションなんですけど、ちょうど町に戻ったところで、小さな地方劇場のショーのオーディションを受けてみようと決めたんです。あまり自信がなかったんですけど、そのショーの監督と一緒に働いてみたくて、とりあえず受けてみました。
2、3日して、会ったこともない、大きなActor’s Equityのショーを上演する(Actor’s Equityの契約を結んでいるショーに出演しないと、Equityのメンバーになれず、組合に所属できません。所属していると、最低収入の保証等の特典があります。)劇場のキャスティングディレクターからメールが来て、その時、その劇場で上演していたミュージカルの出演者が交代するので、オーディションに来てほしいって書いてあったんです。とても驚きました。まさに、ここは、私が子供の頃からずっと参加したいと夢見ていたカンパニーだったからです。そんなチャンスは、一生来ないだろうと思っていたのに、そこのキャスティングディレクターからメールが来て、サインがちゃんと入っているから本物に間違いないし、でも、彼らが、どうして私の連絡先を知っているのか、全く思い当たらなかったんです。それと、今思うと不思議なんですが、その時、家族と休暇を過ごそうと計画していて、出発するのが、そのオーディションの翌日だったんです。
とにかく、オーディションに行ってみました。できる限り前向きでいようと努力しながら。「受かったら、『イェ~イ!』だし、ダメでも休暇が待っているんだから。ビクビクする必要なんてないのよ、いいわね?」って考えていたのを、思い出します。
オーディションで踊るように言われたコンビネーションは、とっても難しかったです。少なくとも、私にとっては。2ヶ月ほど、出演の機会がなかったので、状態が、かなり悪かったんです。息は切れるし、緊張して、他の6、7人の素晴らしい参加者と自分を比較して、すっかりあがってしまったんです。
疲れ切った私は、何とか車を運転して家に帰りました。「神様!あんなオーディションのあとで、休暇に出掛ける準備なんて、できそうもないわ!」と思っていました。そうしたら、まだ車を降りないうちに、合格の電話が来たんです。それが、私の生まれて初めてのEquity契約で、これで、組合に所属する資格があると認められた訳で、このオードウェイでのショーも含めて、その他のいくつかの仕事は、この契約のおかげで手に入れることができたんだと思っています。
オーディションの数日後、リハーサルに行った私は、私が一緒に働いてみたいと思っていた、あの小さな地方劇場の監督が、大劇場のキャスティングディレクターに連絡して、私を推薦してくれたんだと知りました。彼への感謝は、言葉では言い表せないほどです。この仕事を手に入れられたので、オーディションの日の夕方、私は、母に電話して、こう言えました。「ねえ、ママ。悪いんだけど、私、一緒に休暇にいけなくなっちゃったわ。」

メアリー・ケイト・バーチルさん(今回の上演のために新しく作られたタラ役)
「Into the Woods」の赤ずきんのオーディションを受けた時のことです。ぎりぎりになって、オーディションで歌う曲を変えたんですけど、手元にきれいな楽譜がなくて、オーディションに行く途中で、シュミット・ミュージックという店に寄って、楽譜を買いました。オーディションで、私の番になり、ピアニストの伴奏に合わせて歌い始めたんですが、楽譜のキーが私のキーとは違っていたんです。私は、普段のキーのまま歌い続けながら、何とか伴奏のキーに合わせようと努力しました。結局、悲惨な結果に終わり、二次審査を受けることはできませんでした。でも、当時13才だった私は、大切なことを学びました。「オーディションの前には、いつも楽譜を準備して、ボイストレーニングに励むこと。」

モーガン・カービダさん(トリシア役 クリスティンとジュディの代役)
カレッジのシニアの頃、ガシュリー劇場の「A Christmas Carol」のオーディションを受けたんです。このオーディションには、それぞれの予約時間がなくて、全員が同じ部屋で待っていたんです。突然、私の番になり、進み出た私は、そこに立って、監督や他の人達の前で歌い始めました。とても突然のことだったんで、高音を歌っている時に声がしわがれてしまったんです!落ち込みながらも、リズムに合わせて何とか歌い続けるしかなく、16小節ほど歌い終わった私は、静まりかえった中に立ちつくしていました。
すると監督が、「そうだね、騒々しかったね。よかったけど、騒々しかった。」と言い、部屋中に笑いが広がりました。私は、ただ一緒に笑うことしかできませんでした。おかげで、とりあえず雰囲気は、明るくなりましたけど。
絶対、受からないなと確信したんです。案の定・・・何と、受かっちゃったんです!少なくとも、私の「騒々しさ」は、覚えてもらうのには役立ったってことですね。

ジェームズ・ロッコさん(共同監督・共同振付)
私の25才の誕生日の2、3週間前のことだったんですが、エージェントから電話があって、「Cats」のキャスティングディレクターのビニー・リフが、オーディションに来られるかと聞いてきたと言うんです。「Cats」は、見たことがなかったし、興味もなかったんですよ。自分には向いてないように思えてね。当時、ロック歌手としての活動に熱中していたんですよ。でも上演していたウィンターガーデン劇場は、私にとっては、常に夢の場所だったんです。ニューヨークで育った私は、ウィンターガーデン劇場のそばを通るたびに、「大きくなって、この劇場で歌えたら嬉しいのに」って思ったものです。その私に、この話が来たんです。私は、ビニーに連絡しました。当日になり、舞台の袖で自分の番を待っていた私は、心臓が飛び出るかと思うほどドキドキしていました。それは、オーディションのせいではなく、あこがれの劇場の中にいるせいでした。
私の前にオーディションを受けたのは、トニー賞にノミネートされたことがある人で、彼は、袖から見ている私の前で、完璧な歌とダンスを披露しました。素晴らしい出来映えでした。私のほうは、彼のようには準備してきていませんでした。自分の番になり、ステージに出ていった私は、自分でアレンジしたデル・シャノンの「Runaway」を、力強いロック風のバリトンと裏声で熱演したんです。その瞬間、私の夢が叶いました。歌い終わった時、すっかり満足して、ステージを降りようとしました。でも、呼び止められて、さらに3曲歌わされ、その日の午後にまた来られるかどうか尋ねられました。
実際のところ、彼らは、私に踊るために戻って来いとは、全く言わなかったんです。私は、ちょうどダンスの多いショーを降りたばかりで、ダンサーのイメージから脱皮しようと決めたところだったんです。だから、午後になって劇場に戻った時、私は、その日の朝と全く同じ、ジーンズに赤いシャツとカウボーイブーツという格好だったんです。踊らせたいんだったら、そう言わなかった連中が悪いと思いましたよ。
10人ほどのいかにもブロードウェイらしいダンサーに混じって、カウボーイブーツの私がいました。こうなったら、落とされるまでやり続けてやろうと心を決めました。踊りながら、「ただ楽しめばいいんだ、人生の赴くままに。どうせ、この劇場に戻ってくることなんて、もうないんだから。」と自分に言い聞かせていましたよ。
時間が経つに連れて、1人、また1人と、他の連中が消えていきました。自分が最後の1人だと気づいた時、イギリス人の男性が、言ったんです。「ブロードウェイの「Cats」の次のランタムタガーを、君に演じてもらいたい。出演は、9月8日からだ。」
何と、その日は、私の誕生日だったんですよ。