M for Michael Gruber♪- Mは、マイケル・グルーバーのM~♪

キャッツDVDのマンカストラップ、アメリカの舞台俳優、Michael君のことや、ブロードウェイニュースをお伝えします。

Michael君 こぼれ話 My One and Only編

2005-04-13 06:46:15 | Michael Broadway/Off Broadway
オハイオ州シンシナティ出身のMichael君(マイケル・グルーバー)が、ニューヨークに出て来て初めのお仕事・・・。それは、「My One and Only」というミュージカルでした。(このミュージカルでの、Michael君の写真です。かなり見づらいのですが、Michael君は、左(奥)から5番目にいます。)

このミュージカルは、ニュージャージー州ミルバーンにある Paper Mill Playhouse (ペーパーミル劇場)で、1987年の11月4日から12月13日まで上演されました。こちらの劇場は、その後、Michael君が「Singin’in the Rain」等で何度も出演したおなじみの劇場で、以前にご紹介した「舞台の上のプロポーズ」も、この劇場でのエピソードです。
Michael君は、アンサンブルの1人とリッツ・カルテット(Ritz Quartet)の1人、そして「The stage doorman」の3役を演じました。また、主役クラスの1人である「Prince Nicolai Erraclyovitch Tchatchavadze/Achmed」の代役も務めていました。

この「My One and Only」は、1983年にアメリカで初上演されたミュージカルで、リンドバーグが打ち立てた大西洋横断記録に挑戦しようという野心を持った若い飛行家とイギリス海峡を泳いで渡った女性とのラブ・ストーリーです。主演を務めたトミ-・チューンが振付も担当しており、彼のタップ中心の振り付けと、1960年代にミニの女王として有名だったトゥィッギーとのコンビが話題を呼びました。

このミュージカルの曲を作ったのは、アイラとジョージのガーシュイン (Ira & George Gershwin)兄弟です。兄のアイラが作詞を担当し、弟のジョージが作曲をしました。クラシックとジャズの融合、黒人キャストのフォーク・オペラ「ボーギーとベス」(1935)を手がける等、斬新で独創的な作品で有名なアメリカ音楽界の巨匠です。
1992年には、彼らの往年の名曲がたっぷりと使われた「クレイジー・フォー・ユー Crazy For You」というミュージカルがアメリカでヒットし、その翌年にはロンドンと日本でも公演が行われました。(この「クレイジー・フォー・ユー」、2003年に上演された時には、Michael君も主役のボビー役で出演したんですよ♪)

Michael君 こぼれ話 オズの魔法使い編 - The Wizard of Oz

2005-04-09 13:34:57 | Michael Broadway/Off Broadway
「オズの魔法使い」といえば、オリジナルは、1899年に書かれたL・フランク・ボウム作のアメリカの童話(これが第1作目で、その後、オズの国のシリーズがたくさん出版されています。)で、1903年にミュージカル化されたのですが、実は、Michael君(マイケル・グルーバー)、ブリキの木こり(Tin man)とヒッコリー(Hickory)役で、2回出演したことがあるんです。(かかし、ブリキの木こり、臆病ライオンを演じる俳優さん達は、カンザスのシーンでは、ドロシーのおじさん夫婦の農場で働いている3人、Hunk、Hickory、Zekeを演じます。)
1回目は、Broadway(マジソン・スクエア・ガーデン The Theater at Madison Square Garden)で1997年の5月7日から6月8日の公演でした。そして、2回目は、オクラホマ州オクラホマにあるリリック劇場 シビック・センター・ミュージックホール(Lyric Theatre, Civic Center Music Hall)で2003年8月5日から8月9日までの6ステージの公演でした。(リハーサルは、7月23日から8月4日)今回は、この「オズの魔法使い」のこぼれ話です。(写真は、1997年の時のプログラムからです。)

最初にMichael君が出演したマジソン・スクエア・ガーデンでの「The Wizard of Oz」ですが、初日の翌日、Michael君の出身地シンシナティの地元紙に、Michael君のお母様が語ったお話では、「4週間に渡る実際の公演よりも、その前の準備期間の方が、息子にとっては大変だったと思う。」とのことでした。
それというのも、当時、Michael君は、Broadwayのウィンターガーデン劇場で「Cats キャッツ」に出演していたため、「Oz」出演前の数週間は、昼間は「Oz」のリハーサル、夜は「Cats」にMunkustrap役で出演という目の回るような忙しさ! わずかな空き時間を見つけては、どうにか睡眠を取っていたのだそうです。(この「Oz」に出演するために、Michael君は、「Cats」を1ヶ月お休みしました。)

この時の「Oz」で臆病ライオン(The Cowardly Lion)を演じていたのは、「Cats」のBroadway版オリジナル・カンパニーでオールド・デュタロノミー(Old Deuteronomy)を演じていたKen Pageさんで、彼は、Broadwayの「The Wiz」(アフリカ系アメリカ人の出演者のみの「The Wizard of Oz」)のオリジナル・カンパニーでも、同じ臆病ライオンの役を演じていました。
そして、このブログのビデオ版Catsのトリビアを読んで下さった皆さんはすでにご存じのように、この「Oz」が上演されたのと同じ1997年の夏には、ロンドンでCatsのビデオが撮影され、Michael君はMunkustrap役、Ken PageさんはOld Deuteronomy役で、再び共演を果たしたわけです。

その他の出演者は、主演のドロシー役に、300人が参加したオーディションを勝ち抜いた、15才のJessica Grove'さん、かかし役にLara Teeterさん、西の魔女役にRoseanneさんでした。


Michael君の2回目の出演のリリック劇場 シビック・センター・ミュージックホールでの共演者は、ドロシーにSara Stilesさん、かかし役にCasey Colganさん、臆病ライオン役にBen J. Williamsさんといった顔ぶれでした。
またマンチキンの街の住人達を演じたのは、「キャンプ・オズ」と名づけられたリリック劇場のアカデミーの子供達80人でした。アカデミーは、出演する子供達のために3週間のレッスンコースを組み、この出演に備えました。

地元紙に掲載されたリビューでは、Michael君について、次のように書かれていました。

「心を持っていないブリキの木こりを演じたグルーバーの演技は、実に印象的である。彼は、カリスマ性を持った俳優で、『If I Only Had a Heart』では、その素晴らしい歌声を披露してくれた。」


ミュージカル「オズの魔法使い The Wizard of Oz」について

このいかにも楽しいミュージカル、初めてミュージカル化されたのは、冒頭にも書きました通り、1903年のことでした。その後、1975年には、全キャストがアフリカ系アメリカ人という「The Wiz」として上演され、トニー賞の主要7部門を獲得しました。この「The Wiz」では、ドロシーが歌う有名な「Over the Rainbow」を聞くことはできません。「オズの魔法使い」に基づいてはいますが、曲はロックやソウル、リズム&ブルースといった現代的な音楽が使われており、構成も違うオリジナル作品となっています。1975年1月5日からマジェスティック劇場で、1,675回上演されました。この「The Wiz」は1984年に来日公演が行われており、その時ドロシーを演じたステファニー・ミルズさんは、Broadwayのオリジナル・カンパニーの一人でした。
「オズの魔法使い The Wizard of Oz」というミュージカルを世界的に有名にしたのは、1939年にMGMが、当時ティーンエイジャーだったジュディ・ガーランド主演で製作した映画版でした。ガーランド演じるドロシーの故郷カンザスのシーンは白黒で、魔法の国に到着するとカラーの映像に変わるという演出は、魔法の国の楽しさをうまく表現していて、とても印象的でした。
この映画版をベースにしたミュージカルの舞台は、1987年にウエストエンドで、ロイヤル・シェークスピア・カンパニーが初演していて、こちらでは、「Over the Rainbow」が歌われました。(Michael君が出演した2回も、この映画版をベースにしたバージョンです。)

Michael君 こぼれ話 人生の選択 - Diving or Acting

2005-04-05 21:30:07 | Michael About him
1989年に「A Chorus Line」でBroadwayデビューを飾ったMichael君(マイケル・グルーバー)は、前の記事にも書きました通り、その前年(1988)の12月に、アラスカで「Joseph and the Amazing Technicolor Dreamcoat」に主演しました。その時、地元紙に、当時24才だったMichael君のインタビューが掲載されました。その中で、飛び込みの世界から演技の世界へと進路変更したいきさつや、Broadwayで仕事を手に入れることの難しさなどについて、Michael君が語っていますので、今回は、それをご紹介致しましょう。(写真は、ヨゼフ役を演じているMichael君です。)

飛び込みの選手として輝かしいキャリアを築いてきたMichael君は、スポーツ選手としての奨学金をもらってミシガン大学(The University of Michigan)に進学しました。オリンピック出場を目指して練習に励んでいたMichael君でしたが、もともと演技や音楽も大好きだったので、演劇部に入部してお芝居も続けていましたし、また音楽の学校にも通っていました。そして、次第に「自分が本当に進みたいのは、俳優としての道だ」と思うようになったのだそうです。
1983年、家族に自分の決心を伝えたMichael君は、ミシガン大学を辞め、演技の勉強をするべく、シンシナティ音楽大学(The College Conservatory of Music in Cincinnati)に転校しました。そこで2年間に渡って、演技・歌・ダンスの勉強に励みました。

Michael君:「僕は、アスリートで、ダンサーじゃなかったからね。ダンサーに必要なことを、いろいろと身につけなくちゃならなかったんだよ。ダンスにはパワーも必要だけど、同時に優雅じゃないとね。アスリートだった僕は、その優雅さを学ぶ必要があったんだ。」

音楽大学での2年間は、Michael君にとって、実り多いものでした。それまで正式にはダンスのレッスンを受けたことのなかった彼でしたが、優雅さを身につけた上に、アスリートであった彼のダンスには、アクロバティックな華麗さがあります。
また、もともと歌が得意だったMichael君、レッスンの成果が実を結び、魅力的な暖かみのあるテノール(アラスカで「Joseph」に主演していた当時は、今よりも少し声が低かったようで、バリトンだったそうです。)で素晴らしい歌を披露してくれます。


そんな彼がアラスカでの主役を獲得するきっかけとなったのは、昔ながらの幸運と人脈でした。主役のヨゼフを演じる予定だった俳優さんが出演出来なくなり、誰か別の俳優さんを探さなくてはならなくなりました。
「Joseph」の監督のリチャード・キャスパー(Richard Casper)氏は、NYで「Dreamgirls」に出演していたMichael君を見たことがあり、またキャスパー氏が監督したビデオ版の「Joseph」にMichael君が出演していた縁もあって、Michael君をヨゼフ役にしてはどうかと推薦してくれたのだそうです。
ところが、その後、当のキャスパー氏が体調を崩してしまい、今度は、Michael君が、かつて「My One and Only」に出演していた時に一緒に働いたPatti D’Beck氏を監督として紹介したのだそうです。
ニューヨークの演劇界で生きていくのには、人脈がとても重要だと、Michael君は話しています。同じくらいの素晴らしい才能を持った2人の俳優がオーディションを受けて、その内の1人が、そのお芝居の監督と一緒に働いたことがあって、その俳優が真面目で、時間に正確で、人当たりがいいと監督が知っていたら、当然、その俳優の方が仕事を手に入れられるわけですから。
シビアなニューヨークで働いてきたMichael君にとって、アンカレッジでの仕事は、よい気分転換になったようです。

Michael君:「ここには、『敵意』とか『身構え』とかは、全くないんだよ。ニューヨークでは、ストレスの連続さ。次の仕事は、そのまま次のテストみたいなものなんだ。そりゃあ、ものすごく大変で、深刻なんだよ。顔を合わせた最初の週は、ただひたすらお互いの品定めをしているって感じさ。
ここでは、誰もが親切で、寛大で、打ち解けた感じだね。とても協力的だしね。ここでの問題点は、予算だね。音楽監督は、残業続きで、慢性的な人手不足なんだ。衣装係も、人手が足りないし、そのせいで、いろいろ問題が多いんだよ。」

Michael君がラストシーンで自分が着る衣装を実際に見られたのは、初日の晩の2幕目が終わった後だったそうです!


Michael君は、ヨゼフを演じるにあたって、率直かつ厳粛な態度で臨みました。

Michael君:「ヨゼフは預言者なんだから、ちゃんとそういうふうに演じなくちゃいけないと思うんだよ。面白い替え歌がちりばめられたショーだけど、そのショーの中心となるのは、彼の信仰だからね。」

Michael君は、このショーのヨゼフに、自分の姿を見る思いがしたそうです。カトリックとして育った彼は、その信仰が、ショービジネスという不安定な世界で生きる自分の道をしっかり支えてくれていると感じているからです。

Michael君:「ショービジネスっていうのは、本当に不安定な世界なんだよ。その拒絶の強さと来たら、信じられないほどさ。オーディションを受けて、受けて、受けまくって、挙げ句の果てに全てダメ・・・って世界なんだ。」

Michael君自身が、自分はラッキーだと認めているように、それほどシビアなニューヨークのショービジネスに身を投じて1年半(1988年当時)、その間に、地方公演の「My One and Only」、「Carnival」、「The Rocky Horror Show」、「A Chorus Line」などに出演してきました。
「Joseph」の前の仕事は「West Side Story」で、5ヶ月間のヨーロッパ公演でしたが、Michael君は、主役のトニーを演じました。そして、アラスカで「Joseph」に出演した翌年、1989年1月には、Broadwayの「A Chorus Line」のマイク役のオーディションを受け、見事、マイク役を手に入れたのです。


Michael君のご両親も、彼の新しいキャリアになじんでくれたそうです。

Michael君:「初めは、特に父がかなり反対していたんだよ。でも、今では、とても応援してくれているよ。父は、僕が俳優として生活していけるとは思っていなかったんだ。僕のことを見離したって感じで、『これ以上は、一銭も出してはやれんからな。』と言われたよ。でも、どうにかうまくいって、僕の人生最高の選択になったってわけさ。」

以前、ご紹介した「Talkin’ Broadway」のインタビューの中では、飛び込みをやめて俳優の道を選んだことを、Michael君は、次のように語っていました。

「飛び込み選手と俳優じゃ、俳優の方が、まだ少しはマシって感じなんじゃないかな。僕自身、Broadwayデビューだった「A Chorus Line」に出演するまでは、ちゃんと食べていけるとは思っていなかったよ。これに出演して、ようやく家族も全面的に僕のキャリアを応援してくれるようになったし、僕自身、俳優としてやっていけるなって実感したよ。」


才能さえあれば、必ず成功できる・・・とは限らないのが、ショービジネス界の怖いところです。才能に加えて、チャンスに恵まれないと、なかなか、いい役を演じることは難しいようです。
Michael君は、自分を「ラッキーだった」と言っていますが、単に運がいいというだけではなかったと思います。根気強く努力を重ね、誠意を持って1つ1つの仕事を大切にし、常に全力を傾けてきたMichael君だからこそ、それまでに出会った多くの人達の信頼を得て、チャンスを呼び寄せることが出来たのでしょう。これからも、Michael君がいいお仕事、素晴らしい共演者・スタッフに恵まれて、ますます活躍してくれるといいですね~♪