M for Michael Gruber♪- Mは、マイケル・グルーバーのM~♪

キャッツDVDのマンカストラップ、アメリカの舞台俳優、Michael君のことや、ブロードウェイニュースをお伝えします。

イースター・パレードって、どんなミュージカル?

2006-10-31 02:17:01 | Musical あらすじ
来年(2007)の2月から、ミネソタ州のChanhassenにあるChanhassen Dinner TheatreでMichael君(マイケル・グルーバー)が主演する「Easter Parade イースター・パレード」。オリジナルの映画版では、アステアとジュディ・ガーランドが共演したのですが、いったい、どんな作品なのでしょう?(写真は、映画版のポスターです。)

まず、タイトルとなっている「イースター・パレード」ですが、これは、ニューヨークで実際に行われているパレードなんです。
イースターは、「復活祭」のことで、キリストが十字架にかけられて亡くなり、その3日後に復活したことをお祝いする行事です。春分の日以後の、最初の満月の次の第1日曜日に行われるため、年によって、日にちが違います。キリスト教社会では、イースター休暇があり、イースターの前後は、ほとんどの会社がお休みになります。
地方によって、様々な形でお祝いされているイースターですが、華やかなことが歓迎されるニューヨークでは、20世紀初頭から5番街でパレードが行われていました。パレードは、年々華やかさを増し、映画が撮影された1940年代には、大勢の人々が参加する大規模な催しとなり、現在も、全米でも有名なイベントの1つとなっています。ただパレードとは言っても、宗教的な行事なので、鳴り物を使ったり、音楽にあわせて行進したりはせず、華やかな衣装で着飾った人々が連れ立って、思い思いに通りを歩くというスタイルです。特に、女性は、イースター・ボンネットと呼ばれる凝ったデザインの帽子をかぶります。


映画版「イースター・パレード」のあらすじは、以下の通りです。

舞台は、1912年のニューヨーク。有名なダンサー、ドン・ヒューズ(フレッド・アステア。Michael君が演じる役です。)がイースターの買い物を済ませて帰宅すると、彼の恋人でダンスのパートナーでもあるネイディーンが、浮かない顔をしています。次の仕事のための荷造りも済ませていません。ドンが問いただすと、ネイディーンは、「いい条件の仕事を見つけたから、一緒にやる予定だった次の仕事には出ない。ただのダンサーで終わる気はない。」と告げます。一介のコーラス・ガールだった彼女を見いだして、ここまで育ててきたドンは、怒り心頭。ちょうど来合わせた2人の共通の友人のジョナサン(ピーター・ローフォード)がとめるのも聞かず、ドンは、部屋を飛び出してしまいます。
酒場でやけ酒をあおるドン、「俺なら、どんな踊り子だって、ネイディーンと同じくらいにすぐに仕立てて見せる」と豪語し、ちょうど酒場のステージに立っていたハンナ(ジュディ・ガーランド)に、「週に150ドルは稼げる仕事をやるから、こんな店はやめてしまうんだ。明日の朝10時に、マイケルのスタジオで会おう」と声をかけます。
翌朝、酔いもすっかり冷めたドンでしたが、真に受けて、店をやめたハンナが、本当に彼を訪ねてきてしまいます。仕方なくレッスンを始めたドンでしたが、子供の頃に左利きを無理矢理直されたというハンナ、ガーターをしてないと、自分の足の左右が分からなくなる始末・・・。ガッカリして町に出たドンでしたが、通りは、イースター・パレードの真っ最中。華やかなドレスに身を包み、カメラマンに取り囲まれているネイディーンを見て、やる気を取り戻します。ネイディーンに見とれているハンナに、「来年のパレードのスターは、君だ!」と約束します。
大成功を収めるネイディーンを後目に、ハンナを猛特訓するドン。初めは、ネイディーンのイメージを引きずって、ハンナにネイディーンを真似るようなダンスをさせていたドンでしたが、ネイディーンとは違って、気取らず、明るく、優しい彼女の魅力に気づき、彼女らしさを生かしたダンスに変えました。
次第に、1人の男性としてドンを意識するようになったハンナは、彼が自分に目をかけてくれるのは、新しい優れたパートナーを手に入れて、それをネイディーンに見せつけるためなのではないかと心配しつつも、必死に練習に励んでいました。一方、ドンも、ひたむきなハンナを愛するようになっていました。
必死の努力が実を結び、ジーグフェルドから契約の話がきましたが、ネイディーンと同じステージに立つことになると知ったドンは、断ってしまいました。別の興行主と契約したドンとハンナは、各地でツアーを行い、ついにイースター・サンディの前日に、Broadwayでの公演が実現しました。初めての大舞台でしたが、2人は見事成功を収めます。その晩、ドンは、ハンナを連れて、ネイディーンが出演中のジーグフェルドのショーを見に行きます。2人が来場者から祝福の喝采を受けているのを見たネイディーンは一計を案じ、客席のドンをステージに招き、元パートナーとしてダンスを踊ってくれるように頼みます。観客の手前、断りきれないドンは、ハンナを気にしつつもネイディーンと共に華麗なダンスを披露します。その息の合ったダンスを見て、心傷ついたハンナは、1人で会場を後にします。2人の恋の行方は、いったいどうなってしまうのでしょう・・・・・?



Michael君のサイトに、「White Christmas」の写真が追加!

2006-10-27 02:49:00 | Michael 05White Xmas
Michael君(マイケル・グルーバー)のサイトの、昨年(2005)の「White Christmas」のページに、新しく写真が追加されました~♪ (写真は、昨年のボストン公演のステージ・フォトです。)

今回、2005年の「White Christmas」ボストン公演のステージ・フォトが、何と、10枚も追加されました~!! こちらから、どうぞ♪
ズボンの裾を捲り上げて、青い大きな羽の扇を持って、「Sisters」を歌って踊っているところや、小さな白いピアノに腰掛けて、「I Love a Piano」を演じているところ等、とっても素敵なMichael君の写真が、いっぱ~~い! うれしくなっちゃいます♪

去年の12月に見た素晴らしいステージの記憶が蘇えりました~♪ この時は、プレイボーイで、ちょっとおっちょこちょいで、ダンスの見せ場がたくさんあるPhil (フィル)を演じたMichael君。今年は、まじめで、恋愛に疎くて、歌の見せ場が多いBob (ボブ)役で、主演します。
ああ、早く見に行きたい!! と~っても、待ち遠しいです~~!

「Easter Parade」の上演期間

2006-10-15 01:58:12 | Michael 07 Easter/Stairway
11月末から来年(2007)の1月初めまで、シアトルとサクラメントで「White Christmas」に主演するMichael君(マイケル・グルーバー)。その後、2月からミネソタ州のChanhassenで主演する「Easter Parade」の上演期間が、劇場のサイトで発表されました。(写真は、昨年のクリスマス・イブに撮ったMichael君です。)

2007年の2月9日からChanhassen Dinner Theatreで始まる、Michael君主演の「Easter Parade」は、何と6月9日まで、4ヶ月間上演される予定だそうです。

「Easter Pareade」というタイトルだけに、イースター・ホリデーくらいまでは上演されるんじゃないかと思ってはいたのですが、4ヶ月間も・・・とは思いませんでした~! 何とか、ゴールデン・ウィークを利用して見に行けないかと、いろいろ検索中のナズです~~(笑)
でも、このChanhassenという街、昨年の夏に行ったミシガン州のソーガタックと一緒で、長距離バスのバスストップも、鉄道の駅もないみたいなんですよね~~・・・ ちょっと、かなり不便・・・
でも、Michael君のDon Hewes、きっと絶対素晴らしいので、何とかがんばって、見に行くぞ~~!

往年の名女優 - ジンジャー・ロジャース

2006-10-13 03:51:16 | Musical 往年の名優
2007年の3月23日から4月29日まで、フロリダのManalapanにあるFlorida Stageで上演された「Backwards in High Heels」は、数多くのミュージカル映画でフレッド・アステアと共演したジンジャー・ロジャースの生涯を描いたミュージカルです。ミュージカル女優としてだけでなく、演技派女優としての才能にも恵まれていた彼女は、いったいどんな人だったのでしょう?(写真は、映画「The Gay Divorcee ゲイ・ディボース(1934)」のジンジャーとフレッド・アステアです。)

彼女の本名は、Virginia Katherine McMathといい、1911年7月16日にMissouri州のIndependenceで生まれました。彼女が生まれて間もなく両親が別居し、彼女は、母親と一緒にカンザスシティの近くにあった祖父母の家に身を寄せていましたが、両親の仲はすっかり冷え切り、幼い娘の親権をめぐって争うようになりました。
やがて、両親の離婚が成立し、母親のLelaは、ハリウッドで2年間、脚本を書いて、生計を立てました。その間、幼いバージニアは、祖父母のもとで暮らすことになりました。彼女のいとこ達は、バージニアという彼女の名前が発音出来ず、彼女を「Ginger ジンジャー」と呼んでいたのだそうです。
彼女が9才の時、Lelaは、John Logan Rogersと再婚し、ジンジャーは、Rogersの姓を名乗るようになりましたが、正式にはRogersの養子にはなりませんでした。一家は、テキサスに移り住み、Lelaは、地元紙の演劇批評家の職を得ました。

10代の頃、ジンジャーは学校の先生になろうと考えていましたが、ハリウッドや演劇に強い興味を持っていた母の影響で、舞台に興味を持つようになりました。演劇評論家という仕事がら、劇場に出入りすることの多い母に連れられて劇場に行き、舞台の袖でステージを見ていた彼女は、いつしか、出演者達に混じって、ステージで歌ったり踊ったりするようになっていきました。
ジンジャーが14才の時、Eddie Foy 率いるボードヴィルの一座が、彼女の住むFort Worthにやってきました。一座のツアーに参加できるという副賞付のチャールストン・コンテストに参加したジンジャーは見事優勝し、一座に加わり、ツアーに出たのでした。これが、彼女のエンターテイメント界へのデビューでした。この頃には、母親のLelaは、Johnと離婚していたのですが、ジンジャーは、ロジャースの姓を名乗り続けていました。母娘は、一座と一緒に4年間、ツアーを続けました。
17才の時に、ジンジャーは、同じダンサーのJack Culpepperと結婚しましたが、若過ぎる結婚は2年足らずで破局を迎え、彼女は、母と一緒にツアーに戻ったのでした。

一座がニューヨークに着いたのをきかっけに、ジンジャーは、一座を離れてニューヨークに残りました。ラジオでの歌手としての仕事を経て、彼女は、1929年のクリスマスにオープンした「Top Speed」という作品で、Broadwayデビューを飾り、同年中に3本の短い映画に出演して、映画デビューも果たしました。
「Top Speed」が開演してわずか2週間後に、ジンジャーは、ガーシュイン兄弟作の「Girl Crazy」に主演することが決まりました。この作品には、振り付けの手伝いにフレッド・アステアも参加しており、彼とジンジャーは、短期間ですが、交際していたのだそうです。1930年に「Girl Crazy」に主演した19才のジンジャーは、一夜にしてスターの仲間入りを果たし、パラマウント映画と7年間の契約をしました。
しかし、ジンジャーは、すぐにパラマウントとの契約を破棄し、母と一緒にハリウッドに移り、しばらくいくつかの端役をつとめた後、1933年にワーナー・ブラザースの「42nd Street」でブレイク、その後、RKOと契約した彼女は、「Flying Down to Rio (1933)」で、フレッド・アステアと再会したのです。フレッドとコンビを組んで踊ったエキゾチックなダンス・ナンバー「キャリオカ」は大評判となり、ジンジャーとフレッドは、ともに主役クラスの俳優となり、翌34年には、ジンジャーは、RKOと専属契約を結んだのでした。

2人のコンビは、1933年の初共演を皮切りに、1939年までの間に、RKOで9つのミュージカルに出演しました。彼らのダンスは、斬新かつエレガントで誰もまねることの出来ない素晴らしいステップで、ハリウッドのミュージカル映画に革命をもたらしました。何人もの有名な作曲家達が、彼らのために曲を書き、かつてどのような映画でも見られなかったアールデコ調の豪華なセットで撮影が行われました。
「フレッドとジンジャー」といえば、今日でも、比類なき永遠のダンス・ペアの代名詞として知られています。
ダンサーとしての優れた才能に加えて、誰からも親しみを持たれる温かみのある美貌に恵まれたジンジャーは、アステアに勝るとも劣らない人気を獲得していきました。完璧を求めてひたすらダンスに打ち込むアステアと違い、ジンジャーは、演技派女優を目指しており、ミュージカル以外の作品にも積極的に出演していました。しかし、そんな2人が主演するミュージカルも、次第に人気に陰りが見え始め、1939年の「The Story of Vernon and Irene Castle カッスル夫妻」を最後に、コンビを解消しました。

翌40年にはクリストファー・モーリーのベストセラー小説を映画化した「Kitty Foyle: The Natural History of a Woman 恋愛手帳」に主演し、2人の男に愛される独立した女性キティ・フォイルを熱演して念願のアカデミー主演女優賞に輝きました。演技派女優として認められた彼女は、RKOのトップ・スターとして、ヒット・ミュージカル「シカゴ」のモデルにもなった実在の女性ロキシー・ハートを演じた「Roxy Hart(1942)」等、いくつもの映画に出演しました。電車賃を値切るために12歳の少女に扮する女性をコミカルに演じたビリー・ワイルダーの監督デビュー作「The Major and the Minor 少佐と少女 (1942)」では、母親Lelaとの共演を果たしました。 1949年には病気で降板したジュディ・ガーランドに代わって「The Barkleys of Broadway (ブロードウェイのバークレー夫妻)」に出演し、長年のパートナーだったアステアと再共演を果たしました。久しぶりのミュージカル映画だったにも関わらず、ジンジャーは、アステアと共に、息の合った優雅で華麗なステップを披露しました。

その後、活躍の場を古巣の舞台に戻したジンジャーは、1965年には、Broadwayの「Hello, Dolly! ハロー・ドーリー」に、主役のドーリー役の女優が降板した後を引き継いで主演したり、アメリカ国内、カナダ、ヨーロッパをツアーしたりと、ミュージカルを中心に活躍しました。
1972年から1975年にかけては、アメリカのデパート「JCペニー」のファッション・コンサルタントを務め、1985年には、ミュージカル「Babes in Arms」(舞台)の演出を手がけました。また、ウディ・アレン等と共にモノクロ映画のカラー化に反対する運動にも参加しました。

後年のジンジャーは、糖尿病により車椅子での生活を余儀なくされましたが、1991年には自伝『ジンジャー・ロジャース』を出版し、1995年にはウィメンズ・インターナショナル・センターからLiving Legacy Awardが授与されました。
しかし、Living Legacy Award授与のわずか数週間後の1995年4月25日、ジンジャーは、カリフォルニア州のRancho Mirageで、鬱血性の心不全のために83才で息を引き取りました。彼女の遺体は、パートナーだったアステアが眠っているカリフォルニア州チャッツワースにあるオークウッド・メモリアル・パークに埋葬されました。

アステアの実の姉で、舞台時代の彼のパートナーだったアデルを除けば、ジンジャーは、最も多くアステアのパートナーをつとめた女優と言えるでしょう。ちなみに、彼女のBroadwayでのキャリアは、こちらでご覧いただけます。