JAZZ最中

考えてみればJAZZばかり聞いてきた。いまもJAZZ最中。

同人の系譜、引っ越しのいきさつ / 荒地の恋 ねじめ正一

2008-02-25 22:10:22 | 聞いてますCDいいと思う


先週の土曜日から、法事で奥さんの実家に言ってきました。もう春が来てもと思うのでイメージはこのようになりますが、昨日の朝起きたらこのような光景でビックリしたしだいです。



行き返りの電車ではもちろんJAZZを聴いていましたが、久しぶりに読書をしました。車通勤なのでほとんど本を読む暇がとれません。電車では読み出すとすぐ寝てしまうのです。ところが昨日は法事でお酒を飲んで逆に冴えた状態で気になる本を読むことが出来ました。ということで、JAZZのことはお休みで、今日は本の話です。




本棚に古い一冊の本がある。1954年に荒地出版から出た詩と詩論「荒地詩集第2編」である。
最初の詩が1956年初詩集になる田村隆一の“四千の日と夜”7つ目の詩が北村太郎の“ちいさな瞳”他には5番目に鮎川信夫の“シンデンの海”など荒地のそうそうたる同人が名を連ねています。
このとき田村も北村も31才、洋々たる詩人としての出発のころの詩集です。
田村隆一の詩が大好きで、大学生のころに古本屋さんで見つけて本棚に収まっています。
そしてその時代から20年以上たったころから、北村を中心とした同人たちの顛末を描いているのが、ねじめ正一の小説「荒地の恋」です。
田村の奥さんと恋いに落ちる北村と、別の女性を獲得する田村、互いに同人としての絆は変えられず、地獄のような、密接な関係が維持さてていく、同人たちの系譜。
田村たちの詩だけを読む事をしていたので、この本の事を知り、かなりショックでした。田村隆一が常にお酒をのみ、女性に対しても、誰かを支配していないといられないような事は、知っていました。荒地同人とそれをとりまく女性たちとの話は、読んでいてつらいものであります。
本棚にはそれ以後の田村の詩集やエッセイがあります。その中には次のような一文がありました。ちょっと長いのですが引用します。「詩人のノート」昭和51年朝日新聞社刊  “センチメンタル・ジャーニー”北村太郎の同詩を紹介したあと、氏についてつづります。
“北村太郎とは因縁が深い。きわめて深い”
“太郎は「不良少年の夜」という詩を連作しつづけた。
良く勉強の出きる昼の顔と浅草六区を遊びまわる夜の顔を太郎は持っていたという。“つまり太郎は、少年から青年に移る、あの肉体的にも情緒的にもいちばん不安定な時期に、昼と夜との確固たとした二つの世界を所有していたことになる。僕などは、いたって単純だから、いまだに、昼でも夜でもない、ノッペラボーの一つの世界しか持つことができない。北村太郎の詩を読むものは、その根底に、昼と夜の世界が、同時存在していることを、見きわめなければならない。”
この記述が田村によってなされた後に、北村は田村の奥さんと関係を持つようになります。
ところがこのような記述をしている田村はもちろん、北村も自分たちの言葉の内容にしばられながら、その関係がよりどころになります。
同人としてももしくは中学から知りつくした男たちの、離れなれない関係がこの小説の本線です。
そしてそこに登場する女性たちが強く、悲しく絡まっていく日々。北村の立場での語り口ですので、多くを描くことが出来ませんが、事故で亡くなった“生きなかった”といった最初の妻明子、見合いで結ばれたた常識ある治子(治子が狂気を含んでいくところ絶品です。)そして田村の妻明子(こちらも狂気を帯びる)また明子と別れた後の阿子との劣情と女性側からは描かれていませんが、その女性たちは魅力たっぷりです。
北村はこれらの女性の激しい嫉妬から逃れるために、もしくは純粋に共にいたいがために、または疲れ果てて引越しを繰り返していきます。
変な話この本、男がどうしようもなく選んでいく引越しのいきさつのようです。
このような恋愛をするとは思わないのですが、このような引越しをしたくないと変に思ってしまいます。
そして男がどうしようもなく選ぶのは、朽ちていく肉体に気づき始めた精神が求める居直るような刹那。
北村太郎が晩年の一人住まうのは、純粋に自我と、かなわなくなる肉体の葛藤、詩人というロマンチシズムの均衡のようにおもいます。
ただどうしようもない離れられない絆の同人たちと自我を全うしようとする潔さは、地獄のような十数年をたって、亡くなった後に昇華していくように感じて、さわやかさが生まれました。
コメント
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