哲学とワインと・・ 池田晶子ファンのブログ

文筆家池田晶子さんの連載もの等を中心に、興味あるテーマについて、まじめに書いていきたいと思います。

スポーツ観戦

2011-07-24 06:00:00 | 時事
 サッカーにしろ野球にしろ、試合の最初から最後まで観戦するということは今までまずなかったのだが、先日の女子W杯決勝戦は中継で最後まで見てしまった。これを国民的参加と言ってしまうと、以下で引用する池田晶子さんの謂いに斬られてしまうところだろう。しかし、スポーツという虚構は、人生や社会という虚構とも重なるから、一定のルールの中で競い合う時の精神力の発揮の仕方に、何か惹きつけられるものがあるのかも知れない。



「私はサッカーには関心がない。サッカーだけでなく、スポーツ観戦一般がそうである。自分がするならまだしも、他人がしているのを見て、我が事のように一喜一憂する心理が、うまく理解できない。
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以前から言っているが、私が日本人であるというのは、たまたまの属性にすぎない。私が私であるところの私そのものは何者でもない。私だけではない。すべての人が、本来はそうなのである。しかし人は気づかない。自分は日本人である、自分はその国の人間であると思い込んでいて、国が侮辱されると自分が侮辱されたと思って腹を立てるのである。
 サッカーも戦争も、この心理構造は同じである。虚構を現実と思い込んだ人間同士が、「自国の誇りを賭けて」争っているのである。現実の血が流れるよりはマシなだけで、スポーツは明らかに代理戦争である。代理戦争でガス抜きをする知恵とも言えるが、虚構を虚構と自覚しない限り、人間は賢くなってはいないのだ。」(『知ることより考えること』「サッカーはファッショである」より)



 この池田晶子さんの指摘は、オリンピックなどの国別対抗についての指摘だが、敵と味方に分かれるスポーツは全て同じことなのだろう。試合が終わったら「ノーサイド」という言い方をするスポーツがあるが、そういう精神こそがかろうじて池田晶子さんの謂いに沿う。


 ところで、実力に差があってもピンチになっても決して焦ることなく、自分のすべきことをしっかりと行う精神力は、もちろん技術力の裏づけも必要だが、スポーツにおいては、その勝負の結果を左右することもある。


 今回の女子W杯決勝戦を見た後、なぜか「江夏の21球」という古いスポーツドキュメントを見たくなってしまった。九回裏無死満塁という絶体絶命のピンチをどう切り抜けたか、そこで見られた選手や監督等の精神的な戦いの姿は、スポーツの違いを越えて、重なるものがあるのかもしれない。