哲学とワインと・・ 池田晶子ファンのブログ

文筆家池田晶子さんの連載もの等を中心に、興味あるテーマについて、まじめに書いていきたいと思います。

好かれていたい(週刊新潮今週号の「人間自身」)

2007-02-05 00:51:25 | 哲学
 池田晶子さんの週刊新潮連載「人間自身」今週号は、「好かれていたい」という題でした。



「人は、自分のことを好きだと言う人のことを好きになる。嫌いだと言う人のことを嫌いになる。

 例えば、お世辞を言うと、人は喜ぶ。誉められると、人は嬉しいと感じる。お世辞を言うのは、その人の歓心を買うためだ。この人は自分のことが好きなのだと思わせると、その人は自分のことが好きになる。自分が好かれたいがために、人は人のことを良く言うのだ。

 好かれたくて嫌われたくないのが、人の世の原理なのである。他人にどう思われるかが、自分の行為の基準なのである。

 しかし、自分が自分であるということと、他人に好かれるか嫌われるかということは、全然関係ないのではなかろうか。自分の側にも、好きな人間と嫌いな人間がいる。それと、その人間が自分を好いているか嫌っているかは関係がない。その人間はそう思い、自分は自分で勝手にそう思っているだけだからである。」




 好かれたくて嫌われたくないのが人の世の原理、と言われれば確かにそうです。嫌われるより、好かれるのがいいに決まってます。

 ただ、好かれるにせよ嫌われるにせよ、その理由があったりなかったりします。また理由があっても、とくに嫌われる場合、納得できる理由とはいえないことも多いような気もします。

 そういう意味では、嫌われている場合は「自分は自分」と思って放っておけばいいわけですね。


 一方で「好かれる」場合、その人に対しては悪く思わないのが通常です。それだけであれば、あまり問題ではないと思うのですが、池田さんが問題にしているのは、好かれることなど他人にどう思われるかが自分の行為の基準である場合です。


 確かにいじめの問題でも、自分がのけ者にされたくないから一緒にいじめるとか、他人の自分に対する評価を気にしての行動は世間で多く見られます。もし他人の自分に対する評価を気にしなければ、もっと自由に行動できるのではないか、と言えるような気がします。