哲学とワインと・・ 池田晶子ファンのブログ

文筆家池田晶子さんの連載もの等を中心に、興味あるテーマについて、まじめに書いていきたいと思います。

広告きらい(週刊新潮今週号の「人間自身」)

2007-02-19 04:40:00 | 哲学
 池田晶子さんの週刊新潮連載「人間自身」今週号は、「広告きらい」という題でした。こういう話題は、どうしても中島義道さんを思い出します。哲学者は一般的にこういうことに鋭敏なのでしょうか。



「人は、巷に氾濫しているこの「広告」というヤツ、その厚かましさが平気なのだろうか。
 たとえ短い間であれ、その広告を見せられる、読まされるその間、間違いなく意識はその広告に占拠されている。そしてその広告の商品というものも、改めて考えてみれば、本来自分には何の関係もないものである。
 いかなる関係にもない物品に、いきなり関係づけられて、それを意識させられる時間というのは、私の人生の本来にとって、無駄な時間である。
 非本質的なことに関係づけられて、切れ切れに存在する意識というのは、積み重なればけっこうになる。買え買えと耳元で連呼されても平気な鈍感さは、人生を売り渡しているに等しいと感じる。」



 商業広告の存在する環境は、自由経済社会の原理に慣れきった私たちにとっては、結構当たり前となってしまっています。広告によって新しい商品を知ったり、便利さの享受可能性を知ったり、結構役に立つ場合もあると感じているのが普通でしょう。

 しかし池田さんに言わせると、そもそも新しい商品を広告で知る必要もないし、今の生活をさらに便利にしようと思ってもいない、広告なんぞ無意味の極み、ということになるのでしょう。

 しかも池田さんは、広告を意識させられる時間が、人生の本来にとって無駄な時間である、という言い方までしています。意識=精神=考えることを、安易に使ってしまわないという日常の強い姿勢が伺われます。


 無駄な時間という言い方は、自由経済社会の原理に慣れきった私たちにとっては、費用対効果の意味で捉えがちです。つまり時間というコストを使って、どの程度の満足度を得るか、ということですね。例えば、広告を10分見てしまうより、10分読書をした方がいいとか、休みの日に何をして過ごしたら有益だとか、時間をコストとしてその比較で有益性を考えがちです。

 ところが池田さんが言っているのは、時間そのものをどう使うかというよりも、人生そのものが一回限りの有限なものなので、意識=精神=考えること自体が時間的に人生の有限性に拘束されている。だから、広告を見るとかの無駄な意識作用を避けないと、一回限りの人生で本質的なことを考える時間がどんどん少なくなるということでしょう。

 池田さんにとっては、考えること自体が絶対的有限な資源である、と言い方が適切なのかもしれませんが、「資源」なんて言ってしまうとまたもや経済原理的でいけませんね。