池田晶子さんの最新刊『人生のほんとう』の新聞広告において、読者のアンケートからでしょうか「年齢の章が爆笑もの」とあったので、その「年齢」の章をちょっと読み返してみました。
そもそも池田さんの本質的な転倒的言質は、確かにおかしくて笑えるものではあります。とくに「年齢」のところでは、アンチエイジングにいそしむおかしさ、つまり若さを至上の価値とするおかしさをあざやかに指摘しています。「加齢とは単なる事実である。鶴亀でも年をとる」と言われると、当たり前すぎて確かに笑えます。
ただこの本は講演の記録ですので、リップサービス的な部分があるのか、池田さんらしくない言葉もやや多いように思います。いや、むしろ池田さんも年とともに考えが熟成してきたと言った方がいいのかも知れません。
例えば「年齢」の章の最後では、池田さん自身がボケへの恐怖を語っておられますが、かつては「ボケてもその人が思うこと以外の言動がありえるだろうか」と、ボケても人間の同一性に違いはないではないか、というような本質的な言質を仰っていました(確か『帰ってきたソクラテス』)。今回の本では、既に現状でボケているようなもんだ、という落ちで終わってましたが。
同じく「年齢」の章で、自分の肉体との折り合いをつけることについて、「形而中」なんて言葉を使われていたのも、少し新鮮でした。池田さんはかつては、真理=ロゴスは老若男女に共通という点で、本質的に形而上の思考により形而下の存在を考える形式が基本だったように思います。だから、池田某、つまり何者でもない者の言動であったわけですが、一方で病気を克服したりして自分の肉体と折り合いをつけていく過程が、精神が肉体を全く離れて存在するとも言えない存在の一回性(人生の一回性)であることを、形而上ともいえない「形而中」なんて言葉にされたのでしょうか。
池田さんが何を考えているのか、やはり気になりますね。
そもそも池田さんの本質的な転倒的言質は、確かにおかしくて笑えるものではあります。とくに「年齢」のところでは、アンチエイジングにいそしむおかしさ、つまり若さを至上の価値とするおかしさをあざやかに指摘しています。「加齢とは単なる事実である。鶴亀でも年をとる」と言われると、当たり前すぎて確かに笑えます。
ただこの本は講演の記録ですので、リップサービス的な部分があるのか、池田さんらしくない言葉もやや多いように思います。いや、むしろ池田さんも年とともに考えが熟成してきたと言った方がいいのかも知れません。
例えば「年齢」の章の最後では、池田さん自身がボケへの恐怖を語っておられますが、かつては「ボケてもその人が思うこと以外の言動がありえるだろうか」と、ボケても人間の同一性に違いはないではないか、というような本質的な言質を仰っていました(確か『帰ってきたソクラテス』)。今回の本では、既に現状でボケているようなもんだ、という落ちで終わってましたが。
同じく「年齢」の章で、自分の肉体との折り合いをつけることについて、「形而中」なんて言葉を使われていたのも、少し新鮮でした。池田さんはかつては、真理=ロゴスは老若男女に共通という点で、本質的に形而上の思考により形而下の存在を考える形式が基本だったように思います。だから、池田某、つまり何者でもない者の言動であったわけですが、一方で病気を克服したりして自分の肉体と折り合いをつけていく過程が、精神が肉体を全く離れて存在するとも言えない存在の一回性(人生の一回性)であることを、形而上ともいえない「形而中」なんて言葉にされたのでしょうか。
池田さんが何を考えているのか、やはり気になりますね。
池田さん特有の言い回しに、「この世の平面から垂直に立ち上がる」というのもありますね。いわば、この立ち上がる瞬間が形而中なんでしょうか?