哲学とワインと・・ 池田晶子ファンのブログ

文筆家池田晶子さんの連載もの等を中心に、興味あるテーマについて、まじめに書いていきたいと思います。

核の行方(週刊新潮今週号の「人間自身」)

2006-08-06 06:52:50 | 哲学
 池田晶子さんの週刊新潮連載「人間自身」今週号は、「核の行方」という題でした。冒頭に、「人間の歴史とは、ある意味で、戦争の歴史である。」とあります。確かにそうとしか言いようがありません。そして、これからもそうであろうとしか考えようがありません。



「技術が存在するということは、すなわちそれを利用するということである。作られた核兵器は必ず使われる。
 あの国(北朝鮮)は核を持っているらしい。一方で、標的とされたこの国(日本)は、武力は決して使用しないという世界にも例のない憲法を所有し、かつ遵守する。開発した技術を使用し、自らの生存を守るのが自然であったはずのこの人間の歴史において、これはきわめて不自然なことではなかろうか。
 北朝鮮に攻撃された日本が、この不自然な理念に従って反撃せず、そのために滅んだとしたら、画期的なものとして、人類史に永く語り継がれるはずである。」




 新潮誌上だからか、何だか櫻井さんの極右的文章に通じる内容のように見えますが、よく読めば池田さんの文は飽くまで無味無臭です。しかし池田さんのこの文を読んで、哲学者も憲法がおかしいと言っている!として、憲法改正集会に池田さんを呼ぼうという人が出てきたりしそうですね。もし呼ばれると、いきなり池田さんは「国家は観念に過ぎない」と発言したりして主催者をびっくりさせ、二度と呼ばれなくなったりするわけです(あくまで想像ですが)。


 核の抑止力としての使用も、使用であると池田さんは言っており、決して爆発までさせなくても、既に核も使用されているとも言えそうです。しかし、爆発させるぞという脅しが抑止ですから、いつ実際に爆発させてもおかしくない、と言っているわけですね。あの『博士の異常な愛情』のような事態は、過ぎ去った危機とは言えないかも知れません。

 戦後60年核戦争がなかったと言っても、池田さんの文の方の文末にある通り「人類や宇宙の歴史からすればほんの一瞬」ですから、もう核は使われなくなったと断じられるのは、人類が滅亡したときしかありえないのでしょうか。